スプリング ナンバー ワン
第8話 悪魔のような女





話は昼間に遡る。
サンジはゾロに好きだと言われ逆上した。
「この、クソ馬鹿野郎ッ!ちょーしこくなよ!おぼえてやがれ!」
と叫び、走った。
大学の通用門を抜け、やたら目立つ洋館の正面を通り、S字に曲がった坂を下り、坂下にある神社の赤い鳥居が見えてくるまで走った。
大きなイチョウの木の下へ差し掛かり、木陰の湿った空気を嗅ぐと、ようやく動悸が静まってきた。
なんだアイツ、とサンジは思った。
そして、弱った、と思った。
何が「弱った」なのか分からないが、とにかくゾロには敵わないような気がした。今、彼に何か言われたら、多少理不尽なことでも逆らえないかも知れない。言いなりになってしまいそうだ。落ち着かず、不安に似た気持ちがして、心は千々に乱れた。
「クソッ」
ぐいぐいと額の汗を拭いながら、誰へともなく悪態をついた。
「……クソッ!」
どうしたらいいのか、分からなかった。
とりあえず、意味もなく走った。
八幡風の鳥居を抜け、神明風の鳥居を通り、寺の山門にも似た楼門をくぐっていかにも権現らしい江戸趣味の唐門を脇に見て赤と緑の透塀の横を、走った。神社の境内を抜けると途端に木立が途切れ、さっと陽射しに照らされる。まっすぐなのぼり坂の道は人通りも多いが、ぐいぐいとサンジは走った。とにかく走るくらいしか衝動を逃がす術がなかった。
青いペンキで塗られた喫茶店の角を曲がり、看板建築で洋風の外観にした我が家が見えて来た。サンジは顔をくしゃくしゃに歪めた。ぎゅっとシャツの胸を掴み、速度を緩めた。

息を切らせながら玄関の扉を開けると、ナミが来ていた。
今日の彼女は髪の色にそぐわぬ深緑の服を着ていた。腕にはいつもと同じ、柄の細い橙色の日傘を掛けている。
店主は今朝から出かけているので、玄関にあがって誰か戻るのを待っていたのだろう。写真館の入り口にはゾロに弁当を持って行った出掛けに「すぐ戻ります」と書かれた札を下げておいた。
「な……ナミさん……ッ!」
ナミの顔を見るなりサンジは飛びついた。
「聞いてくれよォ!ゾロの奴ったらとんでもねェんだ!」
誰でもいいから相談せずにはいられなかった。
ナミが居なかったらうっかりゼフに相談したかも知れないくらい見境無かった。いっそ猫でも良かった。相談相手。
「オレのこと、オレのこと、惚れてるとかゆって、こ、こ、こ、こども、できるようなことはしないとか……ッ、へ、変なこと言いやがる……ッ!」
「は?ゾロがそう言ったの?」
「ゆ、ゆった!惚れてるって言って、あと何故か、こどもできることについての話だった……!」
「はあ?惚れてるは分かるけど、なんで子供の話なんかしたの?サンジ君、子供欲しいとか言ったの?」
「言うわけねェよ!なんで惚れてると子供の話が同時に出てきやがんだよ、おかしいぜアイツ!子供できることって……!するとかしないとか、ヤブカラボウに、わけわかんねえ!!」
話しながら、サンジは頭を掻き毟る。
「惚れてるって……好きなのか、あいつ、オレのこと」
「そりゃそうでしょ、惚れてんでしょ」
ナミはゆっくりと首を傾け、サンジの顔を覗くとニヤニヤした。
「ははん……分かってきたわ。あいつ、サンジ君に惚れてるって言ってきたのね?それで、子供のできるようなことはしないって、安心させようとしたわけね」
「え?」
「ぶーッ、くっくっくっ、やだ何それ、傑作だわー、あの男、信じてるんだわ!」
「へ?」
「サンジ君がこどもの作り方知らないって話よ!」
「は?」
なにそれ最高―!と肩を震わせてナミは豪快に爆笑した。
「サンジ君が子供のつくりかた、知らないって、わたし、言ったのよ、信じてるんだわあの男!」
「……え?何で?」
「……何でもクソもないわ、サンジ君、あいつはサンジくんのこと純粋な聖母のように思って愛しているのよ、その純愛にこたえなけりゃあ、男じゃないわ!」
うっとりと両手を胸の前で合わせたナミは、西洋人形のようにぱっちりした可愛らしい双眸をうるませ、サンジを見上げた。
「ンね?」
「…………」
何が「ンね?」なのか分からなかったが、
(そうか、純愛なのか)
と、サンジは思った。
(あいつはそんなにもオレのことを)
悪い気はしなかった。むしろ非常に良い気分になる自分を否めなかった。
ゾロ以上に単純なサンジは、ナミにとってはちょろい相手だった。
うっかり頬を染めて
「そそそそそ、そうだったのか」
とか呟くサンジを見るにつけ、ナミはここ数日の鬱屈が晴れる思いがした。個人的に気のもめる用件が相次ぎ、今日は気分転換にこの写真館に来ていたのだ。
「さて、そろそろ私は帰ろうかな、急ぎの用事もあるし。それじゃサンジ君ごきげんよう」
「え、もう帰っちゃうの、ナミさん」
「うん、もう笑うだけ笑ってすっきりしたしね。やっぱこのうち、いいわ、大好き」
「……?」
今イチ状況を把握しきれないサンジを残して、からん、とドアのベルは鳴るのだった。

