スプリング ナンバー ワン
第6話 長話






本来なら静かなはずの休日の午前。玄関のベルは、何の前触れもなく、ガラガラ鳴らされた。
「誰だ」
ゾロが応対に出ると、そこにはナミが立っていた。
「あら、またアンタなの」
ナミは水色のタテジマの入った洋服を着ていた。襟飾りのところに黒いブローチをしている。服とは合わぬ色合いの、橙色の日傘を腕に掛けている。
「またも何も、玄関番はオレの仕事だ」
「へえ」
「写真だろ?今持って来るから、そこに座ってろ」
「ええ、待ってるわ」
玄関の上がり口の段差にナミは腰掛ける。ふわりとスカートの裾が広がった。
普通の家よりは余程広いとは言え、殺風景な玄関口にナミの上等そうな服装は不釣り合いで窮屈そうであった。この写真館には応接間のような場所が一切無いので、撮影室に入ってもらうのでなければ、全てこの玄関で受け付けを済ませなければいけない。
普段ならサンジが大喜びでお茶でも持って来るところだろうが、生憎昼食の買い物に出かけていて留守だった。
サンジは大抵の女性客を大歓迎したが、中でもナミは特別気に入りのようだ。常連だと言うし、ナミのほうでもサンジに親しく話し掛けたりするからそれも不思議ではないが、写真館の仕事はちっとも手伝わないくせに、その大げさな歓待ぶりは、ゾロに疑問を抱かせる。
一体サンジはこの写真館のことを、どう思っているのだろう。
(まあ別にオレが口はさむようなことじゃねえ)
とんとんとんと階段を上がって、ゾロは出来上がりの写真を手にとり、簡単に確認すると玄関まで運んだ。
「おら、これだろ」
手渡されたナミは早速赤い布張りの表紙を開いて、中を見る。
なんてことはない、すました顔で椅子に座るナミ自身が写ってるだけだ。
「見合いでもすんのかよ」
「ハ?馬鹿ね、するわけないでしょ」
「じゃ、何の写真だ?」
「……うるさいわね」
ぱたんと写真を閉じ、ナミは馬鹿にするような顔でゾロを見た。
ショウウインドウのガラス越しに玄関にはたわむような陽光が射し込んでいる。
ガラスの重なったところはやや暗い線となり、写真の飾られた場所は切り取られたような影となり、疎らな光が満ちて、ナミの横顔や青いタテジマの洋服を照らしている。
「何の目的もないただの写真よ」
「…………」
どうやらナミは写真の目的について尋ねられたくないらしい。
話のついでに訊いただけであって、別段知る必要のある事柄ではなかったので、ゾロは肩を竦め、とっとと部屋へ戻ろうとした。宿題の続きがある。
背後で、ひとつ、ナミが溜め息を吐くのが聞こえた。
「……サンジ君、居ないの?」
ゾロは立ち止まり、振り向いた。
「いねえ。出かけてる」
「そう」
ナミはもう一度、赤い布張りの表紙を開いて、中の写真を眺めた。
「ゼフのおじさんは?」
「病院に行った」
「病気なの?」
「いや、元気だ。足が痛むから医者に見せるだけ見せてくるってよ」
「そう」
まるで引き止めるように話し掛けられたので、何となくゾロは玄関のほうへ戻って、ナミの手のなかの写真を彼女の背後から覗いた。滑らかな、白黒の、影絵のようだった。
「悪かったわ」
と、ナミは呟いた。
「この写真は、本当に意味は無いの。単なる記録よ」
「記録?」
「見てくれるひとが、居ないからね、写真にしてとって置いているだけよ」
子供みたいな私、大人になった私、年をとってく私。
うたうようにナミが言う。
「見て、自然な表情でしょう」
「もう見た」
「ほんとアンタ、腹の立つ言い方する奴ね」
「しょうがねえだろ」
「ほんと、書生って最低、煩いばかりで礼儀知らずで」
「……どれ」
眉をキリキリ吊り上げたナミに閉口して、ゾロはナミの手から写真を預かった。こういう時は言いなりになるに限る。
「お、自然な表情だな」
ナミの言ったことを鸚鵡返しにして宥めようとする。
ナミが少し笑った。
「ここの写真館には常連が多いのよ」
「へえ」
「おじさんの人柄ね。ぶっきらぼうだけど、何だか信頼出来るもの。写真はね、信頼出来るひとに撮ってもらうのが一番」
「何で」
「信頼する人の前では誰でも、素直な、うつくしい顔になるからよ。どうせなら、そういう顔で撮って貰いたいでしょう、凶悪なツラしてるアンタだって」
「口の悪ィ女だな」
あはは、とナミは大きな口をあけて笑った。
写真のウデって言うのはね、そういうことよ。
そう言うと、ナミは立ち上がり、写真を小脇に抱えてベルのついた扉を開ける。
靴をはいた小さな足は、コツコツと小気味良い音をたてる。
「ちょっとなにボケっとしてんの書生君、そこまで送りなさいよ、大切なお得意様なんだから」
「あ?今ジジイも留守で店番してるとこだって言っただろうが」
「いいじゃない、滅多に客なんか来ないじゃないの」
「……散々だな」
ガランガランとベルが鳴る。
ゾロは下駄を履き、仕方なくナミの後を追った。



