2話 マフィア
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「朝か」
見るからに「朝日がしみる」という顔でサンジーノが毛布の中から顔を出した。彼は寒がりで、サービス係に頼んで

毛布を三枚も出してもらってそれを頭までかぶって眠るのだ。
「朝か、じゃねえよ、じきに昼になる」
ゾロシアがネクタイと格闘しながら答える。結び目はコブのようになってどう見ても上手く結べているようには見えな

かった。諦めたのかむしり取って椅子の上へ放り投げる。
「なんでメシ食いに行くだけで正装なんだよ」
「ネクタイだけでいいんだぞ、正装ってほどのもんじゃない」
「なんでこんな紐結ばねえとメシが食えねえんだ」
心底忌々しそうに言うので、サンジーノはゾロシアのことが面白くて仕方がない。
「おい、昼間は別に普通の服装でいいんだぜ、タイ着用は夜だけだ。おまえ本当、説明書っぽいもの読むの嫌いだよ

な」
「なんだそりゃ、先に言えよ」
「いつ気が付くんだろって思ってた」
まさか何日も気付かないとはなーと嫌味っぽく言ってやると舌打ちする。まるでガキだ。これが悪名高いゾロシアファ

ミリーの首領なのだから驚く。
「おまえって、一人じゃタイも結べない首領なわけね」
「堅苦しいのは嫌いだ、どうしてものときゃあ、誰かに結んで貰えばいい」
「ネクタイして、外に出かけて、女の子ちゃんと仲良くなったときはどうすんの、まさか優しく結びなおして貰うん

じゃねえだろうな」
「アホか、絞殺されたらどうすんだ」
真顔で言い返すと何故かツボにはまったようだ。サンジーノが笑い転げる。
「じゃ、毎日ネクタイ締めてやろっかな、せめて船の上にいるあいだは」
乱れた金髪を適当に手でなおしながら、ベッドの上で起き上がる。毛布がはだけると、胸のあたりも腹も、海の上で

は場違いなくらいに真っ白だった。ゾロシアは彼のそういうところが気に入っている。海の上なのに真っ白な肌をして

いたり、マフィアなのにアホでお人好しなところがいい。
「……そしたら、てめえが外で浮気したら、すぐに分かるだろ」
策略を練る時と同じくらい得意げな顔でサンジーノが言う。何が浮気だ、と言い返す。
男二人で寝ても広すぎるサイズのベッドの上で、いつまでもサンジーノはぐずぐずしている。セカンドルームにもう

ひとつ一回り小さいベッドがあるのだが、そちらは二人がこの船に乗って以来一度も使われていない。
「おい、起きるのか起きねえのか、おれだけでメシに行っちまうぞ」
「冗談だろ、てめえみてえな迷子腹巻が辿り着けるわけねえよ、上客用のすんげえ分かりにくい位置にある食堂なん

て」
おい、おれの煙草どこだ、とサンジがシーツのなかをごそごそ捜す。そのうちに見つかったようだ、ライターで火をつ

け、深呼吸するように煙を吸っている。
「寝起きの悪いドンだな」
片方の眉だけ上げてゾロシアがサンジーノを馬鹿にする。
「誰のせいだと思ってやがる」
「……おれか?」
思い当たったのかまんざらでもなさそうに頷いた。
ふん、とサンジーノは煙草の火を枕元の灰皿に押し付けて消した。
「ちげえよ、うぬぼれんな。アイツのせいだよ、紅茶屋のおっさん」
「今回のクライアントな」
「こんなベッドの広い部屋をとるから、うっかり寝そびれるんだ、シーツまで上等ときたら、寝られるわけねえよ」
なあ、と猫が唸るような声で同意を求める。
ベッドサイドのチェストには真っ白な陶器の灰皿と、薔薇のつぼみの形のランプ、羊皮紙の聖書が綺麗に並んで置かれ

