夏草一葉      1

 

瀬戸内の潮風がだんだんと森の香りにかわる。
 それはたっぷりとした春の香りでもある。

その春日の中を、二つの影が山中の村を目指していた。
 「やっぱり山田先生んちの近くじゃ、いいバイトはありそうもないよなあ」
 「ぼやくな、きり丸、せっかく山田先生が招待して下さったんだから」

 土井半助のやんわりと窘める声が、いつもの事ながらきり丸にはくすぐったかった。

 “落第忍たま”と学園中からからかわれていた一年は組のきり丸も、二年生を経て、
乱太郎やしんべえと共になんとか三年生に進級できることになった。

半助の腰程しかなかった背は、肩に届くくらいにまで伸びた。きり丸は並んで歩く半助
から少しだけ後ろへ下がって、目の高さにある半助の項の当たりを眺めていた。

背中しか見えなかった頃から、きり丸はいつも半助を見ていた。

 戦で家族と家を失った一生徒でしかないきり丸を、半助は渋い顔ひとつせず家に入れ
てくれた。何の約束も交わさなくても、そこできり丸は家族として大手を振って暮らす
ことができた。勿論一人で生き抜くべく社会で鍛えられたきり丸だったが、半助の元で
はそんな処世術はまったく必要なかったのである。

 何故こんな人に出会えたのだろう。時たま、そんなことを考える。もし一年は組の担
任が土井半助で無かったとしたら、こうして二人で春日の中を肩を並べて歩くことはな
かったのだろう。それは・・・とても・・・損だ、大損だ。土井半助と共にない人生、
きっと知らなければそれなりに過ごしてゆくものなのだろう。が、この暖かで大きな人
の代わりに、自分は何で心を埋めることになったのだろう。きり丸には親友と呼べる友
がいる、仲間がいる、恩師や町の人達がいる。けれどそれでも埋めきれない程、土井半
助という存在は大きかった。

 ふと、きり丸のくりくりとした目が細められる。
 先を歩いていた半助がこちらを向いていた。若いながら一流の忍者、戦忍びとしても
優秀だったのだと聞く。上で一つに束ねた癖のある長い髪。背は高く、均整のとれた体
つき。時折見せる鋭い眼光も忘れさせるような落ち着いた笑みをたたえた目、端正な顔
立ちが張りのある笑顔で飾られる。

 「先生、歩くの早いっすよ」
見とれていた事がばれないように、きり丸は上手くふて腐れてみせた。 

 「誰のせいで急がなきゃならないと思ってるんだ、補習授業さえ無かったら、今頃は
山田先生のお屋敷でのんびりお茶でも御馳走になってる頃なんだぞ」
半助の顔に、怒ったような、困ったような表情が加わる。見ていて本当に飽きないな、
と、きり丸は悪びれもせず思う。

 この春休みが終わったら、いよいよきり丸達は三年生に進級する。が、相変わらずの
ぎりぎり合格で、進級の条件として三日間の補習授業が課せられた。生徒が居残りとい
うことは、担任教師も居残りということである。いつもなら教科の補習であっても、実
技担当教師の山田伝蔵は付き合いで残ってくれるのだが、今回は休みに入ってすぐに家
に帰ってしまった。

 半助が今年の春休みに伝蔵の家に行くというのは、少し以前から決まっていたことら
しいのだが、補習授業のせいで予定がかなり遅れてしまっている。その分を取り返すた
め、昨日今日と、かなりなペースで歩き通しであった。 表向きは遊びに行く、という
ことになっている。が、どうも別の事情があるらしかった。きり丸には言わないのだが
、なんとなく分かる。半助があんな風にきれいな笑い方をする時程、裏で何かあること
が多いのだ。

 いやな感じがした。

 殆ど休みを取らずに来たので、このままなら山田先生の家には夕方前に着くだろう。
忍術学園から半助の家を経由しただけで伝蔵の屋敷に向かったため、まる二日の強行軍
である。しかし学園で鍛えられた忍者であればこなせる距離であった。

