3話 辻斬り
--------------



ハンゾロウは辻斬りである。人の命など何とも思っていない。
辻で行き合わせただけの相手を、ただ、斬ることもある。人でなしと罵られたところで、それが生き様なのだから仕方がないだろうとしか思わない。
世間の何とも無縁なのだ。
無縁の筈だが、暫く同じ街に居着くうちに、ふとした拍子で何人かの顔見知りが出来た。サンジーンはそのなかの一人である。そのなかの一人に、過ぎない。
まだ朝がたの部屋は寒く、窓の外は丁度影になっていてあまり明るくなかった。
シャワールームの戸が開く音でハンゾロウは目を覚ました。下着だけの姿でサンジーンが出て来る。髪からはしきりに滴が落ちて、絨毯に水滴模様を作りだす。ベッドサイドの水差しから水を飲み、昨夜は楽しかったよダーリン、と片目をつぶって見せられた。そういうアホのような態度に応じるやり方が分からないので、ハンゾロウは、「ああ」とだけ頷いた。そのまま服を着てどこかに出かけようとするのを、白い腕を捕まえ、引っ張って、ベッドに引き摺り込もうとした。
「なんだよ」
少しだけ不機嫌そうに応じられた。
「さっきまでので、お礼はお終い」
こめかみにキスされて、押しのけられた。
部屋のドアに鍵を掛けて、サンジーンは出て行った。



ハンゾロウはうっかりこの船に乗ることになったために、行き先すら知らないが、既に数日洋上に居る。
ある日、行きつけの酒場でいつも通りの時間にいつも通り飲んでいたら、サンジーンが現れ、おい大変だ、ちょっと来い、とハンゾロウを呼んだのだ。突然押し掛けてひとを連れ出すなんて生意気な奴だと思ったが、お前を見込んで話があると言われて仕方なく応じた。おれを見込んでの話だと言うのなら、おれが乗らなくては仕方がないだろう。
連れて行かれたのは港で、客船が出港準備をしていた。
「おい、何なんだ、船に乗るのか」
尋ねたハンゾロウに、いいから、ちょっとここに居ろよ、頼みたいことがあるんだ、とサンジーンは言った。仕方なく、ハンゾロウはサンジーンに続いてタラップを上がった。少し奥まった通路のような場所に引っ張り込まれる。奥には船室の窓が見えたが、外側からの進入は出来ないように鉄格子で通路が仕切られていた。
そのほんの少しの物陰で、サンジーンは大胆にぽいぽいと衣服を脱いだ。すぐに下着だけになってしまうと手にした黒鞄から上等そうなスーツを出してそれに着替えた。着替え終わると、鞄と、いつも隠し持っている小型の銃やナイフを取り出して、全部あっさりとハンゾロウに預けてしまった。
「今回は一般の船客として乗るんだ、入船のチェックの時、武器持ってるとやばいからさァ」
「ああ?」
ハンゾロウは首を傾げた。
「てめえ、船に乗るのか、これから」
「ああ、乗る」
だからチェックが終わるまでの間、荷物預かってて欲しいんだ。
頼むよ、おまえにしか頼めないんだ、と言われてハンゾロウは「それなら仕方がないな」と頷いた。サンジーンはそのまま船のエントランスホールへ向かい、そこでチェックを受けて船内へ消えていった。ほどなくして、清掃員に鉄格子の向こう側、つまり船内側からモップで背中をつつかれて、ハンゾロウはむっとして振り向いた。
「なんだてめえは」
そうすごんでみたが、相手は顔を上げて「おれだよ」とにこにこしている。サンジーンだった。どこで手に入れたのか清掃員の服装に着替えていた。
「いいから、おまえもちょっと中に入って来いよ」
鉄格子の向こう側からサンジーンはハンゾロウに船のチケットを渡した。
「ついでに、ほら、そのエモノをこっちに渡せ」
腰から刀を三本、鉄格子の向こう側へ預かる。
「こっちに来たら返してやるから……、そのままじゃエントランスのセキュリティチェックで引っかかるんだよ」
「ああ分かった」
何故船内に自分が呼ばれるのか、サンジーンの目的は分からなかったがハンゾロウは頷いた。
