スプリング ナンバー ワン
第5話 池とサバと写真






大学の構内にある池のほとりで、ゾロはウソップと出会った。
ウソップは理科大のほうの学生ではあるが、入学したての頃にこの池で昼寝中のゾロに躓いて、すっころんで以来、どういうわけかゾロに友情を感じているようである。
やたら鼻の長い異相の持ち主だが、これでなかなか人望の厚い男である。いつもロクでもないホラばかり吹くが、そのホラのおかげで彼の周囲には笑いが耐えない。
今日は午前中の講義が押したおかげで、昼食のために写真館まで戻る時間がとれなかった。
仕方なくゾロはばったり出くわしたウソップから握り飯をわけてもらって飢えをしのぐことにした。ウソップは頼まれると嫌とは言えないタチなので、「おいそれ寄越せよ」と言うと「嫌だ」とは言わなかった。ウソップと友達で良かったとゾロは思った。
池のほとりにはベンチがあるので、そこに二人並んで座る。
「てめえ近頃どこでメシ食ってんだよ、見かけねえけど」
握り飯に食いつきながら、カバンをあけ、中から教科書を取り出すゾロへ、ウソップが尋ねる。
「あー……下宿先の……」
「写真館?」
「おう」
ゾロはめんどくさそうにカバンから辞書を出しながら答えた。次の講義が始まる前に、全然予習して来なかったドイツ語をどうにかしなくてはならない。
「その写真館では定食でも出してるのか?」
そう言ってウソップは笑った。
「出すか、アホ」
会話を続けながらもゾロは教科書から目を離さない。
それを見てウソップは、しょうがねえな、と言いながら、とりあえず写真の仕組みについて語りはじめた。案外この男もわけがわからない。
「写真っていうのは、日焼けみたいなもんで」
ウソップは薀蓄が好きだ。ゾロは苦手だ。興味の無い話題ならなおのこと苦手だ。
だからどんなに熱心に説明されても
「知らねえ、わからねえ」
と返す。
おまえ、本当になんで写真館なんかで書生してんだよ、全然興味無さそうだな、とウソップが呆れ声を出したその時に
「ゾロー」
と遠くから呼ぶ声が聞こえてきた。
ゾロは何故だかぎくりとして即座に顔をあげることが出来なかった。
「おいゾロ、誰かが呼んでる、手ェ振ってんぞ、知り合いか」
ウソップに促がされてようやく顔をあげると、校舎のある方角からサンジが駆けて来るところだった。
子供のつくりかたも知らないくせに、やけに足が速い。
サンジは息せき切らせて「これ」と風呂敷包みを差し出して
「てめえ、何で今日はメシ食いに帰って来ねェんだよ」
クチバシを尖らせて、ゾロの顔をじろじろ見る。
不思議そうにしているウソップへ、ゾロは手短に「写真館の息子」とサンジのことを紹介した。
「おお、そうか、オレはウソップ。よろしくな、ええと……」
「オレはサンジだ」
「そうか、サンジ、宜しく」
「宜しく」
「…………おい」
二人が友好的な挨拶を交わしている間、ゾロはサンジの差し出した包みが気になっていた。
「そりゃ、何だ」
「あ、そうそう、これな、てめえがどっかで迷子にでもなった腹減らしてんじゃねえかと思ってな」
ゴソゴソとサンジが包みを解く。
弁当箱のフタをあけると、うまそうな匂いがふわりと広がる。
「サバの味噌煮」
言わずとも見れば分かるようなことをサンジが宣言した。
「てめえ、旨いって言ってたろ、まだ出来たてだぜ」
ずいっと弁当箱が押し付けられる。
「まあ、食え。食ってオレに恩義を感じろ」
上機嫌に箸まで握らされてしまったので、ゾロはもうドイツ語のことはアッサリ諦めて、メシを食うことにした。
本当に旨そうだ。
良かったらてめえも食え、とサンジはウソップにまで箸を渡している。ウソップは大喜びだ。
「ありがてえ、オレもゾロもサバの味噌煮を食う学生なんだ」
ウソップがそう言うと、サンジが「鳥よりサバ食ったほうがいいもんな」と言って、二人は顔を見合わせて笑っている。
「何なんだ、こないだからサバがどうだって騒ぎやがって」
「騒いでねえよ、おまえ、雁って読んだことねえの?」
ねえよ、と横から叫んだのはウソップだった。
「ねえって、絶対。サンジ、あのな、そいつ教科書以外何も読まねえんだよ。必要最低限の男なんだ」
「……ひでえな」
「あー、ひでえよ、ひでえひでえ、文科のくせに」
「うるせえな、法科だ」
「同じ1部だろ」
「うるせえ……」
「雁ってゆうのはな」
やけに得意げにウソップが説明してくれた。小説で、サバの味噌煮が食えないがために他所の男のおめかけさんとの淡い恋を逃した学生がいたのだと、そういう話だった。
ゾロには全然興味のわかない話だ。
そんなことより、目の前のメシのほうに興味がある。
どうやったらこんなふうになるんだ。柔らかいのに全然煮崩れしてないし、ツヤがあって、サバの皮の縞模様までわかる。
サバの模様はなんかトラ猫に似てると思う。
なんでトラではなくトラ猫に似てると思うかというと、ゾロはまだトラを見たことがないからであった。
「旨ェな」
他にも野菜を煮たものや漬け物なんかをサンジは持ってきてくれていた。
思わず感想をもらしたゾロに
「そうだろ?」
水密を剥く手をとめて、サンジが突然立ち上がり
「思い知ったか!」
と叫んだ。
何が思い知ったかなのかワケが分からなかったし、何で立ち上がるのか分からなかったが、次の瞬間にはニコニコしながらまた隣りに座りなおしたので、単にじっとしていられない気分だったのだろう。立ち上がるためにさりげなくウソップに預けた水密を
「ありがとな」
と言って返してもらって、また続きを剥きはじめた。
サンジがニコニコしたままなので、ウソップもゾロも何となくつっこみそびれた。
「……おまえ、こいつが世話になってる家の坊ちゃんなんだよな。こいつ、ちゃんと働いてんのか」
ウソップがさりげなく話題を逸らした。
「あ?知らねえ」
綺麗にむけた果物の皮を指でつまんでヒラヒラさせながらサンジが答える。
「ハタから見てると写真館なんてちっとも似合いじゃねえから心配してんだよ、何しろ、写真の写る仕組みも知らねえんだから、どれがプレートなのかも分かってねえんじゃねえの」
「あ?そりゃオレも知らねえ」
「知らねえの?!」
「しらねえ、しらねえ」
「ひでえな、その写真館!」
とウソップが言った。
「ほんとだ、ひでえひでえ」
サンジは笑いころげた。
あんまり豪快な笑いころげっぷりだったのでまたしても何もつっこめなかったが、それはいくらなんでもノンキ過ぎだろう、とゾロは内心思うのだった。