 昼時、丁度いい木陰に二人は腰を降ろした。途中の町で仕入れた梅干し入りのお握り
と水。鴬の音が谷を渡って響く。若草色の草原に咲き始めたばかりの艶の良い花々。樹
木は枝が目立って見通しも良く、怪しい気配など微塵もない。春風が心地よい。ついう
とうととしてしまう。適度な日当たりが、きり丸を深い眠りに誘った。






 山田利吉は珍しく仕事を休み、家でぼんやりとしていた。
本当は頼まれていた忍びの仕事があったのだが、許可を取って知り合いの忍者に譲って
しまった。利吉は特定の陣営に属さない忍者として、依頼された仕事だけをこなしてい
る。若いながら実力もあり、その確実な仕事ぶりへの評価は高く、休む間もなく仕事の
依頼が来る程だ。

 利吉はもうすぐ二十歳になる。母譲りの細身の美形で、超一流忍者山田伝蔵を父に持
つ。

 この屋敷には久しぶりに親子が揃っていた。いつもは忍術学園が休みに入っても補習
授業などでなかなか帰って来れない父伝蔵も、今年の春休みだけは早くに戻って来てい
た。

“利吉を狙う者がいる”
という情報のせいだった。

 どの陣営にも属さず自由の身、とはいえ、仕事をすれば敵もできる。利吉を邪魔とす
る者も多いだろう。それに確かに最近不審な気配を感じることがあった。しかし狙われ
ているからといって家に引き籠っているよりは、却って仕事をしていた方が良かったか
もしれないのだが、暫く家でゆっくりしようと考えていた。

 土井半助が来るのだから

 利吉の身を心配して、父が呼んでくれたのだろう。本当なら利吉は今頃仕事で遠出し
ていたろうから、半助が呼ばれたのは利吉を守る為というより情報の真相を確かめるた
めなのかもしれない。

 土井半助は利吉がまだ幼い頃からこの屋敷に時々顔を見せていた。利吉は彼を“土井
先生”と呼ぶ。半助が教師だからでもあるが、実際利吉は忍術の多くを半助から学んだ
のである。心底尊敬できる忍者だった。だから利吉は独り立ちしてからも、仕事のこと
でよく半助を頼って会いに行っていた。が、去年当たりから利吉の足は遠のいてしまっ
ている。仕事も前にも増して詰め込むようになった。

 忙しくて会わなかったのではない。
 「あんなことをしてしまって・・・・。」

思い出すとまた不安になる。やはり仕事に出るべきだった。どんな顔をして半助に会え
ば良いのだろう。しかし自分から会いに行く勇気が無いため、半助の方から来てくれる
というこの機会を捨てられない。あの時のことを半助は怒ってはいなかった。もしかし
たらまた昔のように師弟として振る舞えるかもしれない。その殻を破ったのは自分の方
であるのだが。

 何時の頃からだったのか。
多分、きり丸が半助の家に住み始めてからの事なのかもしれない。利吉はそれまで、半
助にとって自分は特別な存在なのだ、と漠然と信じていた。幼い頃は甘えられる兄とし
て、成長するに従って師事すべき師範であり、尊敬すべき人格を備えた忍者として利吉
は半助を慕った。半助が自分を見る時の目は殊の外優しいと思っていた。

 しかし、きり丸が半助の家に住み始めてからだんだんに利吉の中の何かが壊れていく
のを感じることになった。

 きり丸を見る半助の目も、同じように優しかったのだ。
 半助はきり丸と同じ様に両親を早くに亡くし、忍術学園に途中編入した頃から伝蔵の
屋敷で休みを過ごすようになった。半助と父伝蔵との関係は、きり丸と半助との関係と
酷似している。今、半助は山田伝蔵の片腕として在る。つまりこれから半助の片腕にな
るのは自分ではなく、きり丸、という事なのだ。

 その考えに至った時、利吉はぞっとした。では自分は半助にとって何者なのだろうか
。最早幼いころのような兄弟といった感じではない。一番弟子のつもりだったのにその
地位はきり丸に奪われてしまった。親友と半助が呼ぶのは石川という男である。半助が
師と仰ぐ忍者は山田伝蔵である。・・・自分は、単にその伝蔵の息子というに過ぎない
存在だとしたら。あの優しい目が誰にでも向けられるものだったのだとしたら。

