1話 19歳
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船は順調に航海していた。ここ数日天候にも恵まれ、波も風も、海に慣れた者には心地よい。
中央広間から階段を上がるとこの船で一番広い食堂がある。特等以外の船客は全てここで食事をとることになってい

る。食堂と同じ階層にギャレイがある。料理長はまだ十九歳の若者であることは船客にはあまり知られていない。食事

時に船長とともに挨拶に出ることもあるのだが、あまりに若いためウェイターの一人と思われているのだ。
艶々と光沢のある手すりをたどってゾロはギャレイに行き着いた。この船ときたら馬鹿のように広いので、しょっち

ゅう現在地が分からなくなってしまう。だがこの艶々の手すりをたどるとそのうちに料理の良いにおいが漂って来て、

スチールの扉が見えると、そこが料理長たるサンジの城であることだけ、きちんと覚えている。
調理場のあるあたりは通路も細くなり、基本的には船員だけが出入りするようになっている。絨毯も一段粗末なもの

になる。ごくシンプルなクリーム色の絨毯は掃除が行き届いているが、よくよく見れば、いくつかのしみがある。食器

を運ぶ時にこぼしたソースのしみだ。通路の途中に外へ出られる扉がある。ここからデッキ上のテーブルにも料理が運

ばれるのだ。
窓ガラスの向こうに見慣れた黄色い頭が見えたので、ゾロは扉から外へ出た。屋外は眩しくて、目がくらみそうだ。

海風がやや冷たい。
「なんだ」
サンジがこちらを向いた。
「てめえか」
ふう、と煙をくちから吐く。煙草を吸っていたらしい。
「今丁度飯時過ぎて休憩してたとこだよ、何てめえ、また迷子になってたのかよ、てめえの分のメシも用意してたの

に」
「別に迷子じゃねえ。船が広すぎんだ」
しぶい顔でゾロはサンジの隣に並んで立つ。
「要するに迷子ってことだろ、しょうがねえ野郎だな」
わざとらしく馬鹿にするような声を出す。だがすぐに調理場に引っ込んでトレイを持って来てくれた。
「食えよ、景色見ながらのほうが美味いんじゃねえ。それとも中で食うか」
大振りのバゲットに鮭や野菜やゾロには名前が覚えられないソースが挟んであった。
「いや、ここで食う」
立ったまま、ゾロはパンにかぶりついた。サンジは笑ってもう一度ギャレイへ引っ込むと琺瑯のカップを持ってきた

。紅茶がなみなみと注がれている。通路のところどころにある作り付けの小さなテーブルに、サンジはカップを置いて

やった。
ゾロはこの船では、密航者という身分である。
つまり、自分用の切符も船室も持ち合わせていない。
釣りでもしようとぶらりと乗った船がたまたま長距離移動の客船だったのである。運が悪かった。それをサンジに拾

われて、どうにかこうにか、咎められずにこの船に乗っている。
ゾロにはもともと目的地が無い。ある男を探してあてどない旅をしていたところなので、予定外にこの船に乗ってしま

ったことについても、別段困ってはいない。
目的の人物についてサンジに尋ねられた時に
「どこに居るのか分からない、東の海にいることだけは確かだが」
と答えたら、大変呆れた、という顔をされた。
その男にどんな用事があるのかと更に質問され、
「倒す」
と答えたところ、更にとんでもなく呆れた、という顔で対応された。
こんなちゃらちゃらした船のコックになど、ゾロの考えが分かるはずがない。ゾロはそう思うことにした。
サンジはゾロに文句ばかり言う。
だがメシを食わせてもらっているので文句は言えない。
「てめえみてえなアホ腹巻、仕方なく面倒見てやってるだけなんだからな」
よくサンジはそう言ってゾロを蹴飛ばす。非常に腹立たしい。
「料理長のおれくらいしか、てめえに勝手に食事出してやるとか出来ねえし、船内に個室があるのも船長でもなきゃ

おれくらいだし……とにかく、他の奴じゃ無理だなと思って仕方なく拾ってやったんだ、本当に仕方ねえからだ」
本当はおれは嫌で嫌でしょうがねえんだからな、とこまめに憎まれ口を叩くが、不思議とゾロに対する世話の焼き方

はまめまめしい。他人におせっかいするのが好きなタイプのようだ。
紅茶はあまい香りがした。何か混ぜてあるのかも知れないがゾロにはよく分からない。よく分からないが、美味い。
「てめえな、あんま船内をうろつくなよ、無断乗船のくせに見つかったらどうすんだ」
「こんだけ大勢の客が乗ってりゃ、一人くらい気付かねえよ、毎日切符を確認するわけでもあるまいし」
そもそもこの船が紛らわしいとこに泊まってたからいけねえんだ、おれは漁船に乗せてもらう予定だったのに、と偉そ