手ぶらのハンゾロウは、服装や人相をじろじろと見られたが、セキュリティチェックを無事に通過した。
サンジーンはハンゾロウを「ここに居てくれ」と客室に放り込んだ。あまり上等ではないが一応個室で、ホテルの部屋のようになっている。船旅は雑魚寝が当たり前だと思っていたハンゾロウにはちょっとした驚きだった。こんな船もあるのか。
「おまえが居てくれて良かったわ」
そう言ってサンジーンはハンゾロウ一人を部屋に残して一旦外へ出て行った。
暫くすると戻って来て、ぽいぽいと部屋に何かの包みを投げ入れた。中身は見るなと言われたが、拳銃と刀剣だろうと手にした時の重みで分かった。
「ちょっと預かっててくれ」
サンジーンはハンゾロウにそう頼んだ。
「何でおれがそんなことを」
「お前にしか頼めないんだよ」
懇願するように、なァ、と手を握られて、そうか、それなら仕方がないなとハンゾロウは納得した。物騒な荷物をベッドの下に放り込んで、ごろりと横になった。
「部屋には誰も入れるな」と言い残してサンジーンは再び出て行った。戻って来たのは夜になってからだった。すっかり眠っていたハンゾロウは起き上がって、もう用事は済んだのか、と尋ねた。船室の外で聞こえていた、見送りの人間や荷物を持って右往左往する客達の騒がしい声声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「ああ、済んだ」
いつものスーツ姿で、サンジーンはハンゾロウの隣のベッドに腰掛けると煙草に火を点けた。ふーっ、と煙を吐き出す。
「いやあ、いい仕事したわ」
「そうか」
頷いて、立ち上がると、ハンゾロウはサンジーンに尋ねた。
「それじゃあおれはもう帰ってもいいな」
「いいぜ?」
すぐに頷いて寄越される。
ハンゾロウは街へ戻ろうと部屋から出て、それからすぐに戻って来た。
「おい、船が海に出てる」
これでは街に戻れない。
「へえそうか、そりゃあ困ったな」
サンジーンは煙草をふかしながら腕を組んだ。
「じゃあ、この部屋泊まってく?おれの部屋なんだけど」
部屋にはベッドが二つある。偶然とは言え、その申し出は助かった。
「ありがたい」
と、返事して、ハンゾロウは先ほどまでうたた寝していたベッドにまた戻った。靴を放り出して、本格的に泊まる態勢になる。別に期日の決まった用事があるような身の上ではないのだ。街に居ようが船に居ようが同じことだった。
この船が次の港に着くまでの間、その武器預かる約束したんだ、とサンジーンはベッドの下の包みを指さした。
「その代わりに今回のターゲットの情報貰ったんだよ、てめえ、部屋に居てその荷物見張るの手伝えよ、おれの部屋に泊めてやるんだからさ」
「なんでおれがそんなことを」
他人に協力するなんて、まっぴらである。
だがサンジーンはゆっくりと煙を吐き出しながら、おまえにしか頼めないんだよ、と言った。それを聞くと、「それなら仕方がないか」と思ったので、引き受けた。
そのようなわけで、ハンゾロウは船上の人となった。
サンジーンは仕事が上手くいっているのか機嫌が良く、ハンゾロウに「お礼」をしてくれた。
煙草を深く呑むと、にやりとして、ベッドの上で手招きした。



昼間、サンジーンが部屋から出かけてしまうと、ハンゾロウは留守番なのでとても退屈する。
部屋で荷物の見張りをしてろと言われているので、勝手に出歩くことも出来ない。例の荷物は然程重たいものでもないので、いっそ持ち歩けばこの部屋にとどまらなくても良いんじゃないかと思ったのだが、
「部屋をからっぽにして、おれのパンツが盗まれたらどうするんだよ」
サンジーンは真顔でそう言った。
「誰がてめえのパンツなんて盗むんだ」
「万が一ってこともあるかも知れねえだろ、でも、おまえにならパンツを盗まれてもおれは構わないから」
信頼されているのか、疑われているのか、良く分からないことを言われた。