全面がわざとらしいまでの水色に塗られた喫茶店の角を曲がり、坂を下る。
道を挟んだ向かい側の和菓子屋の軒下に、あの白黒のブチ猫がいた。あの猫は時々サンジにエサを貰いに来るようになった。あと、時々は隣りの魚屋の魚を盗んで魚屋のオヤジに怒鳴られてる。
坂を下りきる直前くらいに石造りの鳥居があって、右に折れるとそこからは神社の境内に入る。真っ直ぐにつっきると大学の敷地の端っこのほうに辿り付く。ゾロは文科なので同じ大学でもこちら側にはあまり来たことが無い。信心もしないほうなので何やら大きな神社があることには気付いていたが、足を踏み入れたことも無かった。
楠や欅がつくる木陰で、空気がひんやりとしている。
湧き水がちょろちょろ流れを作っている。
少し前を歩くナミは、橙色の日傘をくるくると回した。
歩きながら、ナミはサンジの話をした。
「アンタ凄いわよ」
石畳に沿って赤い塀が続く。赤い塀の横を、ナミの青いタテジマの洋服が移動する。話をするためにナミは少し歩調を緩めた。
「あのサンジ君があんなに懐いてるんだから」
「あ?別にそんなんじゃねえだろ」
赤い透かし塀に青いタテジマに橙色の傘。
眩暈がしそうだとゾロは思った。
「懐いてるわよ、にぶいのね。こないだ会ったら、サンジ君、アンタの話ばっかりしてたわ」
(……そ、そうなのか?)
凄く意外なことを聞かされた気がした。
「いや、だって、違ェだろ」
オレはアイツの気に入るようなこと何もしてねえし、と答えながら、ゾロは何故だかどぎまぎした。
「そう。でも、それはそういうもんなんじゃない?」
ナミの日傘はくるくる回る。
「なんとなく、気に入ったんでしょ、理由もなく。ウマが合うとか合わないとかって、そういうもんなんじゃないの」
「どうだか。ジジイの老後を押し付ける相手と思ってんじゃねえか」
「あはは、それもそうかもしんない」
サンジ君、おじさんのこと大事にしてるもんね、一人暮らしさせんのがイヤなんでしょうね、とナミは言った。
湧き水の流れが池に辿り付く少し手前に、平べったい大きな石が置いてあった。
ナミはそこへ腰掛けた。
ゾロも並んで隣りへ座った。
丁度頭の上に椎の木が葉を茂らせていた。
ジジイを一人にしたくないのなら、写真館の手伝いをしたり、船に乗らずに店ついでやったりすりゃあいいのに、とゾロは思わないでもなかった。
だが、それがサンジの生き方ならば仕方ないのだろう。
それは、あのジジイにも、サンジ自身にも、分かってることなんだろう。
ちょろちょろと、湧き水の流れた池に落ちるあたりで、鳩が地べたに腹をつけてノンキに寝ていた。初夏とは言え風はまだ冷たく、木陰にずっと座っていると肌寒いくらいだった。
「ねえアンタ」
隣りに座ったゾロにナミは話を続けた。
「サンジ君、あのおじさんに拾われたんだって知ってる?」
「養子だとは聞いた」
「船で拾われたって話は?」
椎の葉陰が落ちて、ナミの頬が緑色に見えた。
「……知らねえ」
「知らないんだ」
ふふふ、とナミは嬉しそうに笑った。
そして「まだ私のほうが上ね」と言った。
何が上なんだよ、と思いながら、ゾロはその話を聞いた。
サンジは3つか4つのほんの小さい子供の頃、船の中でゼフに拾われた子供なのだという。

