空色の花 1


「では父上、私はそろそろこれで失礼します」
春まだ浅い日の午後、学園に挨拶に寄っていた山田利吉は、前に座す父伝蔵に辞した。
「うむ、まああまり無茶はせんようにな」
伝蔵はこれから仕事に向かう一人息子に、柔らかく言葉をかけた。

 利吉が忍びとして独り立ちしてから、一年程が経つ。まだ幼さの残っていた顔にも、忍び独特の鋭さが瞳に宿るようになった。
 それが時々、伝蔵をはっとさせる。

母親似の端麗な面差しの中で、その鋭い瞳だけは、自分に似てしまっていた。
 愛しいはずの我が子が、父親の後を追うように、その名を馳せているのは危険な忍の道だ。その生き方がどんなに酷なものであるか、利吉はこれから身をもって知ってゆくだろう。
 ・・・たとえそれが、終わりの時となるのだとしても。

「おや、利吉くん、もうお帰りかい?」
身軽な旅支度をした利吉が襖を開けると、丁度土井半助が盆に乗せたお茶を運んでくる所だった。
「土井先生」
その名を呟く自分の声に、無意識に心から漏れ出した何かが含まれてしまった気がした。
「折角お茶を入れたから、もう少しゆっくりしていったらどうだい?」
自分に向けられる半助の声が甘い味に感じた。

 半助は短い言葉の間に微妙に表情を変化させるので、つい利吉は見入ってしまう。
 少し困ったような、けれど強引さを垣間見せるような、そして蠱惑すら感じさせる土井半助の綺麗な笑顔。
 端正な顔立ちなのに掴みきれ無い変化を見せる表情のせいで、半助が自分より八つも年上だなんてどうしても感じさせない。

「折角ですが、土井先生のお茶は美味し過ぎて、仕事に行くのが嫌になってしまうと困りますから」
「これから仕事なんだね」
「はい」
盆の上の茶が、妙に強く香った。
小さな皿には饅頭が三つ乗せられている。

「戻りましたら御馳走になろうと思います」
「そうかい、じゃあ気をつけるんだよ」
半助の声は底力を感じさせる明るいものだった。
 表情にも態度にも、今はどこか一流の忍びの持つ何かを感じさせる。さっきまでは半助の中にそんな部分があるなんて一片も見せていなかった。
 利吉はこんな半助を見る度に、かなわない何かを感じて、胸が窮屈になった。





 利吉は学園を出て、街道から外れた山道を西へと進んだ。
 ここから五日ほど歩いた先の城で、しばらく潜伏する事になる。

 依頼を受けた内容は、今までとは違って少しやっかいな事情がからんでいた。
 しかし段々複雑な仕事の依頼が入ってくるようになったのは、利吉にとっては誇らしいことであった。いままでの仕事に対する評価が形になって現れてきているという事であるから。
 勿論、組織に属していない忍である自分が信頼されているのは、父伝蔵の名が、背後にあるお陰でもあった。
 仕事を始めた頃は、利吉はそれに頼らねばならなかった。

 忍は独り立ちして仕事をする際、殆どが伴侶を持ち、子供をもうける。腕が立つ者ほど、それを雇う方にとって脅威となる忍は、家族がいなければほとんど信頼が得られない。
 家族の存在は枷として重宝されるのが戦国の慣わしなのである。
 そろそろ利吉は父伝蔵から脱却したいと思っていた。

一人でやっているから、仕事の前後に父の元に自分の生還を報告しなければならない。伴侶を持てばそういう事からは解放される。が、利吉にはそんな風に思える女性はいなかった。

 見目の良い利吉と一緒になりたい女ならいくらでもいるだろう。適当な女を選べば良いのだろうが、抵抗があった。今自分が大事にしている何かが壊れてしまう気がするからだ。
 峠近くで深い杜が切れて、群生する植物に飾られた空ばかりが強く目を刺激した。
 ほわりと風にとけて行く雲が間近い。