よく知らないが、恐らくこの部屋には、武器の他にも隠しているものがあるんだろう。
あるいは、この部屋の外で自分がしていることについて、彼はハンゾロウに知られたくないのかも知れない。
どちらか分からないが、要するに、なるべく部屋の中に居て欲しいらしいことだけは、よく分かった。
仕方なく、大人しく留守番を、ここ数日ハンゾロウは続けている。

あまりにも退屈したのでルームサービスを頼むことにした。支払いは勝手にサンジーンにつけといてやるつもりである。
退屈過ぎるのだ、酒でも飲んで寝てしまうに限る。
ドアをノックされたのでハンゾロウが出ると、通路には小さな子供が澄ました顔で立っていた。ワゴンを運んで来たようだ。
「なんだ……、おまえがウエイターなのか」
ハンゾロウが尋ねると、
「違う、おれはコックだ」
とご立腹の様子だ。
「はあ……、そうか」
この船では、ガキを料理人に雇っているのだろうか。まあそういうこともあるのか、あるのかもな、と納得することにする。
黄色い頭に船員のようなシャツ、背丈はハンゾロウの腰ほどまでしかない。青い目の、すかした面立ちの子供だった。ぷっくりとした手の指は、いかにも可愛がられて育った子供らしい、ゆっくりした動き方をする。
ワゴンを室内に運びこんで、子供は慣れた手つきで料理を盛り付けた。肉やハムや野菜を並べて、ソースをかける。器用な様子にハンゾロウは感心した。
「へえ、上手いもんだな」
褒めてやると子供は調子に乗った。
「フランべする?おれ、出来るんだ」
「いや……」
料理の盛られた皿を見て、ハンゾロウは首を振った。
「フランべは必要ねえだろ」
「そう」
子供は残念そうに肩を落とした。
「でもそれ、軽く火で炙ったほうがおいしそうじゃない?」
「そうか?」
ハンゾロウはもう一度皿を見た。
「いや……、別にいらねえだろ、危ねえし」
「そう」
残念で仕方がないというふうに、子供は頷いた。
酒を飲みながら料理を摘まんだ。その間、何故か子供はじっとハンゾロウを見ていた。
「なんだ?まだなんか用事か?」
「他に要るものはありませんか」
「他に?」
この上、まだ何かサービスしてくれるというのだろうか。よく分からないが追加注文したほうがよさそうな雰囲気だったので、じゃあ、なんかつまみながら食えるようなもんあるか、と尋ねる。
「はいよ」
子供はぱっと目を輝かせて、ワゴンの下から小皿を取り出した。小皿には小さな袋が入っていた。「おつまみすなっく」と書かれた、大変よくある定番のつまみである。塩で炒ったマメ類が詰め合わせされている。
「フランべする?」
黄色い頭を傾げてまた尋ねるので、「いや、しなくていい」と答える。
「ええー、でもこれ、たぶん炙ったほうがおいしいよ」
「そうなのか?」
ハンゾロウも首を傾げて少し考える。
「よし、フランべするね」
「いや、すんな」
「ええーっ、やりたい」
残念そうに子供が両手を身体の前で合わせてハンゾロウを責めるような目で見る。
「アホか、火遊びすんな」
ガツンと叱ると、唇を尖らせて黙った。
不貞腐れながら、子供が「じゃあ、帰ります」とワゴンを押して廊下に出たところで、
「あああ、おいおい、こんなところに居たのか」
外から若い男の悲鳴が聞こえた。
何事かと思ってハンゾロウが顔を出すと、悲鳴の主は今度こそきちんとした大人のウエイターだった。
「お客様、大変失礼致しました、この子が何かしましたでしょうか」
「いや……」
ハンゾロウは首を振った。
「別に何も」
「そうですか、それなら良かったです」
ひきつった愛想笑いでウエイターはポンと手を叩く。
「この子は乗客なのですが、ほんとにもう、どこの子なのか、悪戯ばかりしてまして……駄目だろ、ちびなす」
「ちびなすじゃねえって言ってんだろ」
子供はウエイターに言い返す。
