夏草一葉 12
青と緑の幽霊の噂が学園に広まったのは、それから直ぐの事だった。
「なあ、また出たんだってさ!今度は裏手の森に」
「やけに派手な色の忍び装束の二人なんだろう?幽霊なんかじゃなくって、本物の
忍者じゃないのか?」
「でもだったら先生方が何も警戒しないのはおかしいじゃないか」
は組も突然出没し始めた二人組の忍びの話題で盛り上がっていた。
袖無しの装束に顔を布で覆ってその余りを長く背に残し、下の方で結んだ髪を靡かせ
た二人の謎の人物。
衣装の色も一人があでやかな緑色、もう一人は明るい青と忍びにしてはやけに目立つ
のに、目撃した生徒が上級生であっても追いかけると姿を見失ってしまう。それで幽霊
じゃないのかと噂されていた。
が、その噂もある事件をきっかけに事実が公表される事となった。
その日、乱太郎と小松田秀作が倉庫裏の小道を通っていたその時
「うああああああ!!」
ドサリ、と鈍い音と共に、倉庫の屋根から人間が落ちてき
たのだ。濃い枯れ葉色の見た事の無い忍び装束を身に纏ったその男は、乱太郎達の足元
でぴくりとも動かなかった。 血の匂いが次第に強くなってくる。小松田にしがみつか
れて身動きの出来ない乱太郎の前に、青と緑の幽霊は音も無く姿を現した。
緑の装束の忍びが、恐らく絶命しているだろう男の身に少し触れると、青い忍びに沈
黙のままうなづく。それを確認して青い忍びが何か合図をすると、何人かの人影がぱら
ぱらと現れた。
「滝夜叉丸先輩!」
六年生の見知った顔を見てとって、乱太郎は声を上げた。
が、滝夜叉丸はそれには答えずに
「ご苦労さまです、後始末は我々がやっておきますので」
慣れた様子で幽霊達に話しかけている。
「・・・たのんだぞ」
青い忍びが初めて声を発した。感情を殺した低くて酷く冷たい声で、人間の声でこんな
にゾっとしたのは乱太郎も小松田も初めての事だった。六年生もそれは同じようで、緊
張してごくりと唾を飲む様子が良くわかった。
遺体となった男を運び始めるのに気を取られた僅かの間に、二人の幽霊の姿は消えて
いる。
そして、二人の正体について、その後学園から生徒達に正式に発表が成された。
驚いた事に、理由ははっきりしないのだが、学園の生徒が葉月城の忍びに狙われてい
るのだという。二人の忍びは学園に侵入した敵を捕らえるため雇われた忍者であるが、
敵が彼等に化ける場合もあるため不用意に近づいてはならないという。
さして警戒する必要は無いが、生徒の単独行動及び外出はしばらく謹むようにと、そ
のくらいの注意がなされて、大川の話しは終わった。
しかし、乱太郎にはふと疑問に感じた事がある。僅かに垣間見た青い装束の忍びの目
が・・土井先生の目に似ていた気がしたのだ。
が、その疑惑も間もなく晴れてしまった。
乱太郎が実技の授業中に山の中でもう一度その忍びに出会った時、付き添いで土井先
生も来ていたのだ。
他の生徒の話では土井先生は自分達とずっと一緒だったという。似ているけれど青の
忍びと土井先生とは違う人なのだ。
乱太郎と行動を共にしていたきり丸にもちょっとだけその話しをしたところ、「全然
似てない」と言われてしまった。そう言われるとそう思えてくるし、他ならぬきり丸が
そう言うのだから・・・確かなのだろう。
「なあ、乱太郎、どうしたら俺も会えるのかなあ」
「六年生の話しだとすっごい強い忍者なんだってさ!俺も見てみたいなあ」
二度も青の幽霊に出会う事が出来て、乱太郎は他の生徒から随分とうらやましがられた
「べつに私だって会おうと思って会えた訳じゃないんだから、たまたまだよ」
「こらあ!お前達、今は授業中なんだぞ!無駄なお喋りはいかん!」
山田伝蔵の雷が落ちて、生徒達はあわてて途中だった罠作りの作業に戻る。生徒が狙わ
れているとは言うものの、授業も先生もいつも通りだった。
森を抜けると緩慢な斜面が広々とした見通しのいい野原になっている。
空は見上げるのが痛いくらいに晴れ渡っていて、野原の一筋の小道には長雨続きでと
ころどころに溜まった泥水が空を映して真っ青に染まっていた。
夏の野の花がちらほらと咲き、よどみ無く広がる草波は風を受けて金色に輝く。
