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物置部屋の窓はマンションの通路に面している。
カーテンの向こうから僅かに覗く窓は曇り硝子で、硝子の向こう側には格子が嵌っている。
その格子の縦の線が、通路の明かりを受け、カーテンの上に投影されて、波打ち際のように順繰りに、左から右へ等間隔に退いてゆく。
こつこつと足音が響いて、人影が、その波間の上を横切って行った。
今帰宅した、どこかの部屋の住民だろう。
同じように、いつかジジイも帰ってくんだと思ったら、落ちついていられなくなって、オレはついに意を決した。
「ゾロ、しよう」
それでもまだ、具体的な言葉は出せなかった。
ゾロは無言でじっとオレを見た。
ぬっとアイツの手が出されて、布団の中に入り込んできて、ああ、分かったか、ついにか、これからか、と目をつぶりそうになっていたら、やっぱり手を握られただけでアイツの動きはとまった。
だが、ぐい、と引き寄せられた手のひらは熱くて、続きを口にしようとすることを、励ます。
二人とも、笑えるくらい真剣な顔して、寒い晩だったのに、額に汗をかいていた。
そうやってお互いのハラを探り合って、慎重に、一歩踏み誤れば真ッ逆さまのような決定打を、食らわす瞬間を計ってた。
「……なあ、しよう」
オレは待ちきれなくなって、言った。
勇気と堪え性の無さは紙一重だと思う。
「ゾロ」
ゾロはぎゅっと握る手の力を強くしてくれた。
「セックス、しよう」
それは中学生のオレにとっては絶対に絶対に口にしてはいけないタブーのような言葉だった。
出来る限り小さな声で言ったのにも関わらず、きちんと聞き取れるように響く、その一語は、どうしようもなく罪悪感をかきたてた。
なんでこんなに静かなんだ、と、オレは夜の部屋を恨んだ。
何も隠せないし、もう逃げ道も無い。
ゾロがのってこなかったら、オレの人生なんか、これで終わりだ。
火がついたように顔が熱かった。頭の中も、凄く熱かった。沸騰しそうって、こういうことかと思った。
ぎゅっと、ゾロがまた手を強く握り、引き寄せられた。
「……ああ、しよう」
熱い手をして、ゾロも、うんと低い声で応えてくれた。
そのあと、お互いに素っ裸になってしまうまでの間の記憶は、現実感と非現実感がないまぜになって、本当の記憶なのかあとから想像で補った記憶であるのか、判別がつかない。
今となっては。
今となっては、思い出すのもむず痒い、あの日のこと。
ゾロからは、夏の匂いはしなかった。
冬の空気の澄んだ湿気の匂いがした。
鼻の奥がツンと痛くなった。





普段キッチンで使ってるスツールをベランダに持ってきて、往来を眺める。
平日の昼下がり、人通りは稀だ。
初夏の空気は生温いが、昨日まで雨が続いていたので久し振りの快晴は心地よい。
つけっぱなしで見てないテレビからは、「そうです奥さんこれが体にいいんです」とかゆってるみのもんたの声が聞こえてくる。見なくても分かる。何かの食材を薦めてるんだろう。
今日の夕飯は、みのさんが薦めたモノ以外にしよう、とかぼんやり考えながら、煙草を探してポケットを探る。





何だかんだと細かな事件を繰り重ねながら、ゾロは、高校2年の終わりまで、ほぼ月に一度のペースで会いに来てくれていた。
あんなイナカに住んでるガキが、月にいっぺんだって東京に出てくるっていうのは特別なことだっただろう。親御さんがよく許したもんだと今になって思う。
ちゃんと学校のベンキョウもする、部活も頑張る、家の手伝いもする、とさんざんに説得して、どうにか許可を貰ってたらしい。それと、小遣いも。
オレが高校を卒業し、調理師学校への入学を決めた春、「これでもう当分会えないけど」と、アイツは言いに来た。
受験生になったら、東京にも行かない、真面目に勉強して大学に行くって、家族と約束していたのだそうだ。
3月生まれのオレは、11月生まれのあいつより学年はいっこ上だった。
あいつには大変な思いばかりさせちまったんじゃないかって思ってる。





会えない一年が過ぎて、春になった。
アイツはすぐにでも駆けてオレのとこに来るのじゃないかって信じてたけど、一月たっても、二月たっても、一向に姿を見せなかった。
大学に受かるまではと、アイツと約束して、ずっとかけてなかった電話を、しびれをきらしてこっちからかけたのは5月の末。
あのイナカの実家の電話には親御さんが出て、アイツは大学に無事合格して今は東京に住んでるって教えてくれた。
それ以来、あの家には電話していない。
アイツがあの家に住んでないんだから、それは当たり前のことだ。





一旦キッチンへ移動して灰皿を持ってまたベランダへ出た。
スツールに腰掛け直すと、窓の桟に灰皿を置いて、昨日ロビンちゃんから貰った外国の煙草に火を点けてみる。
深く吸い込むと、慣れない香草みたいな匂いがする。
今日は本当に見事なくらい雲ひとつないので、陽射しで目許がヒリヒリしてきた。





