スプリング ナンバー ワン
第14話 夜






身体の熱が引くまでの間、横になって天上の板目を眺める。
布団は一つしか敷いていない。当然のようにサンジの身体はすぐ隣りにあった。
何くれとなくサンジは話かけてくる。
本来ゾロはこうやってコトの後に眠たくなるのを待っている時間が好きではない。
あれこれと話し掛けられ、しかもきちんと返事しなければ冷血であるかのように責められる。なおかつ普段と比して、より親密な話題が求められる。例えば誰にも話したことのない子供の頃の思い出とか……
ゾロはまたくいなのことを思い出した。
サンジと居ると、しばしばくいなのことを思い出す。
くいなは明るかった、元気だった、突然嫁いでゾロの前から姿を消して、そのまま突然死んでしまった。
ゾロはくいなのことを思い出すと、何も出来なかった、という後悔も思い出す。そしてサンジには出来るだけのことをしてやろうと思う。
(オレはコイツに惚れてんだな)
今はしっとりと流れる黄色い髪を手すさびに撫でまわす。非常に好ましい感触だった。
サンジは今日あった出来事をあれこれと話した。
今朝、ナミの写真を見て店に入ってきた不審な男の話も聞かされた。ナミさんが心配だぁ、とサンジは大仰に憂えて見せる。なにあの女が心配なものか、とゾロは思う。ウソップに水をぶっかけた、夕刻のあの気の強い様子といったらなかった。
そう言えば、考え事をしたいと思って帰路につかずウソップ達と出歩くことを選んだというのに、結局何一つ考えはまとまらないままになってしまっていた。
考えはまとまっていなかったが、気持ちは決まっていた。
事後の打ち解けた空気の為だろうか。
滅多にないことではあるが、考えのまとまらないままに、ゾロは無意味に口を開いてしまった。
「今日研究室に呼ばれてな……ドイツに行かねえかって言われた、先生に」
腕の中に収まった痩身が、さっと強張った。
不審に思って覗き込むと、伏せられた顔の口許が、彼が緊張したときのクセで一文字に引き結ばれているのが見えた。
「……それで?」
動揺を押し隠そうとするような、低い声で尋ねられた。
「いや、別に」
別に、話の続きがあるわけではなかった。
まだ人に話すほどの考えはまとまっていない。何をどうするのかも決めていない。
ただそのような勧誘があった、という事実だけだった。
「……そっか」
サンジの漏らした深い、溜め息が一瞬だけ、掠れた喉の奥で、ひゅう、という高い音を僅かに鳴らした。
珍しくゾロは自らの発言に後悔した。まだ言うべきではなかった。きちんと話すこともない現状で。
話題を変えようと昼間の出来事の記憶を手繰り寄せてみた。
サンジが興味を持ちそうな話題があった。
「そういや、あの女……ナミがな、無縁坂に住んでるって知ってたか、オマエ。あいつはどこぞかの妾なんじゃないかって噂だ。今朝がたあいつを探しにきたって男がいたんだろ?」
ああいう立場の女はモメごとにも巻き込まれ易いだろう、かこってくれてる男のことと関係あるのかも知んねえから、あいつを探してる野郎がいたってことは早目に教えてやったほうがいいかもな。
そんなふうにゾロは話を締めくくるつもりでいた。
だがサンジの反応はゾロの予想外に激しいものだった。
「な、何、そりゃほんとの話かよテメエ……」
一瞬呆気にとられた顔にすぐ朱が差して、興奮した面持ちで布団をはねのけるとガバッと起き上がった。
「無縁坂って、あの無縁坂か、おいテメエも起きろ、すぐナミさんちまで案内しろ」
「はァ?んな夜中に押しかける気かよテメエ」
「当たり前ェだろ!ナミさんが……ナミさんがそんな辛いことしなきゃなんねェなんて!」
「アホか、それこそ相手の男とでも鉢合わせたら困んのはあの女だろーが」
「だからこそだろ?!アホはてめーだ!!」
腕を引っ張り引き止めようとするゾロにサンジは激昂し、ゼフを起こすかも知れないことも忘れて怒鳴った。
「ナミさんは、望まない、相手と……!」
放せ、と言放つと低い姿勢のまま鋭い蹴りが飛んできた。辛うじてそれをかわし、ゾロは「分かんねーだろ」と言った。
「望んでんのかも知んねーし、どんな事情があるにせよアイツが自分の意志でやってることだ。強いられてるよーにゃ見えねえよ」
ばーか、とサンジは叫んだ。
ばーか、ばーか、死ね、アホが、と大声を張り上げて泣きそうに顔を歪めた。
「死ねよ!」
バチン、と振り上げた手がゾロの顔にあたった。
本気で狙ったというよりはもがくような仕種であったためにゾロもかわしそびれた。
「ナミさんが望んでんだとしても、それでも妾にするような男なんだろ」
「まあ、望んでんのは男との関係なのか生活のことなのかは分かんねえけどな」
「……クソ!てめえと話しても永遠に噛みあわねェ」
腕を、振り払われた。
「オレだけでも行くさ」
「落ち着けってんだろ、夜中に押しかけて、そんでテメエに何が出来るよ。あいつがあいつの責任でやってることだろ、口挟むな」
「うっせェよ、オレぁナミさんのためなら何でもするね!」
「何でも……?」
「……一緒に、逃げる、とか!」
「出来ねえだろ。オマエ、船、乗るんだろ……あの女から聞いたんだ、てめえは世界を周る船に乗るんだって」