ている。デスクの上の万年筆も毎日新鮮なものが運ばれるフルーツのバスケットも、なにもかも、ほんの少し悪趣味で

、まんべんなく金のかかっていそうな部屋である。
ゾロシアがベッドに腰掛けた。マットが重みで傾ぐが軋んだ音をたてることはない。
まるで水から顔を出す時の鳥の首のように、腕が伸びてゾロシアの頭を抱え込むと引き寄せた。寝起きで乾いた唇が触

れる。湿らすために何度かゾロシアはサンジーノの唇を舐めた。充分潤うとキスもしやすくなる。顎を押さえて喉まで

舌を入れてやろうとすると「おい、朝だぞ」と短い髪を引っ張られる。
「朝じゃねえよ、じきに昼だって言っただろ」
「余計悪ィよ……もう……っ」
裸の胸を指が這って、喉と耳に吸いつかれた。
毛布のなかにゾロシアの腕がもぐりこむ。
「あっ」
ちょっと、おい、と悲鳴を上げたあと、ゾロシアの腕がもう一度、ぐい、と動いて肩まで毛布にもぐったあたりでサン

ジーノはくすぐったそうに笑った。
「もう、馬鹿だな、やめろつってんだろ」
「やめねえよ」
「やめろ」
「やめねえ」
「おいッ、次は本気で怒るぜ」
「おいおい……」
動きを止めてゾロシアはサンジーノを見た。
「いちいち文句言いやがって、うぜえな、縛ってやろうか」
素早くサンジーノの手首を掴んでベッドの上に身を乗り出すと、後ろ手にひねり上げた。
「い…ってェ」
呻いて顔を伏せるのを無視して、片手だけで押さえつけるように動きを封じ、あいた手をまた毛布のなかへ潜らせた


「馬鹿……」
サンジーノは目を閉じている。薄い瞼の奥で眼球が震えるように動く。うっすら汗ばんだこめかみにゾロシアは口を付

けた。軽く噛みつく。
「押さえつけられて興奮してんのか、いいざまだな」
焦らすように、毛布のなかの腕はゆっくり動いている。見えないところでサンジーノが足を擦り合わせるのが毛布の

皺になって分かる。
「あ……、好い加減に……」
「好い加減に、何だ」
体勢的にはこちらが有利だ。余裕たっぷりにからかって楽しむ。
「……やめねえと、撃つぞ」
押さえつけていた上体を、ねじ曲げるようにひねった途端に額に冷たい筒が押し当てられたのが分かった。あまりに

素早かったので良く見えなかったが、銃口が細いものであることだけは目ではなく額の感触で良く分かった。
ゾロシアは両手を上げて見せた。
「降参だ」
「そのまま、そっちの壁に両手をついて、背中をこっちに向けろよ」
言われた通りに立ちあがり、銃を突きつけられたまま薄い色で花模様の入った壁紙に両手をつけた。背中をぐりぐり

と銃口で押してから
「暫くそうしてろよ」
とサンジーノが言う。
肩を竦め、ゾロシアはそのままの姿勢で暫く立っていた。動き回っていると殆ど感じないが、こうすると、ここは海

の上だということが壁や床の動揺で思い出される。
「おいまだか」
背後に向かって声をかけると、
「あとちょっと」
と笑い声で答えた。彼が何をしているのかゾロシアからは見えない。
「もういいぜ」
ややあって許可が出たので、手を下ろし振り向くと、サンジーノはいつの間にかいつものスーツ姿になっていた。随分

素早い着替えだ。
ゾロシアは思わず舌うちした。
「もう着ちまったのか」
「着替えるとこ見てどうすんだよ」
楽しげに応じてから、サンジーノは白いスラックスの腿のあたりをゆっくりと自分で撫でてみせた。
「なんだよ、どんな下着か見たいのか?夜に見せてやるよ」
どこまで冗談か分からない。ゾロシアとサンジーノのファミリーは敵対したり協力したりする微妙な関係だが、ゾロシ

