山が随分と海岸線まで迫っている、起伏の多い土地にその村はあった。
私は大学へ入ったばかり、彼らはまだ両手の指に足らぬほどの年頃の、夏休みのことだった。その頃既に私は自分の目指すべきものを、胸のうちに確信していた。
青臭い決意など私には似合いでは無かったけれど、彼らのひたむきさを私が愛さない理由もまた、存在しない。
懸命に出会う彼らは、ロマンチックで魅力的だった。
とても。
まるきり、世界を知る知恵を持たぬままの、彼らの出会いは。



ハツコイ



その村に滞在している間、私は大抵大学ノートを片手に浜辺で昼食をとった。
ノートにはそこで収集した多くの情報が詰め込まれている。
そして日々、新しい情報が更にと増やされていく。
片手でペンを執って疑問点を書き出し、整理し、得たばかりの情報をそこに足し。
もう片方の手で食事をした。
申し訳程度の木陰の下へ腰をおろし、宿の夫人が作ってくれた弁当を口に入れる。
ここにはレストランなんてどこにも無い。素晴らしいと思った。外部の情報の入りにくい場所にこそ、私の望む情報が多く保存されている。外食産業も素晴らしいけれど、この場所はもっと素晴らしい。
磯の匂いをいっぱいに吸い込んで、何だか必要以上に健全みたい、と私は一人笑った。
彼らに私が最初出会ったのも、そして彼らが出会ったのも、この狭い浜辺でのことだった。
あの子の名前はゾロ、と私が知っていたのは、彼がこの村のなかでセシュと呼ばれている家の子供だったからだ。本来の用途から少し外れてその語は、ここでは地区全体の祭事の中心となる特定の家を指していた。
つまりは、彼はこの地域では有力な家の子供、となる。
私の彼に対する認識の最初はそんなものであった。
そのゾロ君が浜辺へ来て、そして私が食後の休憩をぼんやりと味わっていたその時に、どんなめぐり合わせか偶然にもここへ通りがかったのが、黄色いアタマをした、可愛らしい、あの子供だった。
「テメエ、誰だ」
その子供を見かけたとき、開口一番にゾロ君はそう言った。
確かにその子はヨソモノであった。
黄色い髪の、こんな田舎町には有り得ないような仕種をまとった、都会の子供。
彼は細く長い棒きれを持って、砂浜に途切れ無い一本線を描く遊びに夢中になっているところだった。
突然声をかけられて、しかもそれがぶっきらぼうな言いかたであったために、彼は怯えるように立ちすくんだ。私はことの成り行きを何とはなしに見守ってしまった。
「おい、テメエ」
繰り返し、まるで脅すみたいに問いただすゾロ君に、黄色い髪がふわふわと惑うように、視線を彷徨わせるその持ち主の額に、はりついていた。
暑い、夏の昼間だった。
それはどんな成り行きであったか。
ひとこと、ふたこと会話を交わしたあと、彼らは翌日には友達同士のようになり、二人して海岸に線を引くための棒きれを探しているのを、私は目撃したのであった。
「ゾロ君」
と、私は彼に声をかけた。
歩み寄る私を見上げながら、
「オマエ、ゾロって言うの?」
と、黄色い髪の子が言った。
彼は「おう」と答えたきりであった。
思えば彼らは名乗りあうということをしなかった。
だから当時私はあの黄色い髪の子の名前を、知りそびれてしまった。けれどそれが不思議と気にならず、「ねえ」とか「キミ」とか呼ぶことで彼と交流していた。彼は一人で居るかゾロ君と居るかのどちらかしかなかったので、それで不便は無かったのだ。
私自身がいつ二人に名前を名乗ったものかは忘れてしまったが、あの子は最初から私を「ロビンちゃん」とあたかも同年の友人のように呼んでいたと思う。あるいは同年の友達と言うより以上に、愛くしむ庇護の対象であるかのように。
綺麗な顔立ちの子供だった。
あのくらいの年頃から既に、女の子を喜ばせるような子は、その片鱗を示す。
私は自分よりずっと大人の私をお姫様みたいに大事にしてくれるあの子が、可愛くてならなかった。彼はチャーミングだ。素敵な子。
彼は東京に住んでいて、今は夏休みだから親戚のおばあちゃんの家に泊まっているのだそうだ。

