夏草一葉 9
忍術学園ではじわじわと事が動き始めていた。
が、表面だっては平和な日常と何ら変わらない。
一月半以上も出張していた土井先生は戻って来たものの、腕の怪我のせいで授業がで
きないため、まだしばらくは大木雅之助先生が“は組”の教科の授業を受け持ってくれ
るらしい。
生徒のボケにいちいちつっこみを入れない分、大木先生は授業の進みが早い。は組の
生徒達は、全力でつっこみを入れてくれた土井先生の姿を、時々黒板前に思い浮かべた
りしていたのだった。
「がんばって勉強しているようだな。感心、感心」
きり丸達三人組と廊下で擦れ違った土井半助が笑顔で声をかけてくれた。
「先生、早く怪我が直るといいですね」
「土井先生の怒った顔見ないと、授業って感じしないもん」
生徒の軽口に半助は少し困った顔を見せながら、しばらくぶりの生徒との立ち話を楽し
んでいるようだった。右腕を肩から布で吊っているが、顔色などは悪くない。
授業の鐘が鳴り「遅れるから急げよ」と乱太郎達をせかしてから、半助は庵の方へと
向った。
その背中をきり丸が見つめたまま動かないでいる。
「早く行かないと、授業はじまっちゃうよ、きり丸」
走りかけていた乱太郎が、動こうとしないきり丸を心配気に振り返った。
「悪りい、ちょっと先に行っててくれないか?」
「でも・・・」
「頼むからさ」
振り返ったきり丸の目に凄みすら感じて、乱太郎は小さく頷いた。きり丸を一人にする
事に不安を覚えたが、半助の事を考えているであろう時のきり丸には、どうしても立ち
入れない。
乱太郎は口の中に広がるほの苦さに心を揺らして、足早にきり丸から遠ざかる。
離れの庵の襖越しに感じる気配には、特に不審なものはないようだった。
手入れの行き届いた庭と縁側に、ほかほかと暑いくらいの日差しが差し込んでいる。
きり丸は周囲に人のいない事を確認すると、土井半助の向かった庵の陰に身を潜めて
いた。だが、
「やはり来たか、きり丸」
庵の中から聞き慣れた声に呼びかけられた。
最深の注意を払って忍んでいたきり丸は、ひとつ溜め息をつくと、きつくなっていた
はずの目を隠すため軽い笑顔
を作った。
「気付いてたんすか〜まったく人が悪いんだから」
襖をそのままの調子で開ける。
「・・・・・」
庵には、山田伝蔵、利吉、学園長と、そして・・・
二人の土井半助が並んで座っていた。
「やはりきり丸には分かってしまうのだな」
伝蔵の言葉に漸くきり丸は、やはり・・・と思う。
乱太郎達は気付いていないようだったが、先程会った土井先生は本物ではなかった。
「けっこう自信あったんですけどねえ」
二人の土井半助のうち、右手に座していた一人がそう呟いた。
「どのあたりで私で無いと気づいたんだ?」
本物の半助にそう尋ねられたが、何処が・・・と言われても実は分からない。空気に伝
わる、半助独特の何かが無かったとしか言いようがない。今、目の前にいる本物の半助
は無表情に近い。それでも、半助を包む透明感のある何か、が、微妙に変化してゆくの
を感じられる。
同じ事を考えている者がこの場にいたので、きり丸は試されたのだろう。ふっと向け
られた半助の視線の先に山田利吉がいる。忍びの顔をした利吉は、表情を全く読ませな
い。
それにしても、偽物とはいえもう一人の土井半助はよく
出来ていた。多分、他の生徒には偽物だと気付かれないかもしれない。
「鉢屋三郎先輩ですか」
去年卒業した変装の天才鉢屋三郎は、任地の城から駆り出されてここにいる。その城も
やはり、あの葉月城の狩り遊びの被害にあっていた。
「鉢屋には時々半助と入れ替わってもらう事があるのでな、他の生徒達に分からな
ければそれでよいのだが、長くなるかもしれん。行き届かない時はきり丸がさりげな
く助けてやってくれ、頼んだぞ」
山田伝蔵がやんわりと声をかける。
この作戦は六年の一部を除く生徒には知らされる事はないらしい。きり丸は一生徒で
ありながら学園の機密にかかわる大事を許されたことになる。これはかなりの待遇だっ
た。
土井先生を今度こそ・・・・
腕を上げている自覚のあるきり丸は、力に満ちた視線で、まだ見えぬ敵を虚空ににらみ
つけていた。
いつもの通りの日課が終わり、生徒達が寝静まった頃、
夜のしじまにさわさわと蛙の鳴き声が響いてゆく。
夜着に軽く子袖を掛けた姿の半助は、小さな明かりを灯して宿舎の見回りをしていた
ふと、影が視界に入る。
「きり丸・・・・」
細く開けた襖から、もの言いたげな表情のきり丸が覗いていた。
互いに目線が合うと、半助が少し笑ってうなづいた。通り過ぎる後をきり丸が追って
ゆく。
二つの影は、ひと気の無い用具室前の縁側に座して、湿った大気に瞬く星をしばらく
眺めていた。
「かなり腕が上がったなあ、きり丸は。演習をちょっと見せてもらったぞ。山田先
生も大木先生もすごく褒めておられた」
「へへっまあ、何てことはないっすよ」
学園に半助が無事な姿を見せてくれてから、きり丸はようやくこうして、ひととき土井
先生を一人占めすることができた。先生の声は怒っている時でさえどこか甘くて、褒め
