スプリング ナンバー ワン
第12話 無縁坂






これといった特徴の無い、少し傾斜のきつめの坂だった。両脇には民家が並び、坂を上がるほどにその合間から駅のある方角が窪地のように見えた。
無縁、という名前の所為かどこかうら寂しい影のある通りだと思ったが、それは単に先行して名前を聞いた印象が強いためで、実際のところは夕暮れ時の往来なんてどこもこんなものだろう。
「おい、あの家だぜ」
長ッ鼻が指差す先に、ひっそりとした佇まいの家屋があった。間口は狭く、通りに接して玄関がある。玄関の隣りに並んで窓があり、控えめな住まいではあったが滑らかな擦りガラスがその窓枠に嵌っていた。
窓は少しだけ開かれていた。
「窓、開いてんぜ……今なら中見れっかも」
ウソップの仲間その1が呟いた。
「待て、そっとだぞ、そーっと……」
何故か意味もなくヒソヒソ声になって仲間その2が言う。
「よしそっとだな、そーっと、そーっと……」
何故か身を屈め壁に張り付くようにしてあからさまにコソコソとウソップが歩きだす。
「いやそれ余計目立つだろ」
ゾロのツッコミが飛ぶ。
「シッ!」
3人は一斉に口に手をあててゾロを睨んだ。
(……アホか)
近頃どうも身辺にアホばかりのような気がする。
類は友を呼ぶというから、ひょっとしたらオレもこのくらいアレなのか……
そう思うと多少気分が暗くならないでもないゾロだった。
「アンタたち」
不意に背後から声が掛けられた。年配の女の声だった。
「おう」
ヒッ、と咄嗟に身を竦ませた3人組を尻目にゾロは振り返り返事をした。ただ公道を歩いていただけのことだ。誰に咎められる筋合いもない。
そこに立っていたのはいかにも近所のおばちゃんといった出で立ちの初老の女性だった。
「あそこの家の女を見に来たんでしょう、どうせ。最近アンタたちみたいな若造が多くてこっちゃ迷惑してんだよ」
心底迷惑そうな顔をしておばちゃんは言った。
「あー、うるさくしてすまねェな」
とりあえずゾロは謝った。
「あの、オレらすぐ帰りますから」
へへへ、とようやく愛想笑いを浮かべたウソップがおばちゃんにぺコリと頭を下げた。予定では美女に会釈したかったんだろうが生憎なことだった。
「ならいいけど」
ジロジロとおばちゃんは何が気に入らないのかゾロばかりを眺めまわす。確かに人相の悪さでは群を抜いていた。
「そんなに珍しいものかね、妾の女が」
忌々しそうに言い捨てるとおばちゃんは4軒ほど離れた自宅へ戻って行った。
「えー、なに、ほんとにそうなの」
立ち去ろうとするおばちゃんを引き止めてウソップがそれだけ尋ねた。
「知らないよ、でもそうだって噂だよ。女一人で身よりも無いっていうのに暮らしていけるわけがない。働いてるわけでもないし、昼間も家に居るしね、そのコ」
おばちゃんは凄く面倒くさそうで、それだけ答えるとえっちらおっちら歩き出した。
「ふーん……」
大して驚いたわけでもないふうを装いながら、ウソップ達は若い好奇心に内心駆り立てられているようだった。全く何の感慨も湧かないのはとにかく典拠を知らぬゾロだけで、またよし元ネタになった小説を彼が読んでいたとしても、現実との符号にときめくような感性は持ち合わせていなかった。
「通り、すがる、だけ」
お互い顔を見合わせ、ウソップ達が頷きあう。
そして、「それ」とばかりに早足に少しばかり開かれたその窓へ、自然を装って立ち止まることなく、けれどなるべく奥まで見えるように不自然に首を伸ばしながら、通りがかる。
あくまでも通りがかっただけであるはずの彼らに向けて、半開だった窓が勢いよくガラッと開かれたかと思うと
「鬱陶しい!まる聞こえなのよアホ学生ども!」
ピシャリ、と水が打たれた。
いきなり顔へ水をかけられたウソップは立ち止まり、呆気にとられて窓から顔を出した人物を見た。後の二人はワッとばかりに駆け出すと笑いながら坂を駆け上って逃げて行った。まるで悪戯を成功させた悪餓鬼のようだった。悪戯はこの場合失敗したようでもあるが、思いがけず女からの反応を貰ったのだから、話の種としては大成功とも言える。
ただ頭からずぶ濡れになったウソップだけが取り残されて、どうやらご立腹らしい女に謝るという大役を拒否権無しに任されることになってしまった。
いや、この場にうっかり残ってしまったという点ではゾロもか。但しゾロはウソップよりはいくらか離れた場所に居たため、女はまだこちらに気付いてはいないかも知れない。