アとサンジーノ自身も、敵対したかと思うと時間を忘れて抱き合い、そうかと思うとまた離れる。
「今見せてもらう」
「アホか、駄目に決まってるだろ」
遠慮なく踏み出そうとしたゾロシアに、サンジーノは後ずさりして手を腰あたりへやった。
「おい、すぐ撃とうとするな」
「てめえの銃も剣も乗船と同時にとりあげちまったからなァ、今のおまえ、ただの子猫ちゃんだよ」
嫌味っぽく言われて、ふん、とゾロシアは腕を組んだ。
この旅行自体が彼の企画とは言え、今回のサンジーノはあまりにも手際が良かった。船内に協力者を潜ませているのか

も知れない。ここは逆らわないほうが賢明だろう。
「言っとくがおれは素手でもすげえぞ」
これだけは言っておかなくては、と思い、ゾロシアはそう言ってやった。サンジーノは聞きもしない。
「負け惜しみか」
「負け惜しみじゃねえ」
「船を下りる時、かえしてやるよ」
「クソ」
口ではかなわない。ゾロシアは再び舌打ちする。
椅子に掛けたままだった上着をゆっくり拾い上げ、袖を通すと、サンジーノはポケットから時計を出した。
「そろそろクライアントの食事のお時間だからな、護衛にいかねえと」
ゾロシアはソファに身を投げ出して足を組んだ。
「わざわざファミリーのボスが出向いて、おもりかよ、どんなクライアントなんだ」
探るような言い方に、サンジーノは軽く手を振って見せた。大したことじゃない、という態度だ。
「紅茶の貿易会社の社長だよ、普通のおっさん。今回は別件の事情があるんだ」
「どんな」
「紅茶を買い取る相手に用事があるんだよ、おれらのところが。そのついでにおっさんのおもりをしてる、そんだけ

だ」
へえ、とゾロシアは応じた。
それにしたって、サンジーノが一人きりで出向く意味が分からない。尤も船のどこかしらにはファミリーの人間を潜ま

せているはずだと思うのだが、今回は、ちっともその気配を感じない。まるで二人きりで過ごしているかのような、静

けさなのだ。
「変な趣味のあるおっさんなんじゃねえのか」
丁度ゾロシアの横をすり抜けて部屋を出て行こうとしたサンジーノの、尻を、ゾロシアは撫でた。
「ひゃうッ」
途端に生娘みたいな声を出す。「ん?」と、ゾロシアは目を瞠った。
「おいてめえ、はいてな…」
「ざけんな」
物凄い勢いで足がとんできて、蹴り飛ばされた。ソファから転げ落ちる。あぶねえな、とゾロシアが怒鳴る。鍛えて

なかったら命が危ないところだ。
「てめえ、エロ眉毛、ひとを呼び出して無理やり船に乗せといて、何だその態度は」
うるっせえ、てめえが変なことするからだろうが、と怒鳴り返される。確かに変なことをしたかも知れないので黙る。
「……あんな、一人で船に乗ってたら不自然だろ、素性を怪しまれるだろ。次の港に着いたらおうちへ帰してやるか

ら、大人しく言うこと聞いてろ今回くらい。てめえと一緒ならゲイカップルのハネムーンに見えるだろ、たまにゃ協力

しろよ」
「てめえみたいな女好きがか?女でも乗せたほうが自然だったろ」
「馬鹿か、レディをそんな危険な目にあわせられるか、それにナミモーレさんとロビータちゃんも、てめえなら別に

いなくても差し支えないから連れてってくれと言ってたぜ」
「おい、かりにもおれがボスだぞあいつら」
「役に立たねえからなァ、てめえは」
やれやれ、と肩を竦めて見せられる。腹の立つ男だ。ちょっとアヒルに似ているくせに。
「何が目的だ……てめえがそんな単純な奴じゃねえことぐらい知ってる。ゲイのふりしてえだけなら、それこそクラ