ナミの去ったあと、サンジは一人考えた。
(そうか……あいつ、オレに純愛、だったのか……)
考えると、またちょっと気分が良くなったので誰も見ていないのをいいことに、ニヤニヤした。
(それにしても何でナミさんはオレが子供のつくりかた知らないとか、あいつに言ったんだろう)
その辺は成り行きが良く分からなかった。
(でもまあ、その話を信じてあいつはこう……何か純粋な夢をオレに持っちゃってんだな、かわいい野郎だぜ)
「ヨシ!決めた!」
縁側に足を投げ出して寝そべっていたサンジが急にコブシを固めて起き上がったので、先刻帰宅して茶の間で茶をすすっていたゼフは少しビクッとして茶を噴き出した。
「熱ッ!な、何だってんだ急に、このクソチビナスが」
「うっせえよ、このクソジジイ、少々のことでびびってんじゃねえよバーカバーカ」
バーカ、と言いながらもやけにニヤついているサンジが気持ち悪かったので、ゼフはこれ以上言い争う気になれず、放置して茶の残りをすすり出した。
サンジはそのままニヤつきながら、心に誓った。
オレはゾロの純愛を守ってやろう、と。
このまま何も知らない聖母のままでいてやるのだ。
この家を出るまで、あと僅か数ヶ月だった。演技を続けることも困難ではないように思われた。
(オレってば罪な男だぜ)
ニヤニヤしながらサンジは思った。
非常に充実した気分で、心なしかお肌までつるつるしてくるような気がするのだった。

その晩、ゾロは遅い時刻に帰って来た。
台所に用意しておいた夕飯を食べてくれただろうか、とサンジはその気配を窺う。暫くごそごそゾロが茶の間のほうで動いている物音を聞いてるうちに眠たくなってうとうとしてしまったが、ふと目を覚ますとゾロは既に隣りの布団で熟睡していた。とても寝つきの良い男である。きっと朝まで目を覚まさないだろう。
こいつ、ほんとにオレのこと好きなのかな。
そんなことを考えると、またわけもなく叫びながら走り出したいような衝動にかられたが、深夜なので堪えることにして、ゾロの寝顔を見守った。
見守っているうちにまたソワソワしてきたのでとりあえず起きて台所へ行き、きちんと食事が済まされて食器がナガシに入っているのを確認して更に一層落ち着かなくなり、ぐるぐる茶の間を歩きまわりながらニヤニヤし、また部屋に戻ってゾロの寝顔を見守ってみたりするサンジなのであった。
そして、ゾロの好意に全然悪い気はせず、むしろ幸せを感じている自分に、気付いた。



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05/1/6
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遅くなりまして申し訳ありません。ようやくサンジ視点が書けました。次回はついに……?!