生徒達には「ここに罠を作るとしたらどういったものが
良いか」という課題が与えられたのだが、考えるだけのそれは実質休憩が与えられたの
と同じだった。
「こんなにいい天気の中じゃあ、怪しい企みなんか考えるのも馬鹿馬鹿しくなっち
ゃいますよねえ」
少し小高い場所にきり丸と土井半助が二人並んで腰を降ろしていた。
「そうだなあ・・今日みたいな日はきっとどこも戦を休んでるんじゃないかって気
になるよ」
のんびりとそうつぶやく土井半助に、生徒達が適度な距離をとっているのを全員分確認
してから、きり丸は声を潜めて話しかけた。
「土井先生になるって・・・どんな感じなんですか?」
「それは鉢屋三郎としての俺に聞いているんだね」
鉢屋三郎は姿も声も土井半助のままだが、印象が少し変わった気がした。
本当ならこんな事聞いてはいけないのだろうけれど、今は守備も堅く警戒を少しなら
解いてもかまわないと判断した。
土井半助の姿をして土井半助と同じ言動をするこの人は、けれどきり丸にとっては土
井半助では無かった。
では自分にとって、ドイハンスケって一体何なんだろう。鉢屋三郎の土井半助の側に
いる度、きり丸の中に生まれる
疑問に、もう抗い難くなっていたのだ。
「怖い人だと感じるね」
「怖い・・・人ですか・・」
「誰かになるって事はさ、その相手にかなり深いところまで同化できないと駄目な
んだ。在学中に色々な先生を 試してみたけど、土井先生が一番難しかった。読ませな
い部分が多すぎて苦手な人だね」
「先輩は・・そんなに色々な人になりきってしまって、自分てものが分からなくな
っちゃったりしないんですか ?」
「かなり深くなりきる時は自分てものが対象の人物と全く同化しているのを感じる
んだけどね、自分が分からな くなる事はないんだ。どうしてだと思う?」
どうしてと逆に問われて、きり丸は素直に分からないと答えた。すると更に質問される
「きり丸くんは好きな人はいるかい?」
「えっ・・・」
問われて咄嗟に頭に浮かんだ人物に、きり丸は思わずうろたえてしまった。
「俺もきみも、誰だって、自分になろうと思って生まれてくる訳じゃないだろう?
場所だって両親だって自分の 姿だって生まれて来る時は選べない。運命というか偶然
というか、たまたまそこに生まれてくるんだ」
「・・そうですね」
きり丸はもう記憶から殆ど薄れてしまった両親の姿を思い起こした。
優しくて強くて・・・なのに永遠に失われてしまった愛しい人達。自分を確かに産み
出してくれた存在。
「でももしかしたら、全然違う自分に生まれていたかもしれないだろう?違う国、
違う親、違う暮らし、違う姿、 違う運命・・・そしてそんな自分が出会う人も今とは
まったく違う人達なんだ。つまり、もしきり丸くんがきり丸くんでなかったら、き
みが一番好きなその人には出会えなかったかもしれない」
「・・・・あ・・」
「俺だってそうだ、俺が俺じゃ無かったら、あいつとは出会えなかったかもしれな
い。もちろんあいつに出会わなくても、違った人間を一番大切に想って過ごすんだろ
うけどね・・・でもそれはもう今のこの俺じゃないんだ・・」
きり丸は何度も何度も強くうなづいた。それは自分が一番感じていることだから・・。
「はじめてあいつに変装した時、思ってもみなかったくらい感動したんだ。何でか
分からなかったんだけどね。
相手に同化する時俺は形から入るんだ。小さな癖とか言葉とかしぐさとか、それで
段々に相手が自分の中に溶け 込んでくる。あいつになってみて・・・何て言うんだろ
う・・あいつを理解できてしまった時にさ・・・」
鉢屋三郎はそこからは上手く言葉にできないみたいだった。
きっと・・・そういう事なんだろうな・・・と思う。
たくさんの人間とすれ違う生活の中で、自分を魅きつけて離さない存在とどうしても出
会う。
その人を強く想ううちに、その人の存在そのものが自分と同化していく。
どうしようもなく自分が変化してゆく。
そうしてそれが・・自分になってゆくのだ。
もう俺は出会ってしまったから・・・
もうこの自分でなくなるなんて事・・できないのだから・・