イアントのおっさんの部屋にでも泊まりゃ良かったんだ。精一杯しなつくっていちゃついてるとこ、他の連中に見せて

やりゃ良かったじゃねえか」
サンジーノは鼻で笑った。
「別に魂胆なんかねえよ」
にや、と目を三日月のように細くする。
「演技っていうのは案外すぐばれるもんなんだよ、港に着くまで、不審な客だと疑われたら元も子もない。その点て

めえならホンモノだからなあ、このホモ野郎」
こんだけ毎晩ベッドではげんでりゃ、とうにボーイに伝わってるだろ、とニヤニヤしてゾロを見る。
「それはてめえだってそうだろ」
呆れて、ゾロはまたソファに座りなおした。深々と腰掛け、背もたれに背中を預けて仰向けになる。
「調子にのるなよ、おまえとのことなんて、火遊びもたまには楽しいと思ってるだけさ」
入り口側の姿見で、髪やスーツの袖を確認してから、サンジーノは振り向いた。ゾロシアもソファの背もたれ越しに

そちらを向く。
「素直なのは身体だけってか」
「はは……」
馬鹿馬鹿しい、と馬鹿なものを見る目つきで言われた。
「いいから、てめえもおれが戻る前に部屋から出ていけよ、今日は夜まで戻ってくるな」
「はあ?」
思わず身を起こす。今日はのんびり昼寝でもして過ごそうと思っていたのに。普段からゾロシアは用事がない限りは

大抵昼寝でもしてのんびり過ごす主義なのだ。
「こっちにはこっちの企画があるんだよ」
サンジーノは煩そうにするばかりだ。しっ、しっ、と追い払うような仕草をする。夜遅い時間まで戻って来るなよ、九

時か……いや、出来れば十時くらいまでお散歩してろよ、と追い打ちをかける。
「そのくらいには準備できるから」
「準備?」
「うるっせえ、いいから、すぐに出てけよ、飯は食堂で出して貰え、晩飯はあんまり食わずに戻って来い、分かった

な!」
一息に要求だけまくしたてて、サンジーノはドアをバタンを閉めて廊下へ出た。廊下は時間帯のせいか静まり返って

いる。
これでもかと毛あしの整った絨毯を踏んで、一等以上の部屋に泊まる客だけが使う上層の食堂へ向かう。食堂の近くに

はサウナやジャグジーもあり、テラスにはバーもあるが、今回のサンジーノにとってはあまり関心のない施設である。
時計をちらりを見る。
部屋に材料と道具を運び込み、出来るところまで下準備をしておきたい。
夜になれば調理室を貸してもらう約束をしている。
料理長も今日ははやめの時間にあがりたいらしく、了解してくれた。
船のギャレイを勝手にするなどそう簡単には出来ないことだが、サンジーノの組織のちからを使えば出来るのである

。まさかギャレイの貸し切りのために船主とファミリーとの「友好関係」を使うことになるとは思わなかったが。
食堂手前の待合室に入り、今回のクライアントを待つ。サンジーノはカレンダーを確認した。
11月11日。
なんという日に、この仕事が入ったものか。
できれば夜の11時に、パーティーを始めたい。二人きりで。
別にそのためにゾロシアを船に乗せたのではなく、本当にたまたま、仕事の都合上、腕のたつ男にゲイカップルのふ

りをして欲しくて、それがゾロシアファミリーの首領であるということも今回の仕事の関係上色々の都合が大変良く、

利用するために呼びつけただけであるが。しかし偶然にも最近ちょうど料理がしたくてうずうずしていたところでもあ

り、丁度良い機会なのでイーストブルーの料理などつくってみたいと思っていたところだった。
カップルなのもふりだけであって本当のことではなく、本来自分たちは身体だけのドライな関係であるが。
だが偶然のことであるがせっかくなので、11時に間に合わせるべく、サンジーノは料理の仕込みの手順を頭のなかでお

さらいし始めた。



仕方なく、まさに不承不承身支度してゾロシアは部屋を出た。
サンジーノの考えることは分からない。
ついてくる義理もなかった。だまされたふりをして船に乗ってやったのは心配だったからだ。他のファミリーの首領で