ある日の早朝、二人が連れ立って山のほうへ歩いてゆくのを見かけた。
「お山へゆくの?」
私は声をかけた。
オヤマ、と呼ばれている山は、村の後背にあって一際秀麗な山稜であった。山というよりは丘に近く、高度は大してない。
二人は手を繋いだまま、こくんと頷いた。
「約束したんだあ」
と、あの子が言った。
「お山へ一緒に行くって?」
「うん」
「ロビンはダメだ」
と、ゾロ君が言った。
「ええ」
私は少し笑った。
「縁日の水を汲みにゆくのね?いいわ、私はお留守番ね」
ぶらぶらと、ゾロ君は手にした桶を揺らす。
「ごめんね、ロビンちゃん」
ゾロ君の、もう片方の手にしっかりと握られた白い手の持ち主は、私を見上げて気遣うように微笑んだ。
「いいのよ。でもここから見せてね、写真にもとるかも知れないわ」
こくん、と二人はまた頷いた。
エンニチ、と呼ばれる特定の日に、セシュの家の長子はオヤマへ水を汲みに行く。それを村の御堂に供えるのだ。
たったそれだけの行事ではあるが、村の祭事組織を知る上では鍵になる。
私は大学ノートを開いた。

21日、朝6時、セシュ宅より長子、子供のみで出発、男子一名(当地住民の親族、東京より遊びに来ていた)を同伴、セシュ宅のオケを持つ、資料写真撮影アリ参照6番のフィルム

カシャ、カシャとシャッターを切り、山道をゆく二人の背中を撮る。
オヤマと呼ばれる山は女人禁制を守っているそうで私は立ち入ったことがない。
それでいいと思う。
彼らの信仰は彼らのためのものである。
私のために用意されたものでは無い。
フレームの中に、しっかりと握られた二人の手をとらえ、私はカシャンとシャッターを切った。
二人はどんどんと山道をあがり、やがて粗末な鳥居の向こう側で見えなくなってしまった。

昼過ぎ、いつも通り浜辺で昼食をとっていたら二人がやってきた。
「ロビンちゃん」
とあの子は私に声をかけてすぐ隣へ座る。
ゾロ君は少し離れて寝そべった。
私はあの子の黄色い髪を撫でてやった。
ほんのりと汗で毛束をつくる髪からは、子供特有の甘い匂いがした。
しばらくそうしていると、彼はまるで猫のように、私に髪を弄られながら、ごろりと横になってしまった。そしてゾロ君と目を合わせ、「へへへ」と笑う。
白い指先であの子は、何度かゾロ君の鼻先や頬をつつき、その指を今度は幼子のように咥えると「あー」と言いながら両足をバタバタさせて砂浜を荒らした。
「ねえ、ロビンちゃん可愛いなあ」
私にか、ゾロ君にか、どちらに聞かせるとも不分明に彼は言った。
それから
「ゾロぉ」
と甘えるような声を出した。
こんな年頃の子供は、と私は思った。
こんな年頃の子供は、なんだかいやらしい。
瑕ひとつない半透明の肌の下に、堪えきれないほどのエネルギーを湛えている。
彼の白い指先の、或いは肘の、赤みのさした肌色を見るにつけ、それは、血色が透けているというよりは、まるで明かりのともるようだと思ったりした。身のうちから溢れんばかりの、彼らの明かりが。
「ねえ、ロビンちゃん、今日ゾロのうち来るの」
「ええ、今日はゾロ君の家にある、昔のご本を見せていただくのよ」
「へえ」
あの子はまたじたばたと足を上げた。
「ゾロんち、でっけえ」
「普通だ」
「えー、でっけえよ、庭とかあるし」
「……普通だろ。てめえんち、庭、ねえのかよ」
「ねえよ」
「だっせえ」
「でもさ、うちなんて、8階だもんね」
「8階?8階に住んでんのか?」
すっげえ、とゾロ君が心底感心したように言う。
微笑ましくて、私はうふふ、と笑った。
「キミの家はマンションなのね?」
「うん」
黄色いアタマがぴょこんと頷いて、ゾロ君はピンとこないような顔をしていた。

