大殿
十四間四面。当山五十一世詮譽白玄上人の代、元禄十一年(一六九八)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏を祀っています。かつては開山上人像を安置して祖師堂と称していました。仏堂でなく祖師堂を本堂とする伽藍形式は、知恩院をはじめとする京都の浄土宗本山の通例です。百本柱のお堂としても有名。国指定の重要文化財。
 大殿右檀には、善導大師等身大立像と弁財天像が安置されている。これは、かつて二尊堂にあって奉安せられていたものです。善導像は、二祖聖光上人より拝受の像と伝えられ、弁財天はもと江ノ島弁天と伝えられています。
 左檀上には、如意輪観音像と宗祖法然上人像が安置されており、日々の供養が続けられています。
開山堂
開山をはじめ歴代法主の御影を祀っています。かつては現本堂を祖師堂と称していました。大正十二年の関東大震災で倒潰した阿弥陀堂の本尊を旧開山堂へ遷座して本堂とし、開山堂は、翌十三年、古材等も使用して新たに建てられました。平成十四年、老朽のため再建されました。
総門
建立は明応4年(1495)、寛永年間(1624〜28)に再興。前はもっと大きな門でした。上部構造は桃山時代の様式が感じられ、屋根裏の木組みに注目すると太い大瓶束(たいへいつか)が数本立ち並び、昔の壮観さが偲ばれます。鎌倉市指定の文化財です。
記主庭園と大聖閣
光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼んでいます。蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられました。
三尊五祖の石庭
本堂南側にあり。三尊とは、極楽浄土の阿弥陀仏とその脇士たる観音・勢至の二大菩薩を表し、五祖は浄土教を説法流布された釈尊(印度)善導(中国)法然・鎮西・記主(日本)の浄土宗五大祖師を示します。この三尊五祖が、庭園の中に石で表現されています。庭園全体の構図は、煩悩多いこの世(此岸)と救われていく彼の岸(彼岸)とを明らかに示しています。
善導大師像
善導大師は、中国唐代の人で『観経疏』等五部九巻の書物を著し、浄土念仏の高祖として、法然上人これに偏依して浄土宗を開かれ、三祖もまた帰依を厚くされた。

御廟所(天照山)
光明寺の背後の山を総称して天照山といいます。天照大神の尊像を記主禅師感得せられたのをもって、その名を付せられたといいます。中腹に開山の良忠上人をはじめ歴代の墓所があります。また、光明寺の開基である北条経時公(法名 蓮華寺殿安楽大禅定門)の墓所があります。
天照山からの景観は、鎌倉50選にも選ばれました。

神明社、秋葉社
天照山山中にあり、神明社は、天照・春日・八幡の三神を祀っています。
秋葉権現は、火災盗難を防ぐ権現で光明寺域内鎮護の社です。伝えによれば、当山三十三世深譽伝察上人が身を天狗に現じて当山を守護したと、伝えられています。
繁栄稲荷社
昔、開山上人が佐介におられた時、子狐を助けられました。その夜の夢に、親狐が現れてお礼にと薬種をおいていきました。夢がさめても薬種は目の前にあり、これを疫病流行の時にまいて、その葉を与えると、ことごとく快癒したといわれています。庶民のよろこびきわまりなく、上人はこれを見て、これ佐介稲荷の神助なりをせられました。後代、この謂れにより佐介稲荷を当山に勧請して奉安されたものである。
鐘楼堂
総ケヤキ瓦葺きの鐘楼堂は弘化四年の建造で、現在の梵鐘は昭和三十六年、法然上人七百五十年遠忌に当たり、鋳造せられたもので、重量三百貫を誇ります。朝夕、梵音は鎌倉の市街に響きます。
内藤家墓所
陸奥国磐城、日向延岡藩主内藤家一族の墓所。江戸初期に光明寺の檀家になりました。このように大規模な大名の墓所が一ヶ所にまとまっているのは全国的に珍しいといえます。

鎌倉アカデミア碑
〈これからの教育は、自分の頭で考える人間づくりにある。教育に携わる人間は、大胆に思い切った教育を進める野人の中から選び、学校は寺子屋でもいいから、文部省の中央集権的な教育統制は無視すべきである〉(一部略)
 鎌倉アカデミアは、こんなコンセプトをもとに昭和二十一年(一九四六)、材木座の光明寺を使用して開校されました。学長の哲学者・三枝博音をはじめ、作家・高見順や演出家・村山知義といった個性あふれる教授陣は、教育の理想を求めて、ユニークで自由な実践を大胆に押し進め、「楽しい学園」を目指し、作家・山口瞳、作曲家・いずみたく、映画監督・鈴木清順など多くの逸材を輩出。その先駆性がいま改めて見直されています。