12〜16世紀の西ヨーロッパを中心に「錬金術」と呼ばれる学問が流行した。現在でこそ錬金術は陳腐化し、日本では単純に魔法的な手法による卑金属加工、あるいは魔法的薬学の一環といったイメージでしか知られていないが、
しかし実際には錬金術は化学、医学、自然科学等、様々な分野に派生する根底にもとなったと言われている非常に広範な体系であった。
本書では錬金術の持つ基本概念や理論と特殊な用語について、また錬金術という学術が人類史に対してもたらしてきた歴史的経緯とその意義について述べるものである。
錬金術は主にヨーロッパ古代から中世にかけて繁栄してきた学問の一流はであるというイメージが強いが、実際に西ヨーロッパを中心とした錬金術の流行は、錬金術史においては終期の一部に過ぎない。 歴史的体系を詳細に述べた場合、それは極めて複雑な様相を呈して、錬金術や神秘学に限らず他の各分野とも関わりをもっている。 よってここで挙げられるものもあくまで一側面から捉えた概要であり、流れを掴む為の暫定的なものである点に留意されたい。
Alchemyの語源はアラビア語の「al-kimia(黒い大地)」、これは肥沃なナイル沿岸の土地を持つエジプトを指すという説があるように、錬金術の源流はエジプトにあるといわれている。
そして錬金術はエジプトと当時交流があった古代ローマ帝国の勃興と共にヘレニズム文化の流れを受けて周域に波及(かの有名なアレキサンドリア図書館の影響によるところ大きい)。
錬金術思想はギリシャにも伝わり、一方で錬金術もギリシャ哲学の影響も色濃く受けることになる。
アレキサンドリア時代の錬金術体系については「ライデンパピルス」や「ストックホルムパピルス(※4)」により一部判明しており、
代表的なものとしてはミイラに用いる死体保存薬、炭酸ソーダ、石鹸、電池など薬品調合法などがある。元々が専門職の知識に相当したが、さらに神官が携わる神秘思想、占星術も影響を及ぼして秘儀的な様相を帯びる。
»有名な錬金術師:「ヘルメス・トリスメギストス」「ゾシモス」
ギリシャからのネストリウス派キリスト教徒が東方に移動したことでアラビア人に錬金術が伝わり、ペルシャ王朝やオスマン帝国の勢力拡張によって成熟したイスラム文化によって育まれた時代。
この間にギリシャおよびローマを中心とした錬金術は西ローマ帝国の滅亡にあわせて滅んでしまう。
錬金術の専門用語の多くがアラビア語から引用したラテン語なのは、この時代に記された多くの著書から錬金術が体系的に洗練された形に整えられたことに起因するとも言える。
»有名な錬金術師:「ジーベル」「アヴィケンナ」
アラビアで育まれていた錬金術が再びヨーロッパで花開いた時代。その伝達経路については様々な諸説がある。当時建造されたスペイン大図書館を通じてとも(当時スペインはイスラム領下にあった)、
ヨーロッパ各地に出現するようになった流浪の民族ジプシー(※1)を経て伝わったとも、あるいは東洋の道教思想や練丹術の系統がシルクロードを渡って伝来したものとも考えられている。
いわゆるヨーロッパ暗黒時代を抜けた13世紀から当地では商業経済が発達し貨幣価値が高まった。そのために黄金錬成を可能とする錬金術の発想が需要とともに高まり、錬金術師に求められる方向性も大きくその形を変えた。
現在一般に知られている錬金術のイメージ、すなわち黄金を作り出し、不老不死を研究し、ホムンクルスという人造人間製造に傾倒するといったものは概ねこのスコラ錬金術の形を代表するものと考えてよいだろう。
»有名な錬金術師:「ロジャー・ベーコン」「ライモンドゥス・ルルス」「トマス・アクィナス」
ルネッサンス運動の全盛期により、古代ローマならびにギリシャ文化の再評価がなされたことを端緒として古代の錬金術に関する知識と技術が復活する時代。
特にこの時代、あらゆる専門知識は、当時にドイツで完成をみた活版印刷による製本技術によって爆発的な拡大を遂げたわけだが、錬金術もまた例外ではない。
各分野知識と技術を吸収し広範な分野に適用された錬金術はやがて、特に観念的あるいは神秘主義的な錬金術の隆盛をみる一方で、分野に内包されていたいくつかの専門技術は別分野へと移行する急激な変化を迎える。
ガラスや金属精錬、医薬品の製造などは各々、鉱物学や医学分野へと別の形へ発展する一方で、錬金術のもつ理論のいくつかが実存主義の下で否定されていった。
とはいえ物理学者ニュートンや、心理学者ユングなど高い知識を持つ者の中には錬金術が内包する真理を洞察してそれらの研究をなお進め、次代へと継承される様々な見地と考察を残していった点も付記しなければならないだろう。