ゾロ君の家は「御堂」と呼ばれている簡素な寺院より程近い、山寄りの場所にある。
御堂は普段無人で、隣り町の寺の住職が兼務して管理すると言う。それほど田舎なのだ、ここは。
あの子の言うほどゾロ君の家は特別広くは無く、このあたりの地域ではあたりまえのような平屋建ての家屋である。
通された居間には、蔵から出されたばかりの古文書が広げられている。
「虫干しにもなるかと思って」
と、気の良い家人は、快く私に閲覧を許してくれた。
文字を追い出すと、周囲が見えなくなるという弱点が私にはある。
音すら聞こえない。
ふと正気に返った時には、部屋一面に広げられた楮紙の海の向こう側で、ゾロ君と、あの子が寝そべって、昼間浜辺でしていたのと同じようにじゃれあっているのが見えた。
ふう、と私は溜め息をついて体の力を抜く。
いつのまにか足が痺れていた。
無理な体勢で紙面を覗き込んでいたためか。
さわさわと、東京では有り得ないような、心地よい風が開け放した窓から吹き込んでいた。
古い家屋に似合わない、とってつけたようなカーテンレールにかけられた布地が、二人の上を行ったり来たりする。
「なあ、ゾロ、オレちんちん固くなるときあるんだぜー」
ふわふわとあの子の姿がカーテンの向こうへ隠れる。
うつ伏せに寝そべる影が陽光に透ける。
その横へ生意気にも胡座をかいて座るゾロ君が
「マジ」
と意味も分からず深刻そうな口ぶりをつくる。
「マジ。触ってみっか」
彼もまた重大そうな口ぶりで、ゾロ君の手をとると自分の足の間に触れさせた。
「うお、マジだー」
大仰にゾロ君が言うと、あの子が高い声で笑い出す。
私もつられて笑った。
寝そべったままのあの子の手首は、やはり半透明で、うっすらと、身のうちの暖かな明かりが灯る様は寂しくなるほど美しかった。
湿って破れやすい楮紙の重なりを損なわないように、慎重にめくりながら、私は二人がいかにも子供のやりかたで口付けするのを見ていた。
ちゅ、ちゅ、と音をたてて。唇を突き出して。
書状の類いの中には、何通か朱印状もあった。
私は簡単な内容をノートにメモした。これはきちんと翻刻して報告しようと思う。

翌日。
やはり私は海岸に腰をおろし、昼食をとっていた。
あの子がやってきて、いつも通り隣に座り込む。
「君はいつまでいるの?」
食べ終わった弁当箱をカバンに仕舞いながら、何となしにあの子に尋ねた。
「え?」
「いつまでおばあちゃんちに居るのかな」
「うん……もう帰らなきゃ」
この話題で、彼は一目で分かるほど消沈したので、私は言わなければ良かったなと思った。
可愛そうに。ゾロ君と折角仲良くなったのに、じきに学校が始まる。彼は帰らなくてはならない。
またいつでも来れるわよ、と言おうと思ったが、彼らのような子供にとって、東京からここまでの距離は、全くの別世界に等しい。
連絡を取り合う手段も思いつかぬことだろう。
手紙や電話はまだ、彼らにとっては情を通わせるほどの道具にはなっていないのだ。
だから彼らはあんなに懸命なのだろう。
代替する手段を持たないから。
私は感動した。
なんてたよりなく、今にも消えそうな、友情だろう。可愛い子たち。出会えて良かった。
そう言えば、私たちはこの子の名前も知らない。
尋ねなかったことに特に理由は無かったが、今更聞くのも変に思えた。どうせもうすぐ別れてしまうのに。
今別れたら、二度と会えないだろうと、この子は多分、思っているのじゃないだろうか。
「ジジイが迎えに来るんだー」
「ジジイ?」
「うん、オレを育ててくれてるひと」
「……そうなの」
彼の白いほっぺたに、私は乾いた唇を押し付けた。
柔らかな皮膚からは、やはりぼんやりとした明かりが漏れるようで、彼の皮膚の下は暖かだった。
「くすぐったいよ」
と彼は困ったように言った。
「ふふ」
私は彼の身体をゆっくり押して、砂の上へ横たわらせた。
子供らしくまっすぐな足は中性的で、裸足にはいたスニーカーを脱がせると、きゅっとそろえた爪先が朱く、私の好きな暖かな明かりを透かせている。
仰向けに彼を寝かせたまま、飽かず髪や頬を撫でる私に、あの子はずっと困ったような顔をして、もじもじと居心地悪そうに身動ぎを繰り返していた。
「おちんちんが固くなる?」
可愛い、と思いながら、そんなことを尋ねたら、彼はサッと起き上がって離れようとした。
その腕をそっと引き寄せて、最後にもう一度キスしてみようと思った。
「ロビンちゃん……」
柔らかな頬に唇で触れたとき、いつの間にかそこに居たゾロ君が、酷く乱暴にあの子の手を引っ張って、私から引き離した。
「ゾロ!」
「テメエ!なにしてんだよ!」
こっち来い!と、ゾロ君が大声で言う。
あの子は困りきったように、私とゾロ君とを交互に見ていた。
私は、二人のことを大好きだと思った。