ウエイターはちびなすと呼ばれた子供を無視して、本当に失礼しました、いつも一人でうろついてる子で、こちらも困っておりまして、保護者は一体何をしているのか、などとハンゾロウ相手にひとしきり言い訳をしてからワゴンを持って立ち去った。
ドアが閉まり、一人きりになるとハンゾロウは「おつまみすなっく」をポリポリつまみながら酒を飲んで、そのまま寝てしまおうとベッドに横になった。
ほどなくして、再び部屋のドアがノックされた。
「誰だ」
ハンゾロウは起き上がる。サンジーンの奴が戻って来たのかも知れない。
だが廊下に立っていたのは、またしてもさっきの金髪のガキだった。
「また来たよ」
悪びれもせずに、にこにこしている。
「お酒のおかわり持って来たんだ」
シャツの下に隠し持ったラムの瓶を見せる。
「そうか、気がきくな」
ハンゾロウは受け取ることにした。
「せっかくお酒があるから、フランべしようか」
ちびなすが言いだしたが、フランべはしなくていい、とハンゾロウは断った。
ベッドに座って酒を飲みだしたハンゾロウの隣に腰掛け、ちびなすは持ってきた絵本をよいしょ、と開く。ちまちました絵が描かれていた。ハンゾロウは本など殆ど読んだことがない。
「ねえ、絵本を読んでくれる?」
ちびなすはハンゾロウにねだる。
「面倒くせえな」
本音で返事すると、えーっ、と言って眉をハの字に下げる。よく見るとぐるぐる渦巻いた変な眉毛の形をしている。ちょっとだけサンジーンに似ている気がするが、彼の眉毛はこの子とは反対側、眉頭の方が巻いている。
「じゃあ、何かして遊ぼうよ」
「遊ばねえ」
「ねえ、これあげるから」
ちびなすは小さな包み紙をポケットから取り出す。中身はクッキーだった。クッキー一枚でハンゾロウを雇うつもりらしい。誇らしげに差し出して見せる。
「これ、おれが焼いたんだ」
「おまえが?いつ」
「ええと、この船に乗る前だから」
ぷっくりした指をひとつ、ひとつと折って数える。一日、二日、三日、四日……。
結構、昔のことのようである。
「まあいい、有難う」
ハンゾロウは受け取った。一口齧ると、嬉しそうにちびなすがこちらを見ている。残りも口へ放り込むと、更にニコニコした。こんなことで喜ぶなんて。
「うまいな」と言ってやると、もう一枚いる?と追加でクッキーを渡してくれた。丸くて、バターの香りがする。
そこへ、またドアがノックされた。先刻と同じように。
入れよ、と応じると、控えめに戸が開かれて、先ほどのウェイターが顔を出した。
「あっ、やっぱりここに居たか!悪ガキだな、ラムの瓶、どこに持って行ったんだ」
猫の子のようにちびなすの襟首を捕まえてウェイターが厳しく問いただす。
「……」
ハンゾロウはラムの瓶を手にしたまま、ウェイターの方を見た。
「……」
ウェイターもハンゾロウを見た。
二人は暫く無言で見つめ合う。間がもたなかったので、ハンゾロウはもう一口、ラムを瓶から呷った。
「それは、サービスします」
妙に丁寧な口調でウェイターが言った。おう、とハンゾロウは頷いた。
「ご迷惑おかけしてすみません」
ちびなすをつまみ上げたまま、ウェイターは一礼すると部屋から出て行った。
放せよう、放せってば、とちびなすはじたばたと手足をばたつかせていた。



ちびなすと入れ違いに、サンジーンが戻って来た。
酒瓶を片手にベッドに座っているハンゾロウに気付いて、少し驚いた顔をした。
「なんだ、まだ起きてたのか。いつもすぐに昼寝してるくせに」
「起きてちゃ悪いかよ」
少々、むっとした。
「いや……」
サンジーンは隣のベッドに自分も腰をおろし、顔を両手で覆った。
「ちょっと疲れたからな、隣で寝かせてもらいに来たんだよ、起きてるなら丁度いいや、少しの間見張りしてて」
「なんでおれが」
ハンゾロウが眉を顰めると、おまえにしか……、と言いかけて、サンジーンはハンゾロウが握りしめたままのクッキーに気が付いた。
「なんだよ、それ」
「ああ、これか」
