夏草一葉    6

 新しい学年の新学期がはじまっても、変わるものと言えば制服の色くらいなものだと
猪名寺乱太郎は思っていた。仲間達は急に背も伸びたし、それなりに成長しているの

だが、のんびりとした雰囲気は相変わらずだった。担任も持ち上がり式。また一年間山
田先生と土井先生にお世話になる。きっと今年もまた、ばたばたとした楽しい一年にな
るのだろう。

 早めに家を出たので、学園に一番乗りだと思っていたら、見慣れた部屋にきり丸の姿
があった。だが、

 「きり丸・・・だよね」

ふり向いたその表情が、あまりに見慣れないものだったので、乱太郎は思わずそう聞い
てしまった。

 「ああ、乱太郎・・・・お早う・・・」
 「どうしたの?叱られでもしたの?きり丸」
 「何でもないよ・・・」

取り繕うきり丸の笑顔が、笑顔になっていなかった。

 授業が始まり、教科の授業に大木雅之助が担任として現れて、更に乱太郎は驚くこと
になった。土井先生は学園の用事で出張中で、大木先生は臨時の担任なのだという。乱
太郎はきり丸の不機嫌は土井先生の出張と関係があるのかと尋ねてみたが、きり丸から
は「関係無い」という返事が帰って来た。

 きり丸は、山田先生から「土井先生の事を絶対に誰にも喋ってはならない」と口止め
されていた。情報を操るのが忍者である。これは半助を救う為の作戦であるから、たと
え親友の乱太郎であろうと喋ることは許されない。乱太郎の心配そうな顔も、今のきり
丸にはどうしてやることもできないのだ。
 それにもう馴れ合いは止めるつもりだ。

 きり丸が半助の元を離れ、こうして学園にいるのは、一つの決意があったからだった

 
 強くなりたい。

戦で家族を失った時より、今はひたすらにそう願う。

 全てを失って、暫く僧侶の元で育てられた後、きり丸は誰にも頼らず生きる道を選ん
だ。商売の帰り道、盗賊に襲われてまた全てを失いそうになった時、忍者に救われたこ
とがあった。忍び刀に憧れた。忍び刀を自在に使いこなせれば、もう自分から何かを奪
おうとする者を恐れずに済むと思った。だが、せっかく入学した忍術学園でののんびり
とした毎日は恐れを感じさせる事が無く、ついつい守られる生活に甘えていた。

 きり丸は一人、棒手裏剣を目標に適確に突き通しながら、半助を罠に嵌めた憎々しげ
な敵の顔を思い出していた。しかしそうすると必ず血に塗れた半助の姿まで浮かんでき
てしまうのだ。出来るだけ考えたくはなかった。心配でない訳がないのだ。

 「全くさ・・・」
誰に語るでも無くきり丸は悪態でも付く様に一人言ちた
 「最後かも知れないって時に、あんな変な遺言を遺そうなんて・・・先 生も・・・
いいかげんお人良しなんだから・・・」
半助が最後の言葉に選んだのは、半助の家の物をすべてきり丸に譲ろう、というものだ
った。

 きり丸は本当ならいつもみたいに「あんながらくたばっかり譲られたって大した銭に
ならないっすよ」とか「何言っんすか、土井先生の物はもう全部俺のもんじゃないです
か」とか切り返して半助を元気付けたかった。が、あの時のきり丸は不覚にも半助に言
葉を掛ける事すら出来なかった。 目の前が暗くなる、とはあの時みたいな状態をいう
んだな、と思う。心臓が頭に出来たようにがんがん鳴り、暗くぼやけた視野が狭まって

半助のきれいな笑顔だけが見るとも無しに見えていた。自分の体が自分のものでなく
なっていた。
 全く俺としたことが・・・

 今度土井先生に会ったら・・・会うことが出来たら、あの時言えなかった事を遠慮無
く言ってやろうと思う。
 だから、先生、戻って来なくちゃ駄目だ。
きり丸は鋭い目をして、また黙々と手裏剣を打ち続けるのだった。




 屋敷では、右肩を固定されて身動きの取れない半助が静かに痛みに堪えていた。傍ら
に太刀に凭れた戸部新左エ門の姿。近辺に敵の気配は全く無く、半助が回復するまで手
出ししないという敵の言葉は本当らしかった。 さらり、と襖が開いて、薬湯と湯桶を
持った利吉が現れる。

 「あの、薬を飲ませますから」
退出して欲しい、という意味だったのだが、戸部は半助を見つめて考え事をしているら
しく、気付いてくれない。利吉は構わず自分の仕事を続けることにした。半助の右鎖骨
に刺激を与えないようにするため、食事も薬もすべて利吉が口移しで与えていた。体を
清めるのも、汚物の処理も、他の誰にもやらせなかった。今、半助は完全に利吉のもの
だった。

 利吉が半助に薬を与えているのは知っていたのだが、目の前でそれをされてしまって
些か戸部は戸惑った。僅かに首が動いても酷く痛むらしく、半助の口から圧し殺した呻
き声が漏れる。利吉はそれを気にしていないようだった。いや、何だか愉しんでいるよ
うにも見える。

 戸部の背筋に寒気が走った。見ていられない。もともと見るべきものでもなかったの
だが。ややあって、戸部は部屋から退出した。
 薬はもう椀の中には無かったが、利吉はまだ半助の唇を離そうとはしなかった。半助
が苦しんでいるのは分かっているのだか、何だか止まらなくなってしまっているのだ。