若い頃のゼフは、船乗りになりたかったのだそうだ。
けれど、足が不自由だったために断念して、各地を渡り歩きながら写真を撮っていた。元がそこそこの資産のある家だったので、働かなくても自分ひとりくらいはどうにかなった。
そして、ある時船で旅をして。

「船の中で拾ったのが、子供のころのサンジだったってわけ。サンジ君は、船の中に置き去りにされてたんだって」
つまり、あの写真館はもともとおじさんが趣味で始めたものだから、代代続く、というようなものでもないし、後継ぎのことだって、おじさん自身はちっとも心配してないのよね。どうせ道楽なんだから。サンジ君がそれをどう思ってるのかは知らないけれど。
そこまで話して、ナミはちらりとゾロを見遣り、反応を待っているようだった。
ゾロには何と言って良いのか分からない。ただ、先を話せ、というように手を振っただけだった。
ナミはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「結局、そういうおじさんとの関係を、サンジ君はきっと、頼りないと思っているのだわ。そしておじさんも、そんなふうに思われてるって、感じてるのじゃないかしら」
「…………」
「あのおじさんがサンジ君に出てけというのは、オレのことは気にするな、という意味なのよ。そしてね、サンジ君がわざわざ船のコックになりたがるのは、自分の夢をついでくれようとしてるからじゃないかって、おじさんは心配してるのよ」
「……ああ」
曖昧に、ゾロは相槌を打った。
それで、あのケンカなのか。
思いがけず下宿先の内部事情を知ってしまい、にわかには態度を決しかねた。
そこであの写真館での自らの生活について振り返ってみた。あの写真館でのゾロの生活というのは、サンジのつくる旨い食事や、サンジが転がり込んでるとはいえ一応きちんと用意されている書生用の部屋や、サンジが潜り込んでくるとはいえ寝心地の良い布団や、ここ数日やたらサンジがついて来たがる学校への至便な交通(徒歩15分)であった。
そのどれ一つも、サンジの生い立ちやゼフの思いとは関係していない。(但し全てにサンジが付属しているが)
……そうだ、別にオレにとっては何も変わるようなことはねえじゃねえか。知ろうが、知るまいが。
結局ゾロはそう考えた。それなので、「顔色ひとつ変えない」という態度のまま話を聞いていることにした。。
同時に、ナミの「サンジ君があんなに懐くなんて」という発言について、ある程度の正しさを今更ながらに認めざるを得ないことに気付いた。
今まで気付いてなかった。
懐かれてる。
どこに行ってもサンジがついて来てる。
「さて、私は何故こんな話を今急にあなたにしたのでしょう?」
ナミが腰掛けていた石から立ち上がった。
広がった、タテジマのスカートの裾が跳ね上がり、膨らんで、また引力にひかれてすとんと落ちて、白い足の移動に合わせて翻る。
「分からねえ」
と、ゾロは答えた。
ナミは上弦の半月の形に唇を吊り上げて、思わせぶりに肩だけ揺すった。
そして
「意味は無いわ」
と、簡潔に答えた。
こういう、口のまわる女がゾロは苦手だった。どう相手したらよいのか、正直分からないのだ。くいなもそうだった。でも、くいなと親しくしていた時分には、くいなのような女を苦手だとは思っていなかった。
要するに、この女が苦手だ、とゾロは思った。
思ったが後が怖いので勿論クチには出さない。
「人間を見ることより面白いことはないわ、ねえ、ゾロ、あんたとサンジ君て、正反対なのよ、多分アンタ達が自覚してるよりずっと大きな違いがあるのよ。アンタ達が、あと何ヶ月かの間にどんなふうに仲良くなるのか、私は楽しみにしてる」
「何ヶ月?」
「あらだって、夏の終わりには、サンジ君、外国に行ってしまうんでしょう?」
「あ?」
「あら」
「なんだそりゃァ」
知らなかったのね、とナミが言う。
「まあ、私もついこないだ聞いたばっかりなのよ。船で拾われたって話も、その時一緒に聞いたばかりなのよ実は。ああ、誰かに話したかった、スッキリした」
「……なんッだ、そりゃ」
「世界をまわる船に乗って、サンジ君、お仕事するんですって、地球を一周するんだって、素敵よね。こないだ異人さんと話してるサンジ君を見たの。それで事情を聞いたら今度乗る船の船員さんなんだって。その時におじさんに拾われたときの話も聞いたってわけよ、船の話ついでに。あら、馬鹿ねそんな顔して……。サンジ君、ああ見えてなかなか自分のことは話したがらないのよ、そうね、私と一緒。そりゃ簡単には聞けないわ、私だって接吻ひとつで聞き出した……」
「せ……っ」
「あっはっは、なによ、初心ね、気持ち悪いわねえ、オヤジみたいなツラしてるくせに、そのくらいで」
「だって、おい、てめえ」
「ほっぺよ、ほっぺ」
「て言っても……」
子供のつくりかたも知らないアイツに、なんていかがわしいことをする女だ、とゾロは思った。
思ったが、やっぱり後が怖いのでクチには出さなかった。
やっぱりこの女は苦手だ。