「あいつら〜」
見捨てられたウソップは唸るように呟いてはいるが、もともと今日のこの計画はウソップ自身の立案である。言わば身から出たサビであった。
女は腕組をし、今にも窓から手を伸ばしてウソップの襟首でも掴んで締め上げそうなくらい憎しみのこもった目で彼を見下ろしていた。
「煩いってのよ、今日という今日は思い知らせてやる、他人の家勝手に覗いてんじゃないわよクソどもが!」
「……ど、どうもすみません!」
やけに口の悪い女へ、ウソップは速攻で謝罪した。男らしいくらいの頭の下げっぷりだった。これで彼は念願叶って無縁坂の女にある意味会釈できたのだと考えられなくもない。色恋沙汰の芽生えそうな気配は微塵も感じられないが。
それにしても気の強そうな女である。
だが美人だった。
鬼のような形相をしているが、ぱっちりと開かれた目、吊り上った細い眉、短く切られた赤茶の髪。
細面のその横顔に、見覚えがあった。
「てめえは……」
姿を見せた女に向かって、ゾロは呆然として声をかけた。
女は鬼のような表情を緩め、不思議そうにこちらを向いた。
「……ん?あら、アンタだったの、ゾロ」
振り向いたのは、忘れようにも忘れようがない、ゾロにサンジは子供のつくりかたを知らないと吹聴した、あの悪魔のような女であった。
「なにやってんだァ?てめえはまたこんなトコで」
「何ってこともないわよ、ここがあたしの家よ。アンタにとやかく言われる筋合い無いわ」
「そりゃまァ……」
言い返されてゾロは言い澱んだ。
ウソップは突然二人が旧知の仲のように話し出したので、狐につままれたような顔をして両者を見比べている。
「用事じゃないのなら帰って頂戴。悪いけど今日はあまり時間が無いの」
「へえ。誰か来るのか」
「は?……ああ、そうね、来るわね」
「オマエ、近所から何て言われてっか知ってるか」
「さあ。でもまあ予想はつくわ、若い女の一人暮らしなんて、どんなふうに言われるのか」
コトリ、とナミはずっと手に握り締めていた何かを窓の桟へ置いた。見れば水差しのようであった。多分あれから水を撒いたのだろう。
「本当のことなのか?」
ゾロは尋ねた。
「もしそれが本当だったらどうだってわけ?どうでもいいじゃないの、アンタには」
疲れたふうに跳ね返したナミに、まあそうだな、とゾロはあっさり引いた。
「もう帰って。夕べも寝ていないし、頭が痛いの」
「ああ」
ゾロはぐいと腕だけ伸ばして呆けているウソップを回収すると
「邪魔したな、騒がせるつもりじゃなかったんだが」
そうとだけ言って立ち去ろうとした。
ナミが本当に疲れている様子だったので邪魔をしたら悪いと思ったのだ。
坂は先刻よりも若干夕暮れの影を濃くしていた。
下りのほうが上りのときよりも視界が良いので、ずっと先まで伸びてゆく道へ、家々の、或いは木々の長い影が伸び、丘の谷になった部分にはすっぽりと丘の影が覆って早くも夜が来ていることが見てとれた。
おら、とウソップの手を引っ張って無理矢理歩かせながら坂を少し下り出す。
背後でカラカラと引き戸が開く音がした。
「ねえ、本当にそれだけなわけ?」
振り向くとナミが玄関から姿を出し、こちらを見ていた。
その顔は拍子抜けした、という表情だった。
素足に下駄を突っ掛けただけで、2、3歩彼女はゾロを追って来る。
「あ?」
「あたしに何か言うこととか無いわけ?」
「別に用事はねえよ、こいつらが噂の無縁坂の女を見たがったから付いて来ただけだったんだ」
「そうじゃなくて!」
「……あァ?」
ゾロは首を捻った。
ゾロにはナミの言わんとすることがさっぱり見当つかなかった。
ナミは知人が妾と陰口を叩かれているのに何の感慨も無さそうなゾロの神経を鈍いと思った。
「呆れた!」
ナミはゾロの背中へ向かって叫んだ。
「サンジ君がかわいそうだわ!」
カラリと下駄の歯が鳴った。
「アンタは、サンジ君と自分の考えの違いを、知ることすら出来ないわよ!そのままじゃ、知ることすら出来ないわよ!」
ゾロは不思議そうに、立ち止まってナミを眺めただけだった。



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05/4/14
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大変お待たせいたしました。ラストスパート…!!