あるゾロシアを誘ってくるなんて、何か危険な仕事なのかも知れない。
適当にぶらつき、ひとまずテラスのバーに入る。海風が強いが慣れているので気にならない。船は沖に出ているよう

で、昨日は時折陸地が見えていたが、今日は見渡す限り海である。海の色は暗く、太陽が反射して眩しいくらいに光る

。白い手すりに沿って籐で編まれた椅子と黒っぽく塗られたテーブルが並べられている。どことなく、イーストブルー

のリゾート地のような風情がある。
カウンター席に座ってどの酒を頼もうかと吟味していると、隣に子供が腰掛けた。子供の年齢は良く分からないが、ま

だ十歳にもならないだろうくらいの、生意気そうに澄ましたガキだった。ゾロの腰ほどまでしか身長がない。飛び乗る

ようにして作り付けの丸椅子によじ登っている。
「おい、なんだ、ガキもバーで飲むのかよ」
思わず笑ったが、子供はちらりとゾロシアを見ただけで殆ど取り合いもせずにマスターに話しかけた。
「いつもの、お願い」
いつもの?
ぎょっとして振り向くが、子供の方は慣れたものである。冷静にマスターがオーダーに応じるのを待っている。
「あいよ」
太い腕でグラスに注がれたりんごジュースを差し出す。それを子供が受け取る。
ゾロシアと目が合うと、子供はストローに巻かれた紙をむきながら言った。
「ここには普段、オレンジジュースしか置いてないんだ、頼まないとりんごジュースは出ない」
「オレンジはカクテル用に置いてるんだ」
マスターがにこりともしないで補足する。鼻の下のひげとオールバックが味のある親父である。袖のふくらんだ伊達男

ふうのシャツを着ている。
「オレンジはすっぱいから、おれにはむいてない」
聞かれてもいないのに、子供が更に一言添えた。
「りんごジュースは食堂から分けてもらってるんだ、子供用のをね」
マスターがそれを更に補足する。
「へえ、そう」
ゾロシアは適当に相槌を打った。
あたりを見渡しても保護者らしき人物がいない。船の上だから遠くへ行くことは出来ないが、野放しで良いものなんだ

ろうか。
金髪に青い目の、見るからに育ちの良さそうなガキだ。きちんとアイロンのあたった、船員のような上着を着ている

。靴は少しだけ大きいのか足をぶらぶらさせると踵が浮いてしまっている。
グラスで酒を飲みながら、塩味のナッツをつまんでいると、隣でちびガキがおにぎりを食べ始めた。ゾロシアはぎょっ

とした。
「そんなもんまで置いてんのかよ、この店は」
「えっ」
ちびガキが顔を上げてゾロシアを見る。
「だっておなかがすいたから」
「理由は聞いてねえよ」
「食堂から運んで貰ってるんだ」
マスターが答える。
どうして普通に食堂に行かないんだ。
首を傾げながらゾロシアはちびガキを見守った。もくもくと握り飯を食べ続ける。海苔の香りが少しなつかしい。
無心に食べる横顔や、薄い色の爪が、どこかサンジーノに似ているような気もした。馬鹿馬鹿しい、すぐに彼を連想

する自分に笑ってしまう。
サンジーノはゾロシアにイーストの料理を作ってくれたことがある。
マフィアのドンでありながら、彼の趣味は料理なのだ。それもかなり本格的で、世界各国の料理を難なく作るし、大皿

