引っ越したばかりのアパートのベランダには、白い箱が据え付けてある。
箱の側面には銀色のシールが貼ってあって、そこに「オリロー」と書いてある。
誰でも知ってる緊急時の避難器具だが、何度読んでも笑わせやがる、このネーミングセンス。
だって「降りろ」でオリローなんだろ。
すげェ、マヌケだ。
小学生の頃、学校の避難訓練で若い、男の先生が、このオリローを使った避難の実演をしてくれたことがあった。
学校の3階からさ、スルスルスルって、ロープ伝って降りてくるの。
「ハーイ、先生は今、勇気を出してオリローを使ってくれましたけど、皆さんは普段は勇気を出しちゃ駄目ですよー、ほんとの火事の時だけですよー」って、やけにウキウキした声で女の先生のアナウンスが入って、ああ、あの新任教師、実は結構人気あんじゃないかとかって、オレはマセたこと考えてた。
どうでもいいと言えば、どうでもいい出来事なんだけど、あのスルスルスルって降りてきた先生が調子良くニカッって笑ってたのとか、やたら鮮明に覚えてる。
そんなふうに、人生には忘れられないワンシーンっていうヤツがある。
オリローの実演みたいにどうでもいいようなことから(いや、あれはあれで重要なことかも知れないが)、将来の夢を胸に決めた日とか、大怪我したとか、遠足とか、卒業式とか。
例えば、初めてキスしたときのことや、初めてセックスしたときのことなんかも、きっと誰にでもある、忘れられない経験の項目の一つなんだろう。

オレも、全然忘れてない。
思い出すのもむず痒い、あの頃のこと。





キエナイヒ





ゾロと初めて会ったのはまだガキの頃のことだった。
二度目に会ったのは、中3のとき。
三度目に会ったのは、二度目に会ってから、一ヶ月経った冬の日のこと。
ゾロは夜行を乗り継いで、朝一番で東京に着いた。
オレは駅まで迎えに行った。
東京駅は入り組んで、迷路のようになっている。
きっと昔、建てたばかりのうちはこんなふうじゃなくて、後から後からたくさんの路線が乗り入れるようになって、こんなにホームが増えてしまったんだろうと思う。計画性よりは手のつけられない無秩序な成長を、この駅の構造は思わせる。例えば繁茂する夏草のような。
壁にかけられた案内図を見れば、網の目のような路線図の真中に、全てを引き寄せるように、この駅がある。
ゾロもこの駅へ来る。
まだゾロの乗った列車の到着時刻には早すぎるというのに、オレはたまらなくなって、目指すホームまでの道のりを走った。





夜行列車は定刻通り、偉く大儀そうに停車した。
あたりがまだ暗いせいか、まるで息を潜めるように、無言のホームへ扉が開かれる。
そして溜め息のように、内部の暖かな空気が駅構内へ流れ出して、緑の頭がひょいと覗いたかと思うと、ゾロが降りてきた。
「朝早ェよ、アホ」
開口一番そう言って迎えたら、アイツは当たり前みたいに
「夜行に乗ったら朝一番でテメエに会えるって思ったんだよ」
って言った。
ああ、今思い出すと、泣きそうだ。
あん時はアイツをアホだと思っただけだったんだけど。
「だけど、全然眠れねえのな」
ポケットに手ェ突っ込みながらそう言って、アイツは笑った。





その日一日、何をして遊んだのかは覚えてない。
マックでメシ食ったり、日比谷の公園の噴水のとこに腰掛けてずっととりとめもないことを話したりしてた。あそこの噴水は池ん中に収まりきってなくて、霧雨のように広い範囲を濡らすから、しばらく座ってたら、オレもアイツも、しんなり濡れてしまった。
近くのマックに入ったら、場所柄なのか、店員に英語スタッフが居て、英語でガイジンの客に応対してた。アイツがそれ見て
「すげえ、ガイジンと英語でしゃべってる」
とかアホみてえなこと言ったこととかは、鮮明に覚えてる。
けど、その長い一日を、どんな話をして、どこを歩いて過ごしたのか、不思議なくらい覚えてないんだ。
まるで風邪ひいた日みたいに。
ぼんやりした熱に浮かされて、判断も思考も記憶も、全然ダメな感じだった。
「今日、ウチに泊まるんだろ」
とアイツに尋ねた、その一瞬のことだけは良く覚えてる。
「ああ」
と答えたアイツが、口許に指を持っていって噛んでたのとか、その一瞬だけの小さな表情や、髪の流れに至るまで、微に入り細に入り覚えてる。あとはまた、ぼやける。
こないだは帰ってからオヤジに怒られた、と言ってアイツはカオを顰めた。
今度はちゃんと許可とって来た、と。
ウチの畑覚えてるかオマエ、あの段々畑、みかんの、あそこ、手伝って、小遣い貰ったんだよ。
誇らしげに胸を張ったアイツに、オレはオレだってジジイのレストラン手伝ってる、と意味もなく張り合って言った。
会話としては噛み合わないが、オレにとっては重要なトコだった。
アイツに負けないってトコがさ。
初冬の陽射しが早い時刻のうちに足許の影を長くしていたことや、眇めた目とか、ロッカーに預けることも思いつかずずっと持ち歩いてた大きなカバンとか、通り過ぎた車のエンジン音とか。
何で、そんなことばかり覚えているんだろう。
アイツと、何を話してドコを歩いたかも、覚えていないのに。
やけに日暮れが待ち遠しくて、オレはずっと、上の空だったんだ。
二人で遊んでるのはすっげェ楽しかったのに、それどころじゃないくらい、確信を得られる時間が来るのを待ち望んでいた。