春の空の色は淡い。

雲の白と空の青が強くなるばかりの日差しに刺激されて、頻繁に混ざり会うからだ。
 その雲の狭間に半片の白い月が、おとなしく空に浮かんでいた。
 夜には足元に青い影すら作り出すその妖しく冷たい輝きも、今は明るさに紛れている。
 けれど、雲とは明らかに明別できる存在の確かさが月にはある。
 
 真昼の月のような人だと思った。

手をのばしてみて初めて、その遠さを知った。
雲間に紛れる真昼の月。

 それが雲なんかとは比べ物にならないくらい遥かな存在だなんて、近づこうとするまでは気づかないでいたのだ。
 明るくて優しくて、相手の物腰や表情や声や言葉の何もかもが、たまらなく心地良いものに感じて、この人が自分のものになったらどんなに幸せだろう、なんて呑気に思っていた。

 平和そうな学園で教鞭をとるあの人は、子供のからかいに騒ぐ姿が幼くて、可愛くて守りたいとすら思わせた。
 けれど最初に仕事の補佐をしてもらって依頼、その認識は一変してしまった。
 忍びの土井半助を知った。

それまで腕に自負のあった自分は、忍びの道の奥深い苦さを初めて味わった。
 無邪気に、土井半助が自分に夢中になってくれたら良い、なんて考えていた事が恥ずかしくなった。
 あの人を本気で欲しいと思ったのはそれからだったような気がする。

 まだ仕事に完全に慣れていないうちは、あの人との距離が分かっていなかった。
 自分ならあの人を越える忍になれる。

心の中であの人の前に膝を屈した自分のように、あの人もまた、いつか私に敗北する。
 優しくて暖かい笑顔の底にある、他人をはねつける忍びの半助が、私を認めて受け入れてくれるようになる。そんな特別な存在に、自分ならなれる。

 腕には自信があった。小さい頃から父伝蔵の名声に負けぬ忍になろうと精進し続け、素質も努力も格段に他よりも抜きん出て評価され続けてきた。何をしても負けを知らなかった。
 自分一人の腕だけで、戦国の世の裏世界に地位を築くだけの力が、自分にはある。それは今でも信じている部分がある。

 けれど、仕事に慣れ始め、真の世界に触れるうちに、あの人と自分との距離が次第に分かり始めた。
 それは自分が成長した証しでもあるのかも知れない。もしくは単にあの人を買いかぶり過ぎているのだろうか。

 忍びとしての技術なら、今は決して引けはとらないと思う。経験は仕事を詰め込むだけ詰め込んで、この短期間にしては十分な成果を得ているはずだ。
 それなのに、あの人の存在が、常に平常に保っていたい心を乱して止まない。

 土井半助が手に入る確信が得られない。
どうしてこんなに欲しいのかも分からない。

あの人の事が分からない。
 こんなに走り続けているのに、あの人と同じ場所に立てないでいる。

 分からないのだ。あの人がまだ自分より上にいるのか下になってしまったのかも。何故こんな気持ちを持て余してしまうのかも・・・。

 ほのかな恋心が焼け付く痛みに変わってからもう何度も、あの人に出会った事を後悔した。
 顔を見てしまうと勝手に心が複雑な喜びに満たされる。
けれどその分その後から来る飢えには耐え難いものがあった。
 仕事に打ち込んでいる間は、少なくともそんな苦しみからは解放された。そして仕事を成功させる度、あの人に近づいているような気がした。

 さっき土井先生に出逢えて気持ちが浮き立つようだったから、もう少ししたらまた、あの胸の苦しさがやってくるのだろう。

 せめて出発の日が晴れていてくれて良かった。

香り高い春風が、さらりとした明るい利吉の髪をなびかせる。それが迷宮に沈み込もうとする心を少し、軽いものにしてくれたようだった。

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