 「っううっっ」
余りに痛々しい叫びに、やっと利吉は半助を解放した。それから思い出したように布団
を捲り、半助の躯を手ぬぐいで拭い始めた。半助が意識を取り戻してからこの一週間、
同じことをしている。清めた半助の躯に利吉はいちいち唇を押し当てていった。利吉の
唇が、半助のものにまで降りてくる。利吉はためらい無くそれを銜え込んだ。

 「っや・・・やめ・・っっっ」
殆ど反応の無かった初めのころに比べると、半助は段々に抵抗を示すくらいの力が出来
てきたようだ。が、利吉がこんなことを繰り返したのでは、体力の消耗が半助の命を奪
いかねない。分かっている。分かってはいるのだが、利吉には自分がどうしようもなく
抑えきれなかった。だからと言って、流石の利吉もこれ以上は進みようがない。重傷の
半助を動かす訳にはいかないのだ。目の前に半助がいて、どうにでも出来る立場にあり
ながら、欲望を完全に満足させることが出来ない。

 苦しい、苦しくてたまらない。利吉は半助の躯から顔を離すと、そっと布団を整えた

そして、そのまま自己嫌悪に項垂れる。どうしたらいいのか分からない。このままで
は自分が半助を殺してしまうだろう。
 半助の元を去った方がいい。
多分それが一番良い方法なのだ。半助を狙っている連中は元々利吉を狙っていた。利吉
がその渦中に戻りさえすれば、半助が狙われることも無くなるのかも知れない。父には
悪いが、自分が敵中に身を投じる事が最善策であるように思う。

 そうすればもう、自分が半助を苦しめる事も無くなる。
 
 覚悟を決めよう・・・。

利吉は、もう永遠に会えなくなるかもしれない土井半助を、もう一度だけ見ておこうと
顔を上げた。
 はっとする。
 半助の目が開かれて、利吉を見つめていた。

 「あ・・・・」
 「り・・きち・・くん」
話すだけでも辛いはずなのに、半助の表情には穏やかさがあった。
 「りきち、くん、は、・・・わたしの、ことが、好き、なのかい?」
 「えっ・・・」
予想もしなかった半助の言葉に、利吉は思い切り戸惑った。空耳ではないかと疑って、
利吉は固まったまま何も言うことが出来ない。

 「どう、なんだい?」
 「あっ、あの・・・」
利吉はやっと半助の言葉が現実であると理解した。が、同時に重大な事実に気が付いた

 ・・・言ったことが無かった。
 言ったことがなかったのか!

 そうだ自分は半助のことが好きなのだ。好きだから、ずっと苦しくてたまらなかった
のだ。
 !何て事だろう。好きだとも告げずに、自分のした事と言ったら。
 何もかも、自分のしている事は全て逆だったのだ・・・。

 「あ、あの、す・・・き・・なん、です。」
利吉は自分の間抜け加減に、情けなくて涙が出そうになった。
 「土井、先生のことが、好き・・・です」
 「うん・・・」
 「ずっと、好きなんです。ずっと今までも、」
 「これから、も?」
 「ずっと好きです」

たったこれだけの言葉を言うのに、利吉は必死になっていた。半助も、傷に響く一言一
言に耐えながら、ゆっくりと利吉の心に入り込もうとしていた。
 「わたしも、きみのこと、が、すき、だ、よ」
利吉ははっと顔をあげる。
 「あの・・・」
利吉は、また悲しげに顔を伏せた。
 半助の言う「好き」と、自分の「好き」とはきっと違うのだ。自分の邪な想いが半助
を苦しめたというのに。半助の「好き」という言葉の清さが、利吉を更に汚く見せる気
がする。

 「信じないの、かい?」
 「僕は・・・その言葉には・・・相応しくない、です」
 「利吉、くん、は、わたし、以外にも、関係をもった人が、いる、よね」 「えっ」

半助の意外な発言に、利吉は驚き狼狽たえた。どう答えたら良いのか、戸惑いながらも
正直に「はい」とうなづくしかない。
 「そいつら、を、みんな、殺して、しまい、たい」
 「!」
それは、心の奥底で、利吉が求めていた言葉に違いなかった。でも何故土井先生がそん
なことを言ってくれるのだろうか。もしかして、もしかして本当に土井先生は・・・!

 「君の、ことが、好き、だよ」
半助の言葉が利吉を搦め取りはじめた。利吉は魅入られたように半助の視線から逃れら
れない。痛みを堪えるように少し眉を歪めて、半助が左腕を利吉へ差し延べる。手の平
が、利吉を半助へと誘う。

 優しい、艶めかしい、くちづけ。
 頭の芯がくらくらする様な。
 困ってしまった。どうしよう。さっきまでの悲壮な決意は何処かへいってしまった。

土井先生、土井先生、土井先生・・・!
 半助に酔ったように夢中になっている利吉を、半助は左手でゆっくりと撫でた。意識
が遠くなる。これが限界の様だ、と悟り、半助は微笑む。

 「少し、眠るから、また、あと・・・で・・・」
半助の手がふわりと布団に落ちた。
 急に眠ってしまった半助に、利吉はもしかして、と不安になったが、半助が整った息
をしているのを確認して安心した。

 それにしても、利吉は自分に訪れた幸福に、素直になるべきなのか半分迷っていた。
何だか喜車の術にかけられたような気がする。利吉が半助に苦痛を与えるのを止めさせ
るため? そう考えるとそれが真相のような気がして、どうにも不安でたまらない。利
吉は次に半助が目覚めるまで、まんじりとも出来ずに待たねばならなかった。


 


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夏草一葉1

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