写真館の手伝いをしない、子供のつくりかたを知らない、ゾロに懐いている、ゼフを心配する、船に捨てられた、遠くへ行く船に乗る、サンジ。
ゾロはまだサンジのことを何も知らなかった。
なのに、もうアイツは居なくなるのか。

そして今度こそ本当の眩暈がした。揺れ動くタテジマの洋服に酔いそうだった。タテジマの服は、アイツだけで充分だ、と思った。

全然スッキリしない気分のゾロを残したまま、ナミは
「ここまでで良いわ」
と、参道の入り口付近でゾロと別れた。
ゾロはこの短い時間で通常の3倍は話したので、正直もう帰って寝たかったが、これだけは言っておかなければと口を開いた。
「あんなあ、ジジイのことだけど」
「ゼフのおじさんのことね?」
「おう。あんな、世話になった奴の夢とかを引き継ぐってのは、本人にとっても嬉しいもんなんじゃねえか」
「え?」
「だから、サンジがジジイの後継ぎてえと思ったとしても、それはジジイが気に病むようなことじゃねえ、それはアイツが好きでやってることだ」

くるくるくる、とナミの橙色の傘が晴天の下、まわる。

「アンタって、結構サンジ君のこと好きなのね」
とナミが言った。
「…………」
別に嫌いじゃないハズだが、改めてそう言われると、何故かどぎまぎしてしまうゾロだった。



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04/10/10
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長くなっちゃった。
あと、なんかゾロがキモい感じになってしまいました。あひゃひゃひゃひゃ。(あひゃひゃじゃないよホント……)