 そんな不安を抱えていた頃、利吉は体を繋ぐことを覚えた。相手はとある仕事で知り
合った同じ年頃の忍者だった。その関係は長くは続かなかったのだが、そんな事があっ
てから、利吉の中にどうしても打ち消し難い望みが頭を擡げるようになっていた。

 土井半助の恋人になれたら。

 男同士で、というのは珍しいことでは無かったし、他に半助にとって特別な存在にな
る方法も思いつかなかった。
 そして、それを実行に移したのは、そんな風に思い始めて半年程たった頃のことだっ
た。

 こんな風に半助を待っていると、どうしてもあの時の事を思い出してしまう。


 やはり春の始めの頃。

 「ちょっと報酬が多すぎやしないかい」
少し困ったような表情で、半助が笑った。そんな顔をされて、迷っていた気持ちに欲望
の後押しが加わる。

 「土井先生程の方に仕事を手伝って頂いたんです。このくらいは当然で すよ。それ
に最近僕は結構お金持ちなんです。」
 利吉はとある仕事を半助に手伝わせた。丁度学園が休みに入る時期を狙い、一人では
少々きつい仕事をわざと入れた。双忍の術を使ってある品物を奪い返すというものだっ
たが、半助と利吉が組めばあっという間に片がついてしまった。二人は身軽な常の形で
、のんびりとした帰路にある。

 「利吉君もどんどん腕を上げているね、今回の仕事だって私の手伝いな んかいらな
かったろ」
濁りの無い笑顔。実力を上げつつある年下の忍者を前に嫉妬すら覚えないらしい。利吉
が腕を上げたことを心底喜んでくれている。そういう人だった。

 「土井先生にはまだまだ敵いませんよ。でも先生があまり得意でない変 装の術では
、僕が追い抜いているかもしれませんね」
 「変装に限らず、君はもう一流の忍者だよ。一人で立派にやっているん だし。お父
上の自慢の種だよ」
そして言って欲しく無いことを平気で言ってくれもする人だ。
早く独り立ちしたかったのは半助に認められたかったから。いや、半助を追い抜いて、
正体の知れない自分の中の何かから解放されたかったからかも知れない。伝蔵の息子と
してではなく、山田利吉として扱って欲しかった。もう子供では無いのだから。

 一瞬会話が途切れる。遠くをさまよっていた利吉の目が、半助の首筋あたりに向けら
れる。なんとか笑みを作る。

 「ところで土井先生、少しだけ寄り道に付き合って頂けませんか」
 「寄り道?、まあ構わないけど、余り遅くならないならね。家で待って るきり丸を
放って置くと心配だから」
胸がちりっと焼ける

 「お見せしたいものがあるんです。大丈夫、この街道からちょっと入っ ただけの所
ですし、どのみち今夜はどっかに泊まらなきゃならないんで すから、家に帰るのはそ
う遅くなりませんよ」

 「うん、行くのはちっとも構わないんだ。見せたいものって何だい」
 「それは見ての、ですよ」
街道から本当に僅か入った見通しの良い畑の向こうに、数軒の農家が見える。利吉はそ
こから少し外れにある一軒の家に入った。

 「この家を借りたんです。これでも一応簡単な忍者屋敷なんですよ。抜 け穴は無い
んですけど、外から侵入しにくくなっていたり、隠し部屋な んかもあるんです。半地
下なんですけどね」
 「こりゃすごいね、結構広いし、周りの見通しも良い。街道沿いだから 仕事にも都
合がいい訳だね、」
 「そうなんです。最近まで父の古い知り合いの方が住んでらしたんです が、その方
はもっと広い屋敷を手に入れられたので。」
 「ああ、じゃああの庭はその人の趣味なんだね」

傾きかけた日が、芝垣の手前に作られた瀟洒な箱庭を照らしている。盆栽を組み合わせ
たような格好である。
 「盆栽とは利吉君は趣味が渋いなと思った」
と笑う。毒気を抜かれそうになる。
 「借りて間も無いんです」
 「そのようだね」
 「でも夜具とか食料とか必要な物は運び込んであるんですよ、だから是 非最初のお
客様になって頂きたくて。夕飯が僕の作ったもので宜しかっ たら」
 「そりゃ光栄だなあ、で、お酒もあるんだろうね」
 「勿論ですよ」