午後の講義を受け、夕刻間際に写真館に戻ると、客が来ているようだった。
ゾロが帰宅したベルの音に気付くと
「学生、手伝いにあがってこい」
と2階のスタジオからゼフが呼んでいる。
サンジは台所に居るようだ。
こないだの、あの外国のお茶の匂いがしてくる。来客のために茶を入れているのだろうか。全然写真館の手伝いはしないが、マメなことはマメな男である。
大学で別れたあのあと、サンジはすぐに写真館に戻ったのだろうか、とゾロは思った。
彼はご近所の主婦なんかには大変好かれているらしい様子がこの短い共同生活の間にも知れたが、不思議と友人は少ないようで、大抵この家に居て、どこにも出かけない。
今日、ゾロの学校へ来て、珍しそうにあたりを見回し
「近所なのに、中は入ったことなかったからな」
と言いながら、楽しそうにあれこれと質問をしてきた。
あの建物はなんだ、とか、あれは何してるとこなんだ、とか、この張り紙の意味は何だ、とか。
その度に説明を強いられるのは面倒くさかったが、講義のために校舎に入る別れ際、
「今日、何時ごろ帰るんだ」
何とはなしに訊いてきたサンジが寂しそうに見えて、ヤバいと思った。
まるで良く懐いた犬の子のようではないか。
ゾロはそういうのにも弱かった。
見捨てておけないような気がして
「すぐ帰るから」
と、頼まれもしないのに約束してしまった。
サンジは不審そうに目を眇めたが、
「じゃあ早めにメシ作っとくな」
と言った。
「おまえ、メシ作んの好きだな」
ゾロが感心すると、サンジは少し照れたのかそっぽをむいて、
「そりゃ好きさ。料理は誰にでも必要とされるからな」
と答えた。
確かに、誰でも生きてりゃハラ減るもんな、とゾロは思った。