うに言う。こんな客船と漁船を間違える奴はいねえ、そもそも漁船の停泊エリアじゃなかっただろ常識で気付けェ、と

軽く小突かれる。うるせえなと思ったが無視することにした。アヒルの相手を一日中まともにしているとこちらが疲れ

る。
「密航は海に投げ込まれても文句言えねえんだからな、ちっとは自覚しろよ」
ふと、本気の顔で、サンジはゾロを見た。すぐに目をそらして、新しい煙草に火をつける。風が強くてなかなか点かな

い。苛立ってライターをカチカチ鳴らしている。
「おれが海に投げ込まれようが、てめえにゃ関係ねえだろ、いつもそう言ってるくせによ」
「それは……」
カチカチカチカチと何度かやってから、サンジは諦めてライターを投げた。手すりに当たってどこかに落ちる。
「まあ、せいせいするだけだけどな」
いつも憎まれ口だなてめえは、とゾロがサンジに空になったカップを手渡す。
サンジはカップを受け取る。
「いいから、今日くらい部屋にいろよ、いいな」
強い口調で言って、船内へ戻ろうとする。サンジの仕事は忙しいのだ、一日中、暇になる時間などない。今日はとく

に暇がない。無理に予定をやりくりして、はやめの時間に上がれるように調整している。
「なんでだ」
ゾロは手すりにふんぞり返って尋ねる。
サンジは俯いた。不貞腐れている時のやり方で、無理に首をねじまげてゾロから顔をそらしている。
誕生日なんだろ……ケーキを……
小さく呟いたが、風で流れてゾロにはよく聞き取れなかった。
「あ?聞こえねえよ」
「なんでもねえよ!」
ぱっと振り向いてサンジは言い返した。
「なにもてめえの誕生日に、海に飛び込むことねえだろ、こんな寒い日に」
怒った顔をしているが、ゾロには理由が分からない。よく誕生日のことなんか覚えてたな、こちらはいつそんな話を

彼にしたのかさえ覚えていないと言うのに、と思っただけだ。
だが、あんまり必死な様子だったので、
「仕方ねえな、じゃあ部屋に戻っててやる」
ゾロは偉そうに応じた。
偉そうに、どうせ毎日寝てるだけのくせに、と怒鳴ってやろうかと思ったが、そこはサンジがぐっとこらえた。腹巻

マリモの相手を一日中まともにしたって疲れるだけである。
「いいか、まっすぐ行って、一番最初の階段を下りて、右の通路だからな」
「おう」
緑の頭が、自信ありげに頷いた。
ゾロはその場でサンジと別れ、まっすぐ歩いて、一番最初の階段を下りて右に曲がった。ただしそれは、船の外に出る

階段だった。サンジが言ったのは内階段のことである。船室に戻るのだから内階段からでなければいけない。だがゾロ

は、ちょっとそこまでは、思いつかなかった。



階段を下りるとデッキの少し広くなったテラスのような場所に出た。ベンチがいくつか置いてあり、人々の休憩スペ

ースになっているようだ。さすが大型客船は違う。
乗務員用の船室に向かうつもりだったのに、どうしてこんな場所に出たのだろう。行きがけには通らなかった気がす

る。
「あっちか?」
適当に左右を見渡して、再び階段を見つけると、ゾロはまた歩き出そうとした。適当に歩けばどこかしら知っている

場所に出るのではないかと考えたのだ。この方法でゾロは生まれ故郷から東の海のはずれのこの地域まで数年がかりで

流れて来た。
ところが歩き出そうとしたゾロの足元に、小さな黄色い丸い物体が体当たりしてきた。
「いてッ」
黄色い丸いものは悲鳴をあげた。
「なんだよ、急に動くなよ、アンタ」
きいきいとゾロを見上げて怒鳴るのは、まだ六つか七つかそのくらいの年頃の子供だった。髪の毛が見事に金髪なので

、上から見ると黄色い毬みたいに見える。眉毛がぐるぐる巻いている。どこかで見たような眉毛だ。ゾロは舌打ちした


「舌打ちかよ」
すかさず黄色丸が文句を言う。
うるせえな……、とゾロは思った。まるであのコックのようだ、人に文句ばかり言う。
面倒くさいので保護者のところへ追い返そうと思って周囲を見渡してみたが、どうやら黄色丸は一人きりで甲板を歩