つい真面目に焦って答えてしまう。半助にはそれもおかしいらしく、にこにことした微
笑みを作っている。

 計画通りにここまで来てしまったけれど、このままでも良いのかもしれない。今は利
吉の気を焦らせる者は誰もいない。半助を独り占めしていられる。ずっとこうしていら
れたら。

 夕飯は、遠慮を押し切って結局半助が作ってくれた。一人暮らしが長いせいか、もと
もと味覚に敏感なのか、半助は料理が非常に上手かった。その間に利吉が風呂を焚いて
交代で汗を流し、新しい浴衣に着替えた。

 温かい料理を囲んで盃を傾ける。利吉の方が酒に弱いので、酔い潰れてしまわないよ
うに気をつける。取り留めも無い話題で笑う。半助の生徒達の事、伝蔵の活躍のこと。
利吉も名前や重要事項を伏せて、仕事でのことや、旅の途中で仕入れた話しを語った。
二人きりのこんな時間が愛しかった。ただ、どうしても半助の話しの中に、きり丸、と
いう言葉を聞くと頭の芯がさっと冷えていく。

 予定通り事を運ぶべきなのだろうか。しかし今の良い雰囲気を壊してしまうのも勿体
無いのかもしれない。そしてこのまま何も行動を起こさず済ませることもできた。
 きっかけは半助の言葉だった。
 「良い家だけれど一人じゃ広すぎるね」
 「ええ、そうなんです。空けておくことが多いと家も痛みますしね」
 「で、いつなんだい」
 「は?何がですか」
 「決まった人がいるんだろ」
 「はあ?」
 「あれ、違うのかい」

暫くしてやっと半助の言いたいことが分かった。まだ駆け出しの利吉が一人では広すぎ
る家を持った。結婚が間近いに違いない、そう踏んだのだ。有りがちな勘違いではある
が、笑うべきものである。しかし無性に腹がたっってしまった。
 「そういうことで家を借りたんじゃないんです」
少しきつい言い方になる。怪訝そうな顔をして、何か悪いことを・・・と言いかけた半
助の言葉を利吉が遮る。

 「確かに一人ではこの家は広いです」
そう言いながら半助の盃に酒を注ぐ。その酒が半助の喉を通るのを確認しながら利吉は
出来るだけゆっくりと話した。自由な忍者としての仕事が、半助の経験した城付きの忍
びや戦忍びとどう異なるのかという事について。半助の知らないことでは無かったが、
これは時間稼ぎだった。利吉が真剣に語るので、半助の意識は利吉に集中した。注がれ
た酒を疑いも持たず無意識に口にする。利吉には覚悟も何も無かった。一つ流れが出来
てしまえば変えようもなく突き進むしかない。

 「ところで土井先生」
急に口調が変わる。
 「この家は本当に一人では広すぎるんです・・・。だから・・・」
 「・・・だから?」
 「この家に住まわれませんか」

半助は目を見開いて驚いている。が、いつもの俊敏な反応は見られず仕草が億劫そうで
ある。
 「・・・でもここじゃちょっと学園から遠いし、ね。きり丸は・・・」
 「きり丸は
父が預かればいいんですよ、同じ担任なんですし、土井先生 はもう十分になさいまし
た。学園は、辞めてしまわれればいいじゃあり ませんか」
語気が荒くなる。

 「利吉君・・・きみ・・・」
 「私と一緒に仕事をして下さい。土井先生。先生程の実力者なら直ぐに 名を馳せま
すよ。学園の中で埋もれておられることは無いんです」

 「私は・・有名になりたい・・分けじゃない・・・埋もれているつもり も・・ない
・・・」
半助の息がだんだんに乱れてくる。苦しそうに手を口元に上げようとするが、腕をあげ
るのもつらそうだ。
 「・・・一緒にいて欲しいんです、ただ、それだけだったんです」
 「っ・・・あ・・・」

半助は意識を残したまま力無くその場で横にうつ伏せに倒れた。


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