忘れられない初めてのセックスをした晩。
アイツはまだドコに入れたらいいかもわかんないようなガキだった。
オレの体を弄りながら、持て余したように何度も溜め息をついて戸惑っていたアイツに、
「ここだ」
とオレが教えてやった。
恥ずかしながら、事前に随分ベンキョウしておいたのだ。
「男同士はケツの穴ですんだ」
あの年頃は、エロいことたくさん知ってるとちょっと偉くなったような気がしてたもんだから、内心ちょっと得意だったりもしたのだが、ゾロは驚いたように
「マジか」
と言ってきた。
なんだか、小っさかったころ、あの村で出会ったばかりのころ、似たようなことがあったな、なんて思い出して、笑ったりした。
何度もキスをして、少し身体を触りあって、良く分からないからとりあえず挿入することになったり、なかなか入らなかったり、凄く痛かったり。
半分も入らないうちにゾロはイッてしまった。
すまねえ、って言ってた。
すまねえ、だって。
ははは。
本当に、こういうとき男は謝るもんなんだなって思った。まあオレも男なんだけどさ。
そのあとまた少しだけキスしたりして起きてたんだけど、イけないまんまだったオレは、隣りにゾロがいることや、ゾロとセックスしたんだという事実とかに興奮して、辛くなってきた。
ゾロにばれないように、背をむけて、こっそり自分でソコを宥めていたら、いつの間にか背中にぴったりくっついてきたゾロが
「なにしてんだ」
って言いながら、手のひらを重ねてきた。
居たたまれなかったけど、我慢することも出来なくて、時々ゾロにもソコを触られたりしながら、自分で、した。
ガキだったから、セックスはイコール、挿入、であって、ゾロにしてもらうとかは考えつかなかった。
ゾロのことを考えて一人でしてたのとあまり変わらないような気もしたが、それでも、すぐ傍にゾロが居てくれて、やたら熱い鼻息とかが首筋にかかったりするのは、段違いにセックスに近いような気がしていた。
イきそうになったとき、あ、ヤバい、ティッシュとかなにも用意してなかった、と困ったけれど、今更そんなもの探すのも露骨過ぎて出来なくて、すげえヤバいと思いながらも自分とゾロの手の中に出した。
あれが、人生で一番気持ちイイ射精だったな、なんて、今となっては思うのだ。
それが、オレが中3で、アイツが中2の冬の初めの頃のこと。
世間一般から見れば早い経験だったのかも知れないが、14歳同士には、14歳同士なりのことしか出来ず、少しも、何も、早いようには進まなかった。あの年齢に相応しい、デタラメなセックスだった。
そして、とても夢中な。





なあ、ゾロ、オレは19になった今でも、オマエとしかセックスしたことがねえ。





ゾロが久し振りにジジイのレストランに顔を出したのは、つい先日、7月になってからだった。
「おいサンジ、あの子来てるぞ」
フロアに出ていた店員に教えられて、震える手を隠しながら店の入り口まで行ったら、レジの脇に見慣れた、また少し背の伸びた、緑の頭が見えた。
「……よう」
バツが悪そうに顰めツラをしたアイツに、本当に一生の不覚なのだが、オレはちょっとだけ泣いてしまった。
泣きながら
「すげえ日焼けしてんな」
と、何故か開口一番にどうでもいいことを言った。
ゾロが会いに来てくれて嬉しい反面、別れ話でもしにきたのかと思って怖くもあった。
「すまん!部活が忙しくて、来れなかった」
自分の働いてる店の入り口で、とんでもねえホモの愁嘆場披露するハメになったオレに向かって、あんまりな言い訳をかますゾロに、オレは勿論強烈な蹴りを食らわしてやった。
だが、それは本当に真実の理由だったのだそうだ。
結局学校の成績はイマイチだったアイツは、剣道のスポーツ推薦で大学に入学することになり、その際の条件で、上京すると同時に寮生活を余儀なくされたらしい。
それはもう、休日も無く、自由行動など許されもしないような生活が続いていたらしく。
夏休み前になって、漸く新入生としての試練の日々も緩みがちになり、外泊の許可が出た今日、真っ先にここへ来たのだと。
そういう話だった。
ゾロはまるで周囲に頓着しないように見えるし大胆な行動ばかり繰り返すが、実のところ集団生活を無駄に乱したりするような奴じゃないから、自分だけ勝手に出歩いたりは、しなかったのだろう。誰より律儀に規則を守って。
「何度も電話しようと思ったんだけどよ」
一年も電話してなかったから、番号忘れちまったんだよ。
苦りきったように言うアイツに、ああ、コイツはホンモノのアホなんだ、とオレは呆れた。
「アホか、てめえ、そんなんだからスポーツ推薦とかなんだろ」
「うっせえな」
「こっちはテメエのことなんかとっくに忘れてたっての、こんな突然来やがって」
「すまねえ……」