いていたようである。
こんな子供が船の上で独り歩きしているというのも、珍しい。危険な場所も多いのに。
「てめえ親はどうした、迷子か」
ゾロは屈んで黄色丸に尋ねる。
「は?迷子になるわけねえだろおれが。おまえこそ、迷子なんじゃねえの、さっきからうろうろキョロキョロして」
黄色丸は生意気なことこの上ない。大人を迷子扱いするなど。
まあ……ガキの言うことだ。ゾロは取り合わないことにした。
「一緒に船に乗ってんのは父ちゃんか、母ちゃんか、どっちだ。探してやる」
やせっぽちのガキ一人、ゾロにはほんの軽い手荷物みたいなものだ。小脇に黄色丸を抱えて、のしのし歩きだした。と

りあえず目についたので、階段へ向かった。高いところに上れば保護者が見つかるかも知れない。
「たすけてーっ」
黄色丸が大声を張り上げた。
「ゆうかいされるーっ、だれかーっ」
広場には十人程度の大人が居た。一斉に、ゾロの方を見る。不審者を見るような目で。
「…………」
ゾロは黙って黄色丸を下ろした。
黄色丸は、ふん、と鼻を鳴らしてから、腕を組んだ。勝ち誇った態度だ。物凄く生意気で腹立たしい。
「別にてめえが騒いだからじゃねえぞ」
ゾロは子供相手にはっきりと念を押した。
「船んなかで目立つなって、いつもいつもうるせえ奴がいるからだ」
「ふーん」
はいはい、ああそう、という様子で黄色丸が頷いた。腹が立つ。
だが目立たないように言われているのは本当なので、黙って引き下がってやることにした。運の良いガキである。
全体ゾロは密航者である自覚が薄い。
それをサンジがいつも必死で追いかけて来て、目立つな、人の集まるところへ行くなと口煩く諭す。
ゾロからすれば、いつもいつも、勝手にゾロを自分の部屋に連れ込んだくせに、親の敵かなにかのように睨んで叱りと

ばし偉そうに指図するサンジは、こうるさい小姑みたいな存在である。メシを食わせてもらっているので文句は言えな

いが、癪に障る。
邪魔したな、勝手に自分で親をさがせよ、と立ち去ろうするゾロの手を黄色丸が掴んで止めた。
「なんだ」
ゾロの目を見上げて、黄色丸はほんの少しだけ言い淀んだ。
「ええと……おまえが迷子になったら困るから、もうちょっとここに居てもいいけど」
なっ、そしたらあとでおれが送ってってやるから、お散歩終わるまで待って。
アヒルのように口をとがらせて、ゾロの手を引っ張って、黄色丸は必死だ。
行かないで、とその表情が語っている。子供一人では寂しいのかも知れない。
しょうがねえな、とゾロは近くのベンチにどっしり腰を下ろした。
「待っててやるから、散歩して来い」
「うん」
黄色丸がぱっと明るい顔をする。安心したようにゾロの膝を叩いた。
「すぐに戻って来るから、ちゃんといい子で待ってろよ、おまえが今向かおうとしたの、船室と逆だからな、一階上

のデッキにのぼるだけの階段だからな」
「……」
ゾロはちらりと進行方向にあった階段を見た。またとりあえず目についたので、上ろうとしていた。
「そうか…世話になるな」
頷いて、大人しくベンチに腰掛けた。
黄色丸はひとりきり甲板をうろついて床を蹴ったり壁を叩いたりしていたが、すぐに飽きてゾロの隣へ戻ると並んで

座った。
「日向ぼっこだ」
そう言ってゾロの顔を見て、ふん、と鼻から息を吐いた。膝をぶらぶらさせている。まだ船室に案内してくれる気はな

いらしい。
「ジジイが、たまには太陽にあたれってうるさいから」
「ジジイ?爺さんと来てるのか」
「うん」
「へえ、いいこと言う爺さんだ」
ゾロは頷いた。
「確かに、たまに日にあたんのは良いことだろう」
一日中ギャレイと食堂の往復ばかりしているサンジの頬や腕が真っ白なことを、ゾロは思い出した。昨夜、部屋で着

替えているときに見たふくらはぎなんか、真っ白過ぎて人形かと思ったくらいだ。昼間、コックコートで走り回る彼を

見ても、どうしても思い出してしまうくらい、真っ白だった。見たことはないがシャツの下もあのくらい白いんだろう

、と考えると、何故か妙に落ち着かない。
黄色丸が、ちょっと待ってて、と言い置いてベンチを飛び降りた。走ってテラスの端まで行くと、テーブルの上に置

かれた絵本を持って駆け戻って来た。ゾロは黄色い頭が遠ざかり、小さくなって、それからまたものすごい勢いで眼の

前に戻って来るのを黙って見ていた。
「ほら、絵本。これおれのなんだ」
黄色丸はゾロに一冊の本を見せてくれた。古めかしい色で塗られた絵本で、表紙には人間のように椅子に座る牛のよ