その日は、夕方宿へ帰る私を二人が送ってくれた。
いいわよ、遅くなる前におうちへ帰りなさい、と言ったのに
「もう暗いのに、女の子だけで歩いたら危ないよ」
と、あの子が言って宿の前までついてきてくれた。ゾロ君も一緒に来てくれた。ゾロ君は少しでも長くあの子と一緒に居たいのだと思う。
可愛くて、可愛くて、胸がいっぱいだった。
「……いつ?」
まるで内緒ごとを聞くように、小さな声で尋ねたら
「あさって」
と、消え入りそうな声が答えた。
ゾロ君は、何かを察したのか、はっとした顔をしたが何も言わなかった。
いつも、この子はなにも聞かない。
帰るのか、帰らないでよ、次はいつくるの、と、そう聞けばいいのに。
山が西にあるので、ここでの夕暮れはあっという間に夜に入れ替わる。
ぽつりぽつりと疎らにしか無い街灯の下を、ぎゅっと手を握った二人が歩いて行くのを私はいつまでも見送った。

村には一つだけ鉄道の駅がある。
単線なので滅多に列車は来ないが、この駅だけが外部から来る人間の交通手段になる。あとは自家用車で移動するしかないのだが、道が細く山道の多いために、自動車はあまり使わぬという人が多かった。
駅の周りには何も無い。ただ田畑が続き、高く背を伸ばした稲が青々と風にそよいでいた。
「ばあちゃん、ジジイ、遅ぇなあ」
改札すら無い無人駅のベンチに腰掛けて、彼は足をブラブラさせていた。
私とゾロ君も付き添って一緒に居た。
迎えが遅い、と彼は先刻から何度もぼやくが、早く迎えが来て欲しいと思っているはずもないので、きっと、別れのために用意された時間に、いたたまれないのだろう。
今日帰るのか、とは、ついにゾロ君は言い出さなかった。
ただ無言で状況を理解し、努めてそのことを以前から知っていて、なんとも思っていなかったかのように振舞った。
あの子が「ばあちゃん」と呼ぶ老婦人は結構な高齢で、彼女の話から、彼女はあの子の血縁の祖母ではなく、「ジジイ」とあの子が呼ぶ人の姉であるのだと知った。
「オレさあ」
怒ったみたいな口調でゾロ君が言った。まるで初めて二人が出会った日のように、愛想無く。
「大人になったら、車のメンキョとるんだ」
「うん」
あの子は唇を噛み締めて頷いた。
大きく頷いて、それから落ち着き無く足をブラブラさせた。
会いに行くよ、とも会いに来てねとも言わず。
互いの住所を尋ねることもなく。
彼らがもう少し大人だったら、それが出来ただろうに。
聞いてあげて、と私は願った。あの子の名前を聞いて、次はいつ来るのかと聞いてあげて、と。
そうでなければ、あの子は、何もキミに教えられない。