られたりなどするとくすぐったくて仕方ない。
「いろいろと心配かけてすまなかったな」
ぽつりと半助がつぶやく。
「・・・・・」
いままでの思いが自分を崩してしまいそうで、きり丸はゆらゆら揺れる星を見上げた。
言ってやりたい事は山のようにあったはずなのに、言葉にすると半助が消えてしまいそ
うな気がする。
今、自分の隣に土井半助がいる。星明かりに静かな笑みを浮かべているのだろう。
存在する暖かみが、ほんのりと空気を伝わってくる。
今はこれ以上を望みようがない。
「今回の件で、またお前を巻き込んでしまうな」
「俺は・・・仲間にしてもらえたんだと思ってるんです。だから嬉しい」
「そうだな・・・・」
「先生、俺・・・がんばるから」
「・・・あんまりはりきるなよ、あくまでも鉢屋の補助が役割なんだからな、力み
過ぎれば逆にお前が怪しまれる」
「う・・・わかってますよ」
少々出鼻をくじかれて、きり丸は久しぶりに子供っぽくすねてみせた。
「与えられた任務は確実にこなせよ、失敗するな、予定外の行動は絶対にするな、
命令無視と同じ事だからな。命令無視は絶対に許さない」
半助が冷たく追い打ちをかける。しばらく会わないうちに土井半助という人を美化して
しまっていたかもしれない。確かにこういう意地悪な人だったよな・・・。
だが、ふてくされるきり丸に、半助は余裕の笑み。
「仲間、である事の最低限の条件だ。そうだろう?」
ごくり、ときり丸が唾を飲む。瞬間に生まれた複雑な感情を言葉にしかねていた、その
時
「!」
突然間近に現れた気配に背筋が凍った。ここまで近づかれて、今まで全く気付かなかっ
た。影に溶け込んだように立つ人物に、きり丸は殺気を放つ。
「何驚いているんだ?さっきからここにいたじゃないか」聞き慣れた冷たい声は、山
田利吉のものだった。
「利吉さん・・・」
「土井先生、見回りが終わられたのでしたら早く休まれ た方が良いですよ。まだ治
った訳ではないんですから」言外にきり丸を制して、いつの間にか利吉が半助を支える
ように寄り添っている。
「何・・・睨んでるんだ?」
冷笑する利吉の唇が半助の髪に触れたように見えた。
「利吉さん!」
「利吉くん、私は大丈夫だから、もう少し見回りをしたら部屋に戻るよ。きり丸も
もう寝なさい。明日からは極秘任務があるんだからな」
半助の言葉はやわらかく優しく、二人の緊張した空気を解いてゆく。きり丸は半助にお
休みを言うと、素直に部屋へと戻っていった。一度だけ振り返ると、闇にほの明るく、
半助の姿がある。利吉の姿はまた闇に溶けて、半助を守っ
ているのだろう。
八重歯を強くかみ締めて、それでも今は半助を守ってくれる者を、きり丸は肯定する
しかなかった。
「夜風はあまり体によくありませんよ。早く部屋にもどってください」
「利吉くんこそ、いくら闇夜だからって変装もしないで出歩いていいのかい?」
利吉は作戦の半ばまで、その姿を隠す事になっている。
「あなたこそ、本調子じゃないのに」
影から腕が延びて、半助の左腕を強くつかむ。そのまま引き寄せようとして、・・・す
るりと抜け出されてしまった。
「先生・・・」
最初それを拒否、と、受け取らなかった利吉は、半助の表情を見て息を飲んだ。
半助は・・・ひどく冷たい目をしている。
「きみには、きみの役割がある。作戦は既にはじまっているんだ。余計な事は・・
・しなくていい」
「・・・っ・・」
あの優しい半助とは思えない冷徹な声が、利吉を足元から恐怖させた。それから怒りの
感情が沸き、同時にすがりつ
いてしまいたい衝動が感じられた。
「わたしは・・・あなたを・・・」
「守らなくていい」
そう言い放って、半助は踵を返す。
「きみも・・・早く休みなさい」
「・・・・・」
利吉は言葉も無く、その気配ごと姿を消した。利吉に当てられた隠し部屋へと戻って行
ったのだろう。
「利吉くん・・・」
今の半助の表情を利吉が見ることを許されていたら、迷うことなく半助を抱き締めてい
ただろう。
闇夜に清洌な星が輝く
きみは私を守らなくていい。
きみの生きる目的を、そんな事に使ってはいけない。
「この先、命でもかけられたら・・・たまらない」
もし、そう利吉に告げたとしたら、自分だって守るために命を捨てようとしたくせに、
と、きっとひどく怒るに違いない。
我がままなようだが、自分はいいのだ、自分は。
利吉が慕っているのが“優しい半助”なら、それを捨てれば話しが早い。一時だが想い
は遂げさせた。だからきっと
悲しむのはそんなに長くはないだろう。
きみはこれからなんだから・・・・
湿り始めた大気が傷をずきずきと痛ませる。斬られた肩は右腕を動かすとつきぬけるよ
うに痛んだ。右手の指も痺れが取れない。
・・・少し・・・いらいらする。どうしてこんな事になっているのだったろう。
始まらなければ、変わることも、終わることもなかっただろうに。
夜空に細い、すじのような雲が微かにかかる。雲は大気の歪みの現れだ。
雨がやってくる・・・・
半助は痛みを堪えるようにうつむき、瞳を閉じた。