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植村直己・帯広野外学校の歴史(1) 野外学校開校前夜(1983年)〜10周年(1995年)まで |
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野外学校ができるまで | |
1983年8月15日、帯広空港に降り立った植村さんは、開口一番「今回は、ぜひお願いしたいことがあってまいりました。」ときりだした。年令的にいつまでも冒険を続ける訳にはいかない、これからは自分が今までに体験してきたことを青少年のために役立つ事として、
野外学校をやってみたいので適当な場所を探してほしい。山があって、川があって、1町歩位の畑のあるところが望ましいという主旨であった。とりあえず「岩内自然の村」を見てもらう事となった。時あたかも“戸塚ヨットスクール”のシゴキが大きな話題になっていた時で、「暴力で人間を更生させようなんてとんだもない、人権無視も甚だしい。」と語気を強めて憤り、そんなことよりも「厳しい自然の中で、どうやって生きて行くかを体験することの方が意義がある。」と力説していた。 「岩内自然の村」を見てもらったが、植村さんは「いい所ですね。」と一言いっただけで、どうやら植村さんの意には適わなかったようでしたので、他に適当な場所を、探すことを約束した。 その夜は、夕食前に「平原まつり」の盆踊りに参加したが、空腹を我慢して30分近くも踊ったが、 踊り方は踊り始めと同じで一向に上達していなかった。 翌16日、帯広市長を表敬訪問し、野外学校を開校したいと熱心に説いた。その時、当時の田本憲吾帯広市長は、喜んで協力することを約束した。しかし、その時点での実現の時期は、双方とも植村さんが南極横断冒険旅行成功後を想定していた。 帰京後、植村さんは野外学校開設の準備を意図したのか、米国、ミネソタ州にある野外学校「アウトワード・バウンド・スクール」へ向かい、生徒として入校しようとしたが、有名人の植村さんは犬ぞりのインストラクターとして過ごした。 そして、1984年(昭和59年)1月、この野外学校を出てアラスカのマッキンリーに挑戦し、2月12日、世界初のマッキンリー冬期単独登頂に成功、翌13日登頂成功を伝えた後消息を断った。 植村さん遭難確定の報道に、全国的な捜索資金のカンパが始まった。帯広でも資金をカンパしようとの声があがり、4月18日に植村直己帯広会が設立された。 しかし、間もなく残念ながら植村さんの捜索は断念された。全国から集まった捜索資金も潤沢にあり、その時点で帯広での資金カンパは意義を失った。そこで、カンパの目的を植村さんの顕賞事業資金に変更することとなり、募金活動は続いた。顕賞事業をどうするか、議論百出の結果1985年(昭和60年)1月25日、おびひろ動物園に植村直己記念館「氷雪の家」が開館した。開館式の後、植村さんゆかりの人達が集まり、第1回野外学校を語る会(参加者21名)を開催し、植村さんの野外学校への想いを確認。3月9日、文芸春秋社の湯川編集長来帯を機会に第2回野外学校を語る会(参加者18名)を開催した。 その後、5月16日に帯広市文化スポーツ財団と野外学校の事務局体制について協議したが、財団側に事務局担当の意志なしと確認、6月22日の第3回野外学校を語る会(参加者9名)において、有志による開校を決意し、正式に「野外学校実行委員会」の設立準備委員会を発足させた。 時を同じくして、八千代中学校の移転改築の情報があり、その跡地を野外学校として活用できないかについて、6月29日、広野山岳会及び地域住民と懇談、跡地利用のメリットを確認。7月19日、帯広市教育委員会と跡地利用について協議、7月30日、帯広市と帯広市教育委員会に旧八千代中学校跡地を野外学校の基地として利用したい旨要請。帯広市としては、任意団体に直接貸借することはできないので、地域振興事業の一環として地区の団体に貸与することとし、11月1日、八千代・広野地区再開発推進協議会を発足させた。 一方、活動資金について、7月30日、植村直己帯広会に協力要請し、野外学校実行委員会を植村直己帯広会の事業部会と位置づけ、百万円を助成することが承認された。 7月13日、第2回設立準備委員会。7月16日、第3回設立準備委員会。7月22日、第4回設立準備委員会(参加者9名、会則・役員・事業計画「植村直己サバイバルキャンプ」等について検討)。8月9日、第5回設立準備委員会(代表幹事会)の開催、ついに8月20日、結成総会において「植村直己・帯広野外学校実行委員会」が設立された。(中村悟) |
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第1回野外学校からログハウス竣工まで(1985.9〜1988.2) | |