「そうそう、土井先生になって・・土井先生として過ご しているとさ、あの人の直
ぐには理解できない部分なん かもじわじわと理解ってくるんだぜ」
「先輩・・・」
「難攻不落だな、きり丸」
「ぐっ!・・せ、性格の悪い所まで伝染っちゃったんじゃありませんか先輩・・」
「はははは、まあそれはともかく、結構お前は自信もっていいのかもな。・・・大
切に思ってるぞ・・きり丸」
「ううっ」
土井半助の笑顔で言われると結構くるものがある。きり丸が何とか反論しようとしてい
ると、
「合図だ、じゃ、またなきり丸」
さりげなく立ち上がって、さわさわと軽く靡く木立をくるりと一周する。戻ってきた土
井半助は・・・本物の土井半助だった。
「何だ?お前顔が赤いぞ・・鉢屋と何喋ってたんだ?」
「べべべべ・・別に・・何でもないっす!」
まともに半助の顔も見ようとせず、きり丸はわたわたと仲間の所に駆けていく。
野原ではしゃぐ生徒達はまだまだ子供で半助の目を細めさせた。
ちょっと振り返ると半助がそんな笑顔でこっちを見ているので、きり丸は更に胸がど
きどきして倒れそうになった。
くやしい事に、あの笑顔にヤられてしまうのが自分だけで無いのが問題なんだよな。
自分の笑顔がどんなに他人をクラクラさせるのか、もっと自覚して欲しい・・。ま、言
ったって分かんないトコが土井先生なんだけどさ・・・
「きり丸、・・きり丸ったら!」
「へっ?えっ、ああ、乱太郎、何?」
「何じゃないよ、さっきから呼んでるのに・・。土井先生とずっと喋ってたみたい
だけど、課題のヒントとか教 えてもらえた?」
「えっ?課題って・・あ・・すっかり忘れてた・・」
「もう、しっかりしてよね、で・・」
土井先生と何を喋っていたのか尋ねようとして、乱太郎は口籠もった。
違う意味でそれが気になっている事が何となく後ろめたい。
風がさわさわと草波を撫でる。細葉が足元を慰めるようにくすぐった。金属色の小さ
な甲虫が一匹、ゆったりと葉陰に涼んでいる。
無限数に集ったような草の群れは、けれど凡庸に見える一枚一枚の葉に深い想いが宿
っているように乱太郎には思えてきた。気づかれないままなら、それは風景の一部とし
てありすぎる命に埋もれていつか・・風に融けて土に帰って・・・・
きり丸にはきり丸の想いがある。そして自分にも自分の想いが・・ある。それは乱太
郎は分かっている。そうしてどんな人もそれぞれに、抱えた命の重さの分だけ深い想い
を生きている。
特別な想いなんて無いのだ。平凡な一枚一枚の葉がどれもこれも掛け替えの無い命な
だけ・・。そうやって互いに気づかないまま、風に軽やかに揺れているだけ。
想いはいつだって切ないものだけれど・・・
乱太郎はきり丸と出会えた事にとても感謝している。きり丸に出会えたことで、変わ
ることのできた自分が在る。 そうしてできればずっと、これからも一緒にいたかった
けれどいつでも一緒に過ごしてきたのに、きり丸と乱太郎は微妙に進む方向が違って
きている。最近ではそれが段々強く感じられて、乱太郎を焦らせていた。
理由も分かっている。きり丸がクラスの中でもちょっと特別なのは、両親のいないき
り丸が土井先生の家で暮らしている事と関係していた。
生徒達の憧れでもある山田利吉とも畏怖を抱かせる教師陣とも対等にふるまっている
感じが、きり丸にはあった。 単に度胸があるというのではない。生徒と教師というだ
けでは生まれない・・仲間のような関係が、きり丸と土井先生達には感じられた。
それを感じてしまう時、は組の生徒達は顔には出さなかったけれど、心の底でいつも
きり丸を羨ましがっていた。乱太郎もそんな時は、蚊帳の外に追い出されたような気分
を味わった。
そんな風に自分が嫉妬するなんて思ってもみなかった事なのだけれど。
どうしようもなく・・変わってゆく・・
けれど強く真っすぐに生きようとするきり丸を見ていると、自分ももっと真っすぐに生
きたいと思えてもくる。
迷いながら、未知の切なさに戸惑いながら、これからもそうやって新しい感情に気づ
く度に、側にいるのがきり丸であって欲しいと、乱太郎は初夏の空に強く願った。