»有名な錬金術師:「パラケルスス」「アグリッパ」「ニコラ・フラメル」
錬金術というものを解釈するにあたって、それが学問の一流派であるという考え方で錬金術を理解することは難しい。 何故なら錬金術の最終目的とは決して黄金を造りだすことや人造人間を作ること、不老不死の薬をつくることなどではなく(それは目的に対する過程や手法の一環に過ぎない) “世界の成り立ちの探求”であり、それこそおよそほとんどあらゆる自然科学というものがもつ最終目的でもあるからだ。 これは歴史的に錬金術という分野が後における化学、生物学、天文学、哲学など様々な分野の根底であることに由来する。 故に錬金術に関しては多くの学派が存在し、長い歴史と広い地域といった時代背景においてあまりに多岐にわたる様々な理論が存在してきたことについても留意しなければならない。
それを踏まえたうえで、錬金術の長い歴史上で最も研究が重ねられてきたのは、エメラルド板(※1)に記されている錬金術の秘儀「王者の技(アルス・マグナ)」である。 そこには世界の物質構成に関する法則性が書かれており、錬金術師の多くはこれら王者の技の再現によって“物質がどのように構成され、 どのような形で変化をし、どのようにすれば創造できるのか”ということについて研究を重ねており、錬金術の著書にはそのための様々な理論が提唱されている。
まず世界は最初、混沌(カオス)しか存在しなかった。神はその混沌に様々な性格(素質)を与えることによって、1つの混沌から数多くの物質を創り出してきたという背景から導かれる物理構成の論理である。 この混沌を錬金術では「第一物質(プリマテリア)」と呼び、この世のあらゆる物質は第一物質と“神が与えた性格”によって構成されているといわれる。 逆に考えれば、既存の物質から内在する素質を分離することで第一物質へと変換が可能で、さらにはこの第一物質に素質を加えることで別物質への再変換をができるという理論は錬金術師にとって一般的であった。 この素質のことを錬金術では流派や著書や時代に応じて「形相」や「種子」と呼んでいる(本書では便宜的に「形相」と呼称を統一する)。
形相には4種類があり(※5)、それぞれを「土」「水」「火」「空気」としている。この4種類の形相の考え方は昨今のファンタジーの地水火風の概念として一般的にも知られている概念であるわけだが、
元々それを論として確立したのが著名な古代ギリシャの哲学者アリストテレス(正確には基礎理論はエンペドクレスが築いたものだが)であることはあまり知られていないようである。
そして各々の形相には以下のような2つの働きが並列して備わっていると考えられていた。
・土:“湿る+熱する性質”
・水:“湿る+冷める性質”
・火:“乾く+熱する性質”
・空気:“乾く+冷める性質”
全ての物質の構成はこのような形相の組み合わせと比率によって形作られている、ということが錬金術における基本概念である。
そして錬金術師は形相の比率と働きについて理解を深めることによって、上述のように第一物質からどのような 物質を作り出すことができるかを正確に把握することや、
その形相のバランスが崩れることによって発症してしまう病的状態(人間や生物の病気や死もこの調和の崩壊に要因がある)を回復するための処方について考えられるのである。
前述されている四元素のほかに、アラビアの錬金術師ジーベルおよびアヴィケンナによって提唱された3つの原質(原素)という作用が存在することについても、錬金術では重要な理論となっている。
これは上述のような四元素の混合比によって構成されている物質に対して、その物質が経年によってどのような変化をするかという働きを担う。錬金術師にとって三原質とは“物質に対して影響を与えるために用いる触媒”といったところだろう。
錬金術師の一般的なイメージとして魔女よろしく鍋や坩堝をかき混ぜ、試験管やフラスコで怪しげな液体を蒸留する作業は、魔女のような膏薬を作るためではなく、
原質が満たされた液体中に物質を投入し、適切な熱を与えて原質の作用から別物質へと変成する作業なのである。
三原質の働きは以下の3つがある。
・硫黄:“燃えたり腐食する能動的作用をもたらす”
・水銀:“能動的作用を封じる受動的作用をもたらす”
・塩:“両者の中間にあって固定された作用をもたらす”
ジーベルとアヴィケンナはその数多くの著作の中で、3つの原質を適切な比率で与えることからどのような物質でも黄金(あるいは黄金のような完全さを持ったもの)に変換可能であるものとし、
逆に黄金以外の物質は不完全であると示していた。そしてこの不完全状態は病的であると考え、錬金術は不完全を完全なものへ「救済」する技術と位置づけている。