1985年 (昭和60年) 1987年(昭和62年) |
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◆ログハウスができるまで◆ | |
植村直己・帯広野外学校が設立されて間もなく、熊代弘法先生から「八千代中学校の跡地を借りてはどうか」との話をいただいた。八千代中学校がどこにあるのかも知らなかったので学校を見に行ったが、すでに学校は移転したあとで、古ぼけた校舎と教職員住宅そして比較的新しい体育館があった。 早速、教育委員会と交渉したが「老朽校舎の建て替えで移転新築したので、建物はすべて取り壊すのが原則」と我々の要望はいかにも迷惑そうだったが、我々の趣意は理解していただいた。 我々としては、旧校舎は無理にしても何とかして体育館と教職員住宅の何棟を残して欲しいと主張したが、新校舎建設が補助事業で行われたため、どうしても旧校舎と体育館は取り壊さざるを得ないとのことで、何回かの交渉にもかかわらず、学校用地全部と住宅三棟だけを帯広市から借り受けることとなった。ただし、任意団体の植村直己・帯広野外学校が直接借り受けることは出来ないため、便宜上「八千代・広野地区再開発推進協議会」を設立し、帯広市はこの協議会に貸与し、さらに野外学校が借り受けることとなった。 八千代中学校が取り壊された跡は、ただ広い広場になってしまい、野外学校最初の行事「サバイバルキャンプ」では、テントや移動トイレを借りたり準備に多忙を極めた。当日の開校式は生憎の雨だったが、雨宿りする所もなく悲惨なキャンプとなった。 この経験から、野外学校にとって何が必要なのかの論議が始まった。まずトイレの建築が最優先され、本山さんの奮闘でログの立派なトイレが完成、その出来上がりに感動し、テープカットまでして後日の笑い話となった。 次の目標は、研修施設の建設だった。野外学校の敷地は確保したものの、ログのトイレがシンボルでは様にならない。何としても「ここが野外学校だ」と言えるようなシンボルが欲しい。ならば野外学校らしくログハウスにしたいが、先立つものは資金である。どのくらいのお金を集められるかが論議の中心となった。三百万、いや五百万は集められるだろうが、一千万は無理。とすればお金のかからない建て方は?、そんなお金のない話から、丸太を縦に使い、すき間に粘土を詰めては、などなど珍案がでたが施工予定者の本山さん(野洲校長のログハウスやログのトイレを建てた経験から、校舎建設は本山さんに決めていた)から「そんな建築工事なら、私は降りる」と言われ、結論はでなかった。 そんな時、一級建築士の後藤薫さんが設計した図面が披露され、図面を見た一同は「すばらしい」の連発だった。ちなみに建築費は九百万円だった。だれもが「すばらしい」の次に頭に浮かんだのは「そんな大金を集められるか」だっただろう。しかし、この案を努力目標にして募金活動をやって見ようという意見に反対する人はだれもいなかった。そして臨時総会でも全員一致で承認された。 さて問題は、募金の方法である。並の募金のやり方では九百万もの大金は集まらない。いくら植村直己さんの知名度が高くてもそう旨くはゆくまい。何か変わった募金方法を考えなくてはと頭をひねった。 ふと頭にひらめいたのが「丸太一本、一万円募金」だった。その根拠は、当時カラマツの丸太が一本六千円と言うのが相場だった。六千円の丸太を一万円では高いという意見も出たが、四千円は手間賃だと無理やりこじつけたが、結果的には原木の皮むきだけで一万円は妥当だったと思う。 早速、報道関係にこの案の記事報道を依頼したところ、大いに共鳴してくれて全国に報道され、大きな反響があった。 第一番の寄付者におびひろ動物園からエスキモー犬を買っていただいていた旭川医大の美甘教授夫人から「エスキモー犬のえさ代にして」と動物園に寄付申し込みのあった十万円をこの基金に寄付していただくようお願いし、それ以前にも野外学校の運営資金にと寄付のあった二十六万円余りを建設資金に組み入れた。その後、続々と寄付が相次いだ。また、一万円は無理だが、自分のお小遣いからと言って千円〜三千円を寄付していただいた小学生もあり感激した。最終的にはおよそ、個人三百六十人の方から九百万円、企業・団体九十件で六百万円、総額約一千五百万円もの浄財をいただいた。 お陰様でログハウスの他に、訓練施設や五右衛門風呂まで建設できた。 今考えるとバブルの最盛期だったことがいかにも幸運だった。 (中村 悟) |
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ログハウス竣工から開校10周年まで(1988.2〜1987.5) | |
1988年(昭和63年) 1989年(平成元年) 1994年(平成6年) |
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