料理も甘い菓子も、なんでも作る。
おにぎりを作ってくれたこともあった。
料理とも言えないようなものだが、どこで手に入れたのか、味噌が塗ってあって美味かった。
「てめえの故郷の料理なんだろ」
遠くを見るような目で、ゾロシアからはそっぽを向いて、彼はその時、そう言った。
「あいつが何考えてるのか分からねえな」
小さく独り言をしてから、また酒を呷った。
「マスター、チョコ」
おにぎりを食べ終わったちびガキが、新たなオーダーをした。
チョコレートもあるのか、と呆れて見ていると、マスターが途端に弱った顔をした。
「ないの?」
ちびガキが絶望したように眉を歪める。
「いや……」
マスターはくるりとうしろを向き、振り向いて、にやりとした。
「あるさ」
「あんのかよ!」
どんなバーだ。ゾロシアは頬杖をついて、海の方を向いた。二人のやり取りを聞かないようにする。調子が狂う。
シャンパングラスのような底の浅い足付きのグラスにチョコを入れたものが、ちびガキの前に置かれた。チョコは丸石

のような形をして、ビター、ミルクチョコ、ホワイトチョコの三種類が同量ずつ混じり合っていた。ぽりぽりとリスの

ような音をたててちびガキがチョコを齧りだす。
平和な光景だ。どうも落ち着かない。
この船の上にいると、普段のことが夢の中の出来ごとみたいだ。硝煙の匂いも、血の匂いもしない。船はただ乗ってい

ればのんびり進む。
まともな生き方でないことは分かっている。
おれもあいつも所詮こんなふうにしか生きられないのだ。
グラスを置いて、次の酒を頼もうか、それともそこらを適当にぶらつくか、カジノを冷やかしてもいいかも知れない、

などと考えを巡らせていると、小さな手がゾロシアの袖を何度か引っ張った。
「なんだ」
ゾロシアが尋ねると、ちびガキは、先ほどのチョコレートが注がれたシャンパングラスを差し出した。
「チョコ、おじさんも食べる?」
おじさんと呼ばれた部分は聞き流して、ゾロシアは頷いた。
「おれにくれるのか」
「うん、おじさんにもあげる」
「そうか、有難うな坊主」
黄色い頭をぐりぐり撫でてやってから、チョコを摘まんだ。
このガキには、可愛げがある。
船の上でのんびり過ごし、子供と話し、チョコを貰う。
ますます日常から遠ざかるような気がした。
チョコは、ほろ苦いビターだった。
もうひとつ摘まんで口に放り込む。またビターだった。また摘まむ。またビターだ。よく見ると、全部がビターチョコ

レートだった。ちびガキは、苦みのあるビターチョコレートだけをグラスに残していた。それをゾロシアに分けてくれ

たのだ。
「なるほど」
ゾロシアは一人、納得した。
「甘いことばっかじゃねえってことか」
むしろ苦いことの連続の人生である。だがそれも、自分で摘まんで、口に放り込んでいる生き方なのだ。
「目が覚めたな、有難うよ、坊主」
この礼はきっとする、とマフィアの仁義に則ってゾロシアは告げた。
「いや、いらないよ、お礼なんて」
ちびガキは遠慮する。
「それじゃおれの気が済ねえ。そうだ…チョコレートなら、サンジーノの奴が高そうなのを箱で持ち込んでやがった

な。トランクルームに行けばいくつか出してもらえるだろ、それをおまえにやろう」
ゾロシアは勝手にサンジーノのものをプレゼントする約束をした。あいつのものは、やや俺のもの寄りで構わないので

ないかという気がしている。
「どこに行けばてめえに会える」
「そうだな」
ちびの子供は、考え込むように首を傾げた。
「今夜、ラウンジに来てくれたら、いるよ。夜食の時間ぐらいに」
「そうか」
サンジーノには遅く戻るように言われていて正直を言うととても暇なのである。
ゾロシアは頷いた。
「分かった、その時間に行く」
「本当?嬉しい、楽しみに待っているね」
ちびははしゃいだ声で応えた。悪い気はしなかった。
よく見れば、矢張りサンジーノにどことなく似ている気がするガキだ。成長すれば、あの黒猫みたいな男のように、し

なやかに育つかも知れない。
「ふ……」
だからどうってことはねえけどな、と自嘲する。
トランクルームにチョコをとりに向かうゾロシアの足取りは、少しだけ普段より軽かった。


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