すっかり忘れていた。さっき、あのガキに手渡されたまま、ずっと持っていた。
「ひとから貰った」
「ひと?誰だよ」
「さあ……知らない奴だった」
「へえ、危ないもんじゃねえの」
「大丈夫だ、さっき一枚食ったがなんともねえ」
「食ったのか」
サンジーンは少しつまらなそうにした。
「甘いもん、好きじゃねえくせに」
白い手が伸びて、ハンゾロウの手のひらを覆った。冷えた手だった。意味ありげに撫でられたかと思うと、クッキーを取り上げられた。
ぽい、とサンジーンはそれを自分の口へ放り込む。おっ、結構美味いな、とひとしきり感心している。
「てめえな、食うかよ、ひとのものを、いきなり」
「怒るなって。そんなに好きだったんなら、おれが作ってやるから今度……」
眠たそうな声だ。目を閉じて、もう眠ってしまいそうになっている。
「……寝るのか」
覗きこむと、ふいに目をあけて、サンジーンは起き上がってハンゾロウのベッドへ強引に潜り込んだ。
「おい」
「怒るなよ」
目は閉じているが、声だけ笑っている。
「あとでクッキーやるから。二枚」
「クッキー二枚でおれと取引しようってのか」
呆れて肩を揺すったが、今度はもう寝息だけしか返事がなかった。
眠った人間の身体は温かい。
つられるように眠たくなって、ハンゾロウもサンジーンの隣で、一緒に眠ってしまった。



目を覚ますと既に夕暮れ時だった。
部屋には既に誰もいなかった。サンジーンは出かけているのだろうか。すぐに戻るのか、当分かかるのかも分からない。夕飯までには恐らく戻るだろう。そういうところは真面目な男だ。ハンゾロウが腹を減らすことがないように、程良い時刻に何かしら食べるものを持って部屋に戻って来る。一緒に食べることはあまりない。セックスの時ぐらいしか近寄って来ない、勝手な男なのだ。
室内を見渡して、違和感に気付いた。
何かが先ほどまでと違う。
冷静に考えなおして、部屋の入り口脇に置いてある巨大なぬいぐるみがその違和感の正体だと気付いた。ぬいぐるみが、この部屋にあるわけがない。丸い耳に茶色の毛並み、手足は太くて、ボタンの黒目がつやつやと光っている……驚いたことにハンゾロウの胸あたりまでの大きさがある。服は来ていないが首に青いリボンをかけていた。
「……くま?」
思わず呟くと、
「そうです、くまです」
と、クマが返事して片手を上げた。
「何してやがんだ」
思わず笑った。
「見つかっちゃった」
と言って、くまの後ろからちびなすが出て来た。クマ人形にも見覚えがある。船の喫茶室に置いてあったものだ。
喫茶室の一角には子供用のコーナーがあって、絵本や人形、積み木などが置いてある。クマ人形はマスコットキャラクターのようなもので、抱えきれないような大きいものから、赤ん坊ほどの小さなものまで、あちらこちらに飾られていた。
無断であれを持って来てしまったのか。
「しょうがねえガキだな、親のところに帰れよ」
「親?」
「父ちゃんか母ちゃんのところにだよ」
「お父さんもお母さんも一緒じゃないよ」
「え……そ、そうか」
ちびなすがまっすぐな目で見上げたので、ハンゾロウは急に気まずく思った。
悪いことを言っただろうか、と考えて、すぐにそのようなことを考える自分に呆れかえる。辻斬りのくせに、親がいない子供を憐れむなんて、おかしな話だ。
「おれひとりで、退屈なの、一緒に遊んで……」
ちびなすは、うるうるとハンゾロウを見る。
「そ、そうなのか?」
「おまえが遊んでくれないと、寂しいんだよ、だから遊びに来ちゃった」
小さな子供の純粋なお願いごとは、思いのほか、ハンゾロウの胸を貫いた。これを断れる人間は少ないだろう。ハンゾロウは頷くしかなかった。



一時間も経つ頃には、ちびなすはすっかりハンゾロウに懐いた。
「ねえ、さっきのクッキーは食べたの」
「あれか」
ハンゾロウは腕を組んで、どう応えたものか考える。嘘をつくのは良くないだろう。正直に教えた。