晩飯はジジイのレストランで食った。
ジジイにそうしろと言われていたのだ。
早くウチにゾロを連れて行きたかったオレは、まだ夕方だってのに、馬鹿みたいに早くレストランに行って、まだ腹も減ってないのにメシを食った。その日一日を早く切り上げてしまいたかった。
何食ったのかは覚えてない。
その頃オレが住んでたのは、レストランから電車で2駅下ったとこにあるマンションだった。勿論ジジイと同居だった。3LDKの部屋は、まあ、男二人で住むには贅沢なほうだったのかも知れない。ダイドコロが小せえ部屋には住めないって言って、ジジイがファミリータイプのマンションを選んだのだ。
黒っぽいドア、MIWAと刻印された鍵穴。
狭い玄関には作りつけの下駄箱があって、上がり口の段差はごく低く作られている。
短い廊下に沿って、左右に、オレの部屋と、物置みたいにしてる部屋と、バスルームと、その隣りにはトイレがある。
廊下の先にリビングがあってリビングと続きのキッチンがある。
リビングの隣りがジジイの部屋だ。他の全ての部屋が洋間なのに、その部屋だけがとってつけたように畳敷きになっている。
何もかもが定型通りの賃貸マンションの造りだった。
それなのにアイツは、
「すげえ!」
って何度も言った。
リビングから出られるベランダに行って、もの凄い騒いだ。
「すっげえ、おい、見ろよ駅んとこまで見えんじゃねえか、てか、隣りの駅も見えるぜ」
とんでもねえイナカモンだ。アイツは。
アイツんとこの村で一番高い建物は学校で、4階建てなのだそうだ。
今もきっと変わってないんだろう、あの場所は。
斜面に続く段々畑、単線を走るディーゼルエンジンの列車。
ゾロはよく麦藁帽子をかぶってた。
夏だった。
海とか強い陽射しとかそんなふうな夏の記憶だけがあの村の印象で、夏にあの村で出会ったゾロだけが、その日までのオレにとってのゾロの記憶だった。
寒そうに、鼻の頭を赤くしたアイツなんて、今日までは想像もしてみなかった。
少しずつ暗くなってゆく景色を、張り裂けそうな、闇雲に叫びだしたいような、なんとも言えない気持ちで眺めた。
早く夜になって欲しかった。
そういうことは、夜にならなければしてはいけないような気がしていた。
それに、夜になれば、アイツももうこの家から逃げられないだろうと。
学校とかで皆がするエロい話のような、そうゆうエロいことをする相手には、ゾロしか考えてなかった。オレにはそれが当たり前のことだった。
麦藁帽子の、干した草の匂いと、汗の匂い。
草いきれ、潮騒、西瓜、花火、麦茶、夕立のあとの湿った土、みかん畑に撒かれた消毒。
初めて出会った頃、ゾロからは、いつもそんなふうな匂いがしていた。
そんなふうな夏の匂いに触れるとき、体の奥から生温い震えが込み上げてくる。
いつもいつも、オレは夏の匂いと、ゾロの日に焼けたまっすぐな腕を思って、自分で、してた。
でも今日はホンモノのゾロと、本当のセックスをするのだ、と。
オレはアイツが好きだった。
アイツのことが好きだから、恋人同士になりたいと思ってた。
明日になればゾロはまたあの村に帰ってしまって、いつ会えるか分からない。

前は5年も、待ったのだ。

お互い名前しか知らず、フルネームは知らず、住所を知らず、電話番号も知らずに。
行くな、帰るな、とオレは言いたかった。
ずっと居てくれと言いたかった。
一ヶ月前の、ゾロと再会したあの日、あんな劇的な出会いを果たしたというのに、オレは、やっぱり昔と同じ、なんにも言えずに、普通にアイツとお別れした。
「早く帰れ、親とか、心配してんじゃねえの」
そんなふうに説教さえして。
電話番号だけでも伝え合えたことは奇跡のようだった。
ロビンちゃんに促がされなければ、オレ達はまた、黙って別れてしまっていただろう。
彼女との交流が続いていたことは本当に有り難いことだった。あんな魅力的なレディーとおともだちで居られるなんて、本当に光栄だし、それに、いつも、一番必要なものを的確に選び出して教えてくれる。
彼女とは、実はあの夏に別れてから、一年程経過してから再会したのだ。
雑誌にジジイのレストランのことが紹介されて、「腕利きシェフ」なんてインチキくさい一文を添えられて写ってるジジイの写真を見て、来てくれた。
「私の通ってる学校からとても近いのよ」
そう言いながら笑ってたロビンちゃんは、あの村にいたときと違う、上品なチャコールグレイのワンピースを纏っていて「都会の女」って感じがして格好良かった。大人みたいだ、と思った。実際あのとき彼女は、今のオレよりいっこ年上の、二十歳だったわけだが……

