良忠上人は、正治元年(1199)七月二十七日、石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅町)で誕生されました。十六歳で出家し、出雲国鰐渕寺で登壇受戒され、天台・密教を学び、つづいて各地に教えを求めて克苦修行の末、倶舎・律・禅を究め、また三論・華厳等を奈良に遊学し、特に法相を興福寺勝願院の良遍に学び、さらには高野山学頭・源朝より真言を受けるなど、辛苦修学の歳月を重ねられた。しかし、ただ学問のみならず実践にも専心し、上人三十四歳の時、郷里へ帰るや、多陀寺に籠もって五年にもおよぶ不断念仏を修された。そのさなか生仏法師に会い、その勧めによって九州へ下向されることになった。それは、当時九州の筑後で、教化伝道に努められ、また宗祖・法然上人の正意を継承されて二祖となられた聖光房弁長上人に会うためでありました。良忠上人が、この聖光上人を上妻(福岡県)の天福寺に尋ねたのは、嘉禎二年(1236)九月、良忠上人三十八歳、聖光上人七十五歳のことであった。
良忠上人は、二祖上人の許に修学すること一両年、浄土宗の正義をことごとく相承され、嘉禎三年八月ここに浄土宗第三祖となられたのである。
二祖上人は、三祖良忠上人を指して、「然阿は予が若くなれるなり。宗義に不審あらば然阿(良忠上人)について決せよ」と門弟一同に告げられるほど厚い信頼をよせられ、また、師の許を辞す上人に対し、「我が恩を報ぜんと欲せば、都鄙遠近(とひおうごん)をいとわず浄土の教えを弘めよ」と諭されるなど大器への期待は多大なものであった。
名残り多き九州の地を去り、師の諭誡(ゆかい)を胸にして諸国の教化へ勇んで向かわれた。一度帰郷された上人は、約十年の間、石見・安芸(広島県)等の中国地方の教化に力をつくされ、ついで上人の心中期するところの関東弘教(ぐきょう)の遊化の旅に立たれた。
伊勢路から木曽谷の旅を重ねて、信州善光寺に参拝をとげられ、また四十八日におよぶ『観経疏(かんぎょうしょ)』の講説をされ、さらに足どりを関東に向け、下総、上総、常陸の教化へとはげまれた。この間、十年余りにおよぶものである。『選択伝弘決疑鈔(せんちゃくでんぐけつぎしょう)』『決答鈔(けつとうしょう)』等の宗門の要書はこの時代に著された。
さらに、文応元年(1260)良忠上人御年六十二歳の頃、数人の門弟とともに下総を後にして、当時の政治の中心であった鎌倉へ入られ、間もなく北条朝直の帰依のもと、悟真寺に住された。後にこれが光明寺となり今日に至っている。
良忠上人は、この悟真寺を中心として教線をはり、多数の門下を養成し、また著述にも専念された。御著百巻と称されるもの、そのおびただしい数の著作は、ひとえに宗祖の念仏義を末代に伝えんがためであり、そのご信念たるやまことに熱烈なものがある。末代の規範として私どものひとしく敬仰するゆえんとなっている。上人の代表的著作『観経疏伝通記(かんぎょうしょでんづうき)』は、上人七十七歳、この鎌倉の地で完成されたものである。
上人七十八歳、在京の門下の招請により、京に上がり、老_を挺して布教、著述にと、超人的活動をつづけられた。その間、なんと十年にもおよぶものであった。特に宗祖の遺跡を訪ねるなか、勢観房源智上人の門下である蓮寂房と宗祖の教えに一致をを確認された。この京都の滞在は重要な意味をもつものであった。この上京によって、京都の浄土宗の振興が果たされたのである。
弘安九年(1286)、八十八歳の高齢となられた良忠上人は、鎌倉へ帰られ高弟の寂慧良暁(じゃくえりょうぎょう)に、浄土の宗義を相伝され、念仏の弘通(ぐつう)をたくし、翌弘安十年七月六日、八十九歳をもって鎌倉に入滅せられた。
三祖良忠上人の化教は、九州から関東までの極めて広範囲にわたり、上は皇室から下は庶民大衆に及び、念仏の声は都鄙(とひ)に高まり山海に響き、また終生を著述に専注され「報夢鈔」と称される五十余巻二十部にわたる大著述を残され、浄土宗義の大網を組織付けられたことは特筆すべきご功労であります。また、門下も数多く輩出し、全国各地に挺身して浄土の教えを弘め、各所に骨を埋められた。これらの業績によって、今日の浄土宗教団へと発展する基盤を築かれたのである。
おしえおく このことの葉の ゆく末を
おもいわすれず われをとぶらえ
(文永六年八月 良忠上人起請文 新撰往生伝)
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