うな生き物と、その生き物にパンを差し出す料理人のイラストが描かれていた。
「船が揺れてお茶をこぼしたから、外のテーブルで干してたんだ」
本の脇を見せて、少しだけ紅茶色に染まった部分を指さす。
「夜はたいくつだから、ジジイにいつも読んでもらうんだ」
よくよく見れば、表紙がだいぶ傷んでいた。もしかしたらこの一冊しか持っていないのかも知れない。それを繰り返し

繰り返し毎晩読んでいるんだろうか。
「でもジジイは老眼だから、たまにこーやって」
目を細めてぐっと両手を伸ばして絵本を遠ざけ、黄色丸はページをぱらぱらめくる仕草をして見せた。
「本を離して読むんだ」
これには思わず笑った。子供というものは遠慮がない。容赦もない。
「ねえ、今夜はおまえが読んでよ」
ちらりと窺うように目線がゾロを向いた。目の玉は灰色がかった青だった。ゾロの故郷にはこういう人間はいなかった

。サンジとよく似た目だ。
毎晩、毎晩、同じ絵本をジジイに読ませていたものを、絵本はそれきりしかないので、読み手を変えて楽しもうとい

う趣向か。
両手を振って、おいおい勘弁しろよ、と断った。
「おれはこの国の文字は読めねえよ」
えー、と黄色丸はつまらなそうに唇を尖らせた。まるでアヒルみたいだ。
「おまえって、アホだな」
「すまねえな」
ゾロは素直に謝った。黄色丸は暫く不貞腐れていたが、すぐに、あっ、という顔をして元気を取り戻した。
「じゃあさ、おれが教えてやるよ、字」
「ああ?てめえが?」
「うん」
「読めるのか」
「当たり前だろ」
馬鹿にされたと思ったのか黄色丸が憤慨する。
正直面倒くさい、よその国の文字を習うなんて。
余計なお世話だ、と答えたいところだったが、それもそうか、少しぐらいは読めた方が良いか、とゾロは考え直した

。船内の標識も読めずにいつもサンジに馬鹿にされているのだ。食いたいもんがあったらリクエストしろよ、持って来

てやるから、まあほんのついでに、別にてめえのためじゃねえぞ勘違いすんなよな、でも好きなもんあったら選んでい

いからマジで、と何故かキレ気味に寄越したメニュー表も、結局文字が読めないままにサンジの部屋のデスクの上に置

きっぱなしにしてある。
ゾロが読めるのは、サンジの部屋の入り口に貼りつけてある小さなプレートの文字だけだ。彼の名前がそこに刻まれて

いる。
「なっ、だから今夜、ラウンジに来いよ」
黄色丸はなおもねだる。ゾロの膝に手をついて、身を乗り出している。
「ラウンジって、あの人がたくさんいるところか」
ゾロは少し渋い顔をした。あまり人の集まるところへ出入りするのはまずいかも知れない。サンジが怒るだろう。
「夜は殆ど誰もいないよ、時々料理人がお菓子を配りに来てくれる他は……今日のおやつはケーキだって聞いたよ、

昨日」
ねえ、来て、とねだられて、ゾロは悪い気はしなかった。
うぜえ、近寄るな、といつも言うあのコックの態度とは大違いである。この船に乗って以来、他人と全く交流していな

かったので、来てくれとねだられるなんて、本当に随分久しぶりのことだ。
「しょうがねえな」
頷いてやると、黄色丸は素直に目を輝かせた。真昼の海のようだった。眩しいくらいだ。
絵本をゾロが読んでやれないことが明らかでも、黄色丸はゾロに来て欲しいのである。絵本など口実のようなものだ


あのクソコックにもこのくらいの可愛げがありゃあいいのに。
絶対だよ、今日の夜食はいつもより一時間はやいからね、料理長が出来たてのおやつを持ってくる時間にまにあうよ

うに必ず来てね、とおねだりしながら黄色丸はゾロと手を繋いで、それでおまえの行きたい場所ってどこ、と尋ねてく

れた。
「おう、こっちの船室だ、ついて来い」
ゾロは自信満々にとりあえず目についた外付けのタラップを降りた。
「おい、アホ腹巻」
黄色丸はきいきいと叫んだ。
「そっち、プールに降りる階段だぞ、船室なんかどこにもねえよ。おまえ、本当に今夜ラウンジに来れるの?」
呆れ顔の黄色丸に、ゾロは頼もしく頷いて見せた。
「必ず行く。おれは約束は守る男だ」



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2011 Z0R0TAN , FeCa / DR000P合同
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