「……んで、テメエがそんな余計なこと知ってんだよ」
「余計じゃねえだろ」
「余計だろ、知らねえ、もう、分かんねえよそんなの」
「は?」
「乗らねえよ、船なんか……ッ」
せぐるようにサンジは息をついた。しゃくりあげたのだと気付いた。いつの間にか泣いていた。すぐ泣く男だとゾロは舌打ちした。
「だって、テメエはドイツに行くんだろ?!」
やっぱりオレはジジイを一人で置いてけねえよ、と口にして、サンジはぽろぽろ泣いた。
ずっと迷ってたんだ、テメエのこととは関係ねえ、ずっと止めようと思ってたんだ、でもこれで覚悟がついた……
オレはテメエとは違う、自分の夢のために誰かをおいてけぼりなんて、やっぱイヤだ。それが今、よく分かった。
サンジはきっぱりと言った。
ゾロは口篭もった。
確かに、もう気持ちは決まっていた。
ドイツへは、行くつもりだった。
先生の助手で行くから給料が出るし、日本に戻ってからも奨学生扱いにしてくれると言うし、就職だってしやすくなる。
たった2年のことだ。
そしたら、この写真館に迷惑かけなくても堂々とこの町に居られるようになるのだ。
ゾロにとって、どんなに気安い人間だったとしても、ゼフは他人だった。
(それに……あのジジイに厄介になったまんまじゃ、写真館に残るとかも言い出しにくいだろうが。延長して居候するみてえで)
サンジはゼフに養子として育てられた。
その経緯のためにゾロがこの写真館に居残ることを簡単に考えているようだが、ゾロはあくまでも書生である。その立場を理解しないサンジを、ゾロは「暢気な男」と感じた。
「もういい、テメエと話すだけ時間の無駄なんだ。オレはナミさんが大事だ」
サンジは布団の周囲を探って衣服を整えた。
その身体からは甘いような苦いような、情事の名残の匂いがする。
ゾロはもう一度舌打ちした。
「もし本当にナミを連れて逃げるなら、この写真館は出てくのか」
「…………」
「出来ねえんだろ」
「うっせ……」
ひゅ、とサンジの足が空を切った。
横面に少し喰らった。
その足を掴まえようと腕を伸ばしたが捕えそこねた。以外に素早い身のこなしでサンジは起き上がり、窓を開け、とっとと表へ飛び出した。
逃げるような後ろ姿だった。
「待てよ」
ゾロはその背中へ声をかけた。
「オレも行く」
窓の外から続く夜道は暗く、坂道を下ればそこには鎮守の杜のより深い闇があった。
石畳の道をサンジは黙って歩く。
そのすぐ後ろをゾロが歩く。
「オマエはいいな、どこでも行けるんだな」
ぽつりとサンジが言った。
「船に乗ること、今まで誰にも話さなかったのは、止めにするかも知んねえって思ってたからだ。今までみたいに、すぐ帰ってこれる船とは違うんだ。何年も帰って来れねえんだから」
「ナミはどうする?」
「…………」
「あいつは助けなんか望んでねえと思うぜ」
「オマエになんか分かるかよ」
「ジジイもだ」
「…………」
「オマエが残ることなんか望んでねえ」
ぎゅ、とサンジが掌を握り締めた。骨ばった、意外に繊細な動きをする細い指が織り込まれ、精一杯の力で握り締められている。その手は、今この場ではまるで無力で、そして何よりも祝福されていた。
誰もサンジの手助けなど必要としていない。手助けなどなくとも、サンジを大事に思っていた。
(でもこいつはそれを認めねえんだろう)
おぼろげに、ゾロは理解し始めていた。
アンタはサンジ君と自分の考えの違いを知ることすら出来ないわよ、とナミは言った。
サンジが大切にしていることと、ゾロが大事だと思っていることは、まるで違っていた。
それは単純な違いではなく、けれど絶望的に大きな違いでもなく、ささいな、ほんのささいな齟齬だった。
その齟齬をかみあわせるためには、新しい思想が必要だった。
以前学校のあの池の端で外国人の画家が絵を書いていたことがあった。ドイツ語教師の客人だった。画家は豊かな色彩で池を描いた。通り掛かったゾロに、ドイツ語教師は感想を求めた。
「のびのびしてる……」
絵に興味などないゾロは答えに窮してそう答えた。
画家は不思議そうにゾロを眺めた。
「のびのびしてる……」
と、ゾロはドイツ語で答えようとした。
けれど、出来なかった。
のびのびしている、という言葉に当てはまるドイツ語など存在しないのだ。Munter、と咄嗟にゾロは言いかけて、それはまるで違う感想であると気付いた。
のびのびしている、はドイツ語にはならないし、Munterと全く同じ日本語もないんだろう。
それと同じようにサンジの世界にあって、ゾロの世界にはない言葉が存在している。そう思った。
暗い、夜道を歩くサンジの背中は頑なだった。
鬱蒼と圧し掛かる夜道を、二人は黙って歩き続けた。



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05/6/8
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ぜえぜえ……終わらない……終わらない……
今回が読んで一番つまらない場所だったと思います。
すみません、おつき合いありがとうございます。