列車が来た。

この駅が終点なので、折り返し運転のために暫く停車した。
列車から降りた客は一人だけだった。
伸ばしたヒゲをきちんと揃えて結わえた、奇妙な風貌の男だった。片足を引きずるように歩いていた。
「ジジイ」
あの子が駆け寄った。
それはまるで、逃げてゆくようにも見えた。
「チビが、走るんじゃねえ」
老婦人が乱暴な言葉でたしなめる。
ゾロ君は随分ゆっくりとした動作で立ち上がると、結局は他にとるべき行動もなく、あの子の後ろからついてゆく。
あの子は、ヒゲの男に抱き上げられ大きな手で黄色い頭をくしゃくしゃに撫でられているところであった。
「ジジイ、離せよ、みっともねえ」
そうは言うが、彼は子供らしい親愛の情に満たされ見えた。
ああ、あの子が行ってしまう。
あの子の名前を聞いて、また会おうと言ってあげればいいのに。お互いがそれを望んでいることが、私にははっきりと分かるのに。
あの子は男に連れられて列車に乗り込むと、車窓から乗り出すように、私たちのほうを見ていた。
「ロビンちゃん」
あの子は私を呼んだ。けれどなかなか、「ゾロぉ」と、いつかのように、甘える声を出しはしなかった。ゾロ君を呼びはしなかった。
意地を張り合うように、二人は怒ったような顔を、ただ向けあう。
「んじゃ、もう列車も出るし」
老婦人はそろそろ見送りもよして、自宅へ戻りたい素振りであった。
「おう、うちのチビが迷惑かけたな」
「何でもねえ、可愛いもんさ」
「ああ」
そろそろ出発しますよお、と運転手が運転室の窓から顔を出した。
こんな光景も私には珍しいが、ここでは当たり前のことなのだろう。
「おい」
男がとうとう俯いてしまったあの子の肩を掴んだ。
「ちゃんと挨拶しろ、サンジ」
出しますよお、と運転手が大声を出す。
「あー、さっさと出せ」
老婦人が相変わらず乱暴な口をきく。だが運転手も、ジジイと呼ばれた男も、苦笑して彼女を許している。
運転手が顔を引っ込める。
ディーゼルカーのエンジンのかかる音がする。
その唸るような音に押し出されたように、ゾロ君が、大声をあげた。
「サンジ!」
そうだ、あの子の名前はサンジ。
私の脳がようやく覚醒してそれを理解したときには、サンジ、サンジと何度も呼ぶゾロ君の、必死な両腕は、あの子の手をぎゅっと掴み、
「また来いよ」
「うん、てめえも、来い」
二人は泣きじゃくって、まるで唐突に打ち解けたあの出会いの日のように、まるでもとから語りあわぬことなど無かったかのように、当たり前のように互いの名前を呼んで、呼ばれて、老婦人がゾロ君を、あの子の育ての親があの子の身体を、抱きかかえて引き離すまで開け放たれた窓越しに抱き合っていた。
「お、おま、え、んち、どこだあ」
列車が走りだし、悲痛な顔をしたあの子に、同じように泣き腫らしてしゃくりあげながら、ゾロ君が聞く。
「と、とうきょう」
慌てたように、それだけ答えたのが最後であった。
あの子は、居なくなってしまった。
あとにはもう、何事もなかったかのような、田畑が続き、山稜が海岸線の間際までせまった、見慣れた夏の景色。

帰り道、私たちは手を繋いで歩いた。
二人とも何も話さなかった。
近道だとゾロ君が言うから、線路の上を歩いたけれど、そんな場所を歩いたことはなかったので新鮮だった。
滅多に列車など通らないから、線路に対する恐怖感が無いのだろう。
こんなに乗客の無い路線なんて、今にも廃線になってしまいそうだと私は思った。
そうしたら、ここはまるで、閉じ込められて、箱庭のような場所になる。
それならここは何も変わらないかしら。
いつまでも時間が止まったように、何も変わらず、何も失わず、あの子が再び訪れるときまでこのままで待っていられるかしら。
そうはならないと知りながら、夢の中のように呆けて、そんなことを考えた。
そうだ、そんなふうには、ならない。そんな場所はない。
この土地も、次に訪れるまでに変容し、たくさんのものを失ってゆくだろう。
それでいいのだと思う。
変わるものには何故変わったのかという、失われるものには何故無くなったのかという意味があり価値がある。
けれど私は、時々シャックリをしながら歩くゾロ君の手を握りながら、それとは反対のことを願っていた。
この子の家の古文書を整理してしまったら、じきに私も次の調査地へ移ろうと思う。
まだこの手のなかにその名残を掴みながらも、まるで懐かしいもののように、私は、この箱庭の中の夏を、慕わしく遠いものに思い始めていた。




end


初恋 / オモザシハルカ / キエナイヒ


ロビンもまだまだ大学一年。
歴史学者にすると状況が不自然になるので民俗学者にしてみました。まぁいいか・・・。

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