二階へあがると、そこには小太りの男と、やけに化粧の濃い若い女が居た。
二人は並んで撮影用の長椅子に腰掛けている。
「ぼ、僕らが並んで座ってるところを、と、撮ってくれたらいいんだ」
男はやたら忙しなく額をハンカチで拭っている。そのせいで薄い頭髪がくしゃくしゃになって彼を不潔な印象に見せる。女はとりすまして他所を見ている。つんととがった小さな鼻だけは、少しサンジに似ていると思った。
「好きな姿勢をとったらいい、年寄りのオレしか見てねえんだから」
ゼフが呆れたような声を出したのに、男は見る間に顔に血をのぼらせた。
「き、きみ、ご、誤解、しとらんかね、僕らは兄妹で、つ、つまりその」
男は眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭うとまたかけなおして
「い、い、いかがわしいことじゃあ、ないんだ、その、仲の良いところを撮るのは両親に見せるためであって」
ふん、と女が鼻を鳴らした。底意地が悪そうだ。サンジとは全然違うな、と考えて
(いや何でアイツを基準に物事測ろうとしてんだ……)
ゾロは頭を振る。
女はおっさんの手をぐい、と取った。そして片足だけを行儀悪く椅子の上へ上げると
「ほら、撮って」
ゼフに向かって、にい、と歯を出して笑って見せた。
着物の裾が割れて、女の白い足が覗く。
椅子の上に向かい合わせに座ったままの姿勢で、女は握りこんだおっさんの手を自分の口許へ運び、唇をつけたり、離したり、少しだけしゃぶったりした。おっさんは頭を紅潮させて「き、きみ、じっとしてなくちゃあ……」と言う。女がまた、ふん、と鼻で笑う。
カシャン、とゼフがシャッターを切った。
「もう一枚撮っとくか」
慣れた職人の手が、写真機を弄って中から小さな板を取り出し、もう一枚の板をその中へ入れなおす。
「ゾロ、てめえ、あの長椅子の方向直せ、もうちょっと右側を手前に出して……そうそう」
ぎい、とゾロが椅子を動かすと、おっさんと女が乗ったまま椅子が動く。今は別に撮影してるわけでもないのに、固まったままじっとしてるのが間抜けに見えた。
写真というのは日焼けみたいなもんだ、と昼間ウソップが言っていたのを思い出した。
あの小さな板はものすごく日焼けしやすくて、一瞬の間だけ光に当てると、その時の光の加減の通りに焼けてしまうのだと。
やっぱりそれはゾロには興味の無い話だが、アイツは知りたがってもいいんじゃないか、とサンジのことを思った。こんな魔法みたいな光景、ガキのころから見せられたら、普通もっと関心が湧いたりするもんなんじゃないだろうか。
「おい、はやく撮ってくれたまえ」
なかなか支度を終えないゼフをおっさんが急かす。
急かしたおっさんを
「いいじゃないの」
と女がなだめ、やっぱりおっさんの手を口に付けたりちょっとだけしゃぶったりする。
(どこが兄妹だよ……)
そろそろ準備が整ったようなので、撮影室の入り口の扉あたりまで下がって、壁に凭れかかる。今日は何だか疲れた。仕上げがこんなおっさんの思い出のヨスガみたいな撮影の仕事でさらに疲れた。はやく仕事済ませて晩飯食いてえな、などと考えた。
すると、ゾロのすぐ脇にある扉が、ほとほとと叩かれた。
「サ……」
サンジか。
がばッと身を起こすと、ゾロは扉の外へ向かって問い掛けた。
「な、なんだ、なんの用だよ」
「お、書生か。あのさ、お茶が入ったから持って来たんだけど、今開けたらマズい?」
「え……」
ゾロは振り返り、微妙にいかがわしいポーズで撮影に臨んでいる二人組を見た。
これは駄目だ、こんなもん見せたらいけねえ。
慌ててドアの外へ向かって
「開けんな!」
と怒鳴った。
「撮影中だ、邪魔だ」
「ああ?……んだよ、何かマズいとこか?」
そうっと、中の様子を窺おうとしてか、扉がほんの少しだけ開かれ、薄暗い廊下からサンジの片目が覗いた。
その扉を、バタン、と勢い良くゾロが閉め返した。締め出されたサンジが額でもぶつけたのか、ごちっという鈍い音がした。
「イテッ!んだ、てめえ!」
「うっせえ!あっち行っとけ!」
「な、なんだね、キミ、誰か来たのかね」
「安心しな、てめえの細君じゃあねえよ」
「な、な、失礼な、僕は別に、その」