「この部屋に一緒に泊まってる奴が、食った」
美味いって言ってたぞ、とちびなすの頭を撫でてやる。
「ふーん……」
ちびなすは、じっとハンゾロウの顔を見た。
何か言いたげなまなざしだった。
「じゃあ、もう一枚あげるよ、それか、歳の数だけあげる、ねえ、おまえっていくつ」
「歳の数?そういやァ、今日でひとつ歳をとったな」
急に思い出して、顎に手をやった。そうだ、今日は誕生日だった。だからと言って、別になんでもないが。
「誕生日?おまえ、誕生日なのか」
ぴょこん、とちびなすが飛び跳ねる。
「そうだ」
と答えると、もう一度、ぴょこん、と飛び跳ねた。
「じゃあ十枚あげるよ、特別に」
十枚は、ハンゾロウの歳の数よりずっと少なかったが、有難う、と言って受け取った。全て同じ大きさで、丸く、バターの香りのする、見るからに手作りらしいクッキーだった。表面の卵を塗られた部分が、つやつやとして美味そうだ。
「おめでとう」
ちゅ、とちびなすはハンゾロウの頬にキスをした。
「アホか」
ハンゾロウはちびなすの頭を軽く小突いた。ちびなすは嬉しそうにえへへと笑った。
それから時計を見て、悲しそうに俯いた。
「もう帰らなくちゃいけない時間だ、食事に行かないと」
「そうか、飯の時間か」
ハンゾロウは頷いた。子供はきちんと規則正しく生活しなくてはならない。じゃあもう帰れよ、と背中を押す。
「ねえ、おまえさ」
ちびなすはもじもじと口ごもって、ハンゾロウをちらりと見上げる。大抵の大人なら、彼にそのようにされて参らないわけにはいかないだろうというような目つきだった。ハンゾロウは冷酷な辻斬りで世間とは無縁に生きているが、それでも若干の心の揺らぎを感じざるを得なかった。
「おまえさ、ごはん食べ終わったら、また遊んでくれる?」
なんだそんなことか、とハンゾロウはすぐに頷いてやった。
「しょうがねえな……」
この子供には、自分しかいないのかも知れない。父親も母親もおらず、一人で船のなかで遊んでいたのだ。たまさか構ってくれた大人にこんなにも懐いて、きっと寂しいのだろう。
あの大きなクマのぬいぐるみのように、一緒にいて背中でかばってくれる存在が、この子供には必要である。
船のなかにいる間だけでも、寂しい思いはさせちゃならねえ。
辻斬りのおれに、なついてくれたモノ好きなガキだ。
ハンゾロウはそう考えた。基本的に真面目な男である。
ちびなすはハンゾロウの決意を知ってか知らずか、
「このお部屋に誰と一緒に泊まってるの」
と不思議そうに尋ねた。
誰、と改まって訊かれると答えることが難しい。
サンジーンはハンゾロウにとって友達でも家族でも仲間でも、なんでもない相手だ。
「まあ……知り合いだな。同い年の男だ」
ふうん、とちびなすは首を傾げた。襟足に黄色い髪がながれてはらはらと掛った。
「仲良しなんだね」
「仲良し?まさか」
うっかりふきだしそうになったが、さすがに子供相手に身体だけの関係だ、とも言えなかった。
「仕事が似てる相手だ、それだけの関係だ」
答えのような答えではないような、わけのわからない返答になってしまったが、
「ふーん」
と、ちびなすは応えた。



夜になって、サンジーンが戻って来たのでハンゾロウは食事を済ませてから船内をうろつくことにした。サンジーンには「散歩だ」と言って出てきた。
甲板は夜になるとだいぶ冷えた。あちらこちらと歩きまわったがなかなかちびなすが見つからない。夜食の時間頃にはラウンジに居ると言っていたが、ラウンジはどこにあるのだろう。
いくつか階段を上り、下り、ベンチの並ぶ場所へ出た。休憩スペースのようになっているようだが、夜なので今は誰もいなかった。
手すりから海を見下ろす。
船の照明で海面がきらめいて、それ以外の部分は墨のように黒かった。
「何やってんだ、寒くねえのか」
背後で声がして、振り向くとサンジーンが立っていた。