番号を教えあってから一週間ほど経って、アイツから電話がきたときは、嬉しかった。
またそっちに行くと言われたとき、その日にアイツとセックスしようと心の中で決めた。
他に思いつかなかった。
ガキのオレには、却って、そういう方法以外には、恋愛の成就の手段など、思いつきもしなかったのだった。
アイツの体からは、夏草の匂いがするのだろうと、思った。
焼け焦げたような、あのうっとりするような、匂いが。
わざわざ会いに来てくれるからにはアイツもオレのことを好きで、アイツはオレに告白とかして、ドラマチックに抱きしめてくれるんだろうと想像してた。
根拠なんかどこにもなかったのだが。




実際にはなかなかそうならなかった。




布団の中で何度も寝返りを打った。
すぐ隣りに並べて敷いた布団の中で、アイツも眠れないでいると分かってた。
何しろ、まだ8時前だった。
全然寝るような時間帯じゃない。
二人分の布団を敷いた、普段物置にしている部屋の天井は見慣れなくて、どこかまるきり知らない場所にいるように思えた。実際まるきり知らない場所であれば良かった。そうしたらもう少し落ち着いていられたかもしれないし、ひょっとしたら大胆な気分になれたかも知れなかった。
でもそこは、いつジジイが帰ってくるともしれない、オレんちなわけで。
ジジイの帰宅する時刻にはまだずっと早かったが、どのくらい時間がかかるものなのか知らなかったので、早く、始めたかった。
なのに言い出せなかった。
こちらに背をむけて、ゾロは、まだ眠ってはいない。
起きているのに黙りこくって、世間話の一つもしないのは、待っているからだと思った。
「ゾロ」
と呼んだ。
もぞり、となだらかな稜線を描く布団の上掛けが蠢いて、彼がこちらを向いた。
「……ん」
暗い中で、ゾロがしっかりと目をあけてこっちを伺っていることが知れた。東京の夜は、真っ暗になんかならねェんだ。カーテン越しの明かりは、お互いの表情を見てとるのに不自由させない。そのことを怖いと思った。これから、何をするにしても、ゾロに見えてしまう。
もう、絶対、するって、それはオレにとって決定事項だった。
だってもう今しかない。
今しかないんだ。
次にいつ来るのか知らない。いつ来るのかってオレは聞けない。
早く恋人同士になりたい。
こんな遠くまででも会いに来てくれと、言える理由が必要だ。
抱け、とオレは念じた。
抱けよ、ゾロ。
抱きたいと言え。
「ゾロ」
促がすように、また呼んだ。
「……おう」
ゾロはまた応えただけだった。
その声には緊張がこもっている。
ゾロは分かっている、と思った。オレがてめェに何言わせたいのか、分かってるんだと思った。だが、奴はなかなか自分からは何も言わなかった。
早くしなければジジイが帰って来てしまう。
雑誌などの情報による当時のオレの精一杯の知識では、ラブホテルの「ご休憩」は3時間。そのくらい時間がかかるんだろうか、と心配してた。余裕を見るとすれば、そろそろコトを始めなくてはいけない。そんなことを真剣に計算してた。
早く、誘わないといけない。
ゾロ、早く言え、と思った。念じた。自分から言い出すのはイヤだった。
同じことを考えてるのだと、信じてた。
時間が過ぎる。
遠くから電車の走る音が聞こえた。
ついにオレのほうが焦れて
「ゾロ、アレ、しよう」
搾り出すように、もしかしたらゾロに聞き逃されることを心の片隅で願いながら、ぽつんと告げてみた。
冷や汗がどっと出て、羞恥でどうにかなりそうだった。
もし断られたらどうすんだ。
怖くてアイツから目が離せなかった。
だがアイツは物凄い真顔で、
「アレって、なんだよ」
と聞き返してきたのだった。
そうきたか。ひでェ。焦った。どうすりゃいいんだ。これでオレのほうがハッキリ言わなくてはいけなくなった。
「アレって……」
耳が熱い。
手のひらが冷たい。
「……アレだよ」
ゾロは何も言わない。唇を引き結んだまま、真剣なツラしてこっちを見てた。
「なあ……聞いてんのか」
「……聞いてる」
「なあ!」
強く急かすと、ゾロがまたもぞりと動いた。
そして、ほんの少し、その身動ぎで二人の間の距離を縮めてくれた。
だがまだ決定的なほどの近さではない。
早く、と焦れた。
泊まったんだから、するだろう。
そう、じゃない可能性なんて考えていなかった。
でももしも、そう、じゃなかったらどうしたらいいんだ。
ゾロ。
ゾロ。
なあ、早く言ってくれ。
てめェが一言、そう、だと言えばオレは絶対に応じるのに。イヤだなんて言わない。馬鹿にしたりしない。好きだって言う。もしオマエから、そう、言われたら、オレも好きだって言ってやる。あとはオマエの一言だけなんだ。それか、オレの一言。


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