「……うっせえぞ、どいつもこいつも!」

騒然としかけた室内を、結局はゼフの一喝が治めた。
「おら、とっとと撮影すんぞ」
ごちっ、とゾロが頭を小突かれた。
(んだよ、てめえが子供の作り方も分からねえような教育をアイツにしたせいだろ)
とゾロは思ったが、とりあえずは黙って仕事の手伝いをすることにした。
何しろゾロはここの手伝いの書生なのだ。
女がまた、ふん、と笑った。



程なくして撮影を終え、二人は帰っていった。
後始末を手伝いながら、
「呆れたエロ親父だな」
とゾロが言うと
「ああ、でもきっと良い顔に撮れてるだろうよ」
熟練のここの店主は自信ありげに断言する。
「惚れた相手と一緒にいるんだ、いい表情になるだろうさ」
へえ、そんなもんか、とゾロは思った。
ゾロの手伝える仕事は済んだので、階下に降りていったら、サンジが縁側に座り、ふてくされて猫と遊んでいた。
こないだ魚を盗んで追いかけられてた猫だ。
白地に黒の、特徴のあるブチ模様なので、すぐにそれと分かる。
近くまで歩いてゆくと、ちらりとゾロに視線を寄越して、またすぐに猫のほうを向き、殊更にゾロを無視して猫なで声で話し掛ける。
「ごめんなー、ワガハイ、クソ憎たらしい書生に全部食わせちまったから、もう魚がねえよ」
「ワガハイ?」
「……名前だ、猫の」
「そんな変な名前があるかよ」
「もー、うっせえな、角の饅頭とか売ってる店あんだろ、あそこで飼ってるからワガハイなんだよ」
「何でだよ」
「知らねえ!」
自分ののっかってる膝の持ち主が乱暴に上体を傾けたものだから、猫はサンジの膝から降りて、迷惑そうにゾロを一瞥し、通りへ続く路地へと消えていった。
むすっとしたままでサンジは「晩飯出来てるぞ」と言った。
「おっ」
ほんとか、と思わず笑顔になりかけて、ゾロは慌てて咳払いをした。相手が不機嫌なのに自分だけ上機嫌になるというのもなんだか間が抜けている。
それを見て、サンジはほんの少し、口許を緩めた。
「なんだよ、そんなに好きかよ、オレのメシ」
夕闇の中で、サンジの着たシャツや、そこから覗く腕が、白く浮き立って見える。
しょーっがねえなあ、学生は良く食うからなあ、と独り言を言いながら伸びをして、サンジは台所へと立ち上がる。
ひょっとして、機嫌が直ったのだろうか。
何だか良く分からないが、機嫌が直って良かった。ゾロもサンジに続いて茶の間へと移動した。



夜、そろそろ寝ようかと部屋へ入ると、狭い部屋の中に二組の布団が敷いてある。
サンジが帰って来て以来、すっかり見慣れた光景だ。
サンジは既に熟睡しているようだ。
子供のように丸まって眠るのがクセらしく、丸い形にふくらんだ布団が、サンジの呼吸に合わせて規則正しく上下している。
それにしても、何故コイツはこんなふうに布団を敷くんだろう、とゾロは首を捻った。
二組の布団は、何故か一分の隙間もなく、ぴったりとくっつけて並べられている。
この距離が、こいつがオレの布団にもぐりこんでしまう原因じゃないだろうか、とゾロは考える。



夢を見た。
夢の中でサンジが
「オレ、子供のつくりかた知らねえんだ」
と言った。
ゾロはサンジが哀れになって
「心配すんな、オレはもう大人だし、てめえを嫁にしてやれるから、てめえはそんなこと知らなくていいんだ」
と言った。
目が覚めると朝だった。そして何故か勃っていた。
なんだこりゃ、朝勃ちにもほどがあるだろ、と思った。
しかもやっぱりサンジが絡まっていて身動きとれない。
にっちもさっちもいかないゾロであった。



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04/09/28
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長くなっちゃった。
ところで時代を特定したくなかったので、学制についてはわざと曖昧にしてあります。でもまあ、やっぱり現在とは違うので、このゾロとサンジは19歳じゃないです。もうちょっとだけ年上なのです。
てゆうか、ここは日本のようで日本じゃないし!(笑)