どうせ会うなら、テメエんちに泊まれる日じゃねえと、無理だと思って。

店先だってのに、オレにだけ聞こえるように、そんなことを言われた。
後になってから、次会った時は絶対ヤるって決めてたんだよ、と物騒な計画を明かされたりしたが、それもそれで似たような計画をオレも練っていたことがあったなあ、と、初めてセックスした日のことを思い出したりした次第だ。
歴史は繰り返すって、こういうことなのかなあ、とか思った。
その晩のセックスは、とても上手くいった。
「おかしくねえか、何で、ずっとしてなかった間に、オマエは上達してんだよ」
「まあ、イメトレだな」
涼しい顔で言うアイツは、本当に頭がおかしい。





翌日、ロビンちゃんにだけはゾロが久し振りに顔を見せたことを報告した。
彼女にはオレとゾロのことは話していないが、多分とっくにバレてんだろう。良かったじゃないの、と何度も頷いて見せてくれた。
「今度、ゾロ君も一緒のときにお食事したいわ」
「いいよ、いつでも大歓迎だよ、ロビンちゃん」
来週ね、とオレ達は約束した。
週に一度くらいなら、もうゾロも外泊して大丈夫らしい。
そして一週間たって、昨日の晩。
ロビンちゃんとオレとゾロとで一緒に食事を楽しんだ。
ロビンちゃんは多分今年で博士号をとるつもりなのだそうだ。
良くわかんないけど凄いと思う。
「へえ、課程博士か、すげえじゃねえか」
ゾロは昔と変わらない、粗雑な動作でメシを口に運んでいた。
「一年留学で足踏みしたけれどね」
「いや、すげえよ」
「ふふ、ありがとう、なんか変な感じね、ゾロ君とこんな話するなんて」
「馬鹿にしてんのかよ」
「まあ、ふふ、そうね、そうかも」
ロビンちゃんは、目の覚めるようなスカイブルーのスカートに、白のシフォン地のブラウスを合わせていた。夏のように綺麗だった。
「ゾロ君はどうするの?」
「……あ?」
「故郷には、戻るの?」
「……ああ……もどらねえ、かもな」
「そう」
今は誰が、お山の水を汲んでいるのかしら。
ぽつんと呟いた彼女の言葉に、わけもなく胸が騒いだ。
消えてゆくものには、何故消えてしまったのかという意味と価値があるのよ、と彼女は言う。
「その理由があなたたちなのだとしたら、素敵なロマンスだわ」
歴史は素敵ね、と彼女は微笑んでいた。





人影も稀な平日の昼間の往来を、向こうから歩いてくる人影が見えてきた。
ゾロだ。
2リットルのペットボトルが2本も入ったコンビニの袋をぶらさげて、かったるそうに歩いている。
夕べはウチに泊まった。
遅めの昼食を作ったのに麦茶を冷やしておくのを忘れてたから、近所のコンビニまで買いに行かせたのだ。
最近引っ越したばかりのこのアパートのベランダは、往来に面していて、こうやってアイツが歩いて来るのを見ることが出来る。

来年になったら、寮出るのも自由だし。一人暮らししてもいいし。

アイツはそう言うが、去年1年待ったし、今年もまた待たされるとしたら、1学年上のオレは、もう調理師学校だって卒業してしまう。
最近、修行を兼ねてホテルのレストランでバイトを始めた。
いつまでもジジイのレストランにばっかりいるわけにゃあいかない。
来年には海外に行く話だって出てる。
オレは期待の新星なのだ。
なあ、ゾロ、そんなに待てない。
もっと腕あげて、世界一のコックにだってなりたい。広い世界を知りたい。
だけど、向上を望む気持ちと同時に、アイツのあの村に行って、小さなレストランをやるのも悪くねえな、とも思ってしまうのだ。
あの村で唯一のレストランにして、世界一のレストランって言うのも悪くないんじゃないか。
実際には残り時間はそんなにないのに、まるで果てない夢のように、矛盾する二つの夢の両方を思い描いたりする。けれど、そのうちの一つしか現実には選ぶことが出来ないのだという事実にも気付いている。
たったひとつの道筋の他は、消えてしまうんだ。
どれを消すのか自分で選んだり、成り行きに選ばれたりしながら。

オレも、アイツも、これからどんな道を選ぶか分からない。
けどもしもいつか道が別れても、必ずまた会えるはずだし、その時にはまたドキドキしながらキスしたりセックスしたりして、何も変わらない、繰り返すだけの歴史を重ねて、それを心底幸せなことだと思ったりするのだろう。
消えてしまったものもまた、いつか繰り返し姿を現す。
そうだろ?

かったるそうに歩いていたゾロは、ベランダのオレに気付いて、大きく手をあげた。
2リットルのペットボトル入りのお茶が、ちゃぽん、と揺れる音までこちらに聞こえてきそうな気がした。




end

ハツコイ / オモザシハルカ /消えない日


一話ごとに作中では5年経っていたのでした。
ゾロもサンジもロビンも、きっと皆幸せになると信じてます。

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