部屋を空っぽにしていいのかよ、と尋ねると、
「いいんじゃん?鍵しめてきたし」
なんでもないことのように応えた。普段ハンゾロウには部屋にいろ、荷物を見張っていろと言いつけているくせに、好い加減である。
「鍵かけたら出かけていのかよ」
「ちょっとぐらいなら平気だろ」
「じゃ、おまえが出かける時も鍵をおいていけよ」
「やだよ、おまえ絶対なくすだろ、そもそもいつ戻って来れるか分からねえだろこんな広い船で、この迷子野郎」
「散々だな」
肩を竦めて溜め息を吐く。
「それで、何か用か」
ハンゾロウの質問に、サンジーンは煙草に火を点けてから応えた。
「別に」
「へえ、そりゃ、御苦労さまなこった」
「嫌み言うなよ」
おれがおまえ捜しに来たのがそんなに気に入らないわけ、と睨む。煙草の火が蛍のように赤い。
「さっきのクッキー、机の上に置いてあったけど、あのあとまた貰ったの、誰かに。あとあのでかいクマのぬいぐるみ、何なんだよ」
ちら、とサンジーンの目がこちらを向いた。彼の眼球も海面と同じように表面の部分が照明を反射して少し光っている。それだけ滑らかな部分なのだ。
「貰った。今日が誕生日だって言ったら、十枚くれたんだ。クマは、忘れモンだ」
ありのままを答える。煙草の火が一瞬強くなり、また暗くなる。煙を吐き出してから、
「へー、おまえ今日誕生日だったの」
サンジーンは感心したように言った。
ちょっと今は何も持ってねえなー、と言ってから、掠めるように頬に唇が押し当てられた。
「おい、外で止めろ」
「へへ……」
今のがプレゼント、と笑い声で言う。
頭を撫でられ、もう一度、ちゅ、とやられた。今度は唇に。何度か吸いついてから深くなる。耳朶を掴んで引き寄せると愛おしそうに唇の表面を舐めて、もう一度深いキスをした。両腕が背中へまわり、額を胸に押し付けて、またキスしてくる。
「やめろ、こういうのは惚れ合った相手とだけやるもんだ」
ひとしきり甘えた仕草をしてから、手を繋いでまたキスされて、とうとうハンゾロウは顔を背けて続きを断った。
なんだよう、とサンジーンが唇を尖らせる。
「普段あれだけ激しくえっちしておいて?」
「あれはあれだ……あれは、あれだろ」
さすがに言い訳がましくなる。
「なにが、あれはあれだよ、アホくさ。キスは別とか言う気か、乙女か」
サンジーンが馬鹿にする。ハンゾロウはむっとした。
今までこんな触り方をされたことはなかった。セックスの時しか寄りつかなかったくせに、何だ。
「今までしなかっただろ」
「は? ああ、そりゃ……まあ……」
暗がりで、サンジーンが上着の胸ポケットを探るかさかさいう音が聞こえる。煙草を探しているのだろう。さっきまで咥えていたものは、いつの間にかどこかになくなっていた。海に捨てたのか足元で踏み消したのか。
「おれは不愉快だ、部屋に戻る」
ハンゾロウはサンジーンの腕を振り払った。
「勝手にしろよ」
ふん、と言い返す。
ブーツの重たい足音をたてて、ハンゾロウはその場を立ち去る。まだ何かを探すように通路を歩き回っているのが暫く甲板から見えていた。そのうちどこかの角を曲がって見えなくなる。
サンジーンはそれを見送ってから、両手で顔を覆った。
参ったな、あいつ、そんなことを考えていたのか。
おれとあいつが惚れ合っていないって?
「……かわいいな」
煙草を足元で踏みつぶすと、サンジーンはハンゾロウの後を追うことにした。捜せば、たぶんまだ、その辺にいるだろう。
それとも客室係に頼んでケーキでも用意させて、部屋で待っていてやろうか。
そのあとセックスして、おまえとは最悪の相性だが、身体の相性だけはいいな、と言ってみようか。あいつは馬鹿だから、そんな言葉を信じるだろうか。
からかって遊びたい。
サンジーンは、冷酷な、殺し屋なのである。狙った獲物を撃ち抜く時の快感と言ったらない。



--------------
 → → →