連作 木の葉の子供
麦の穂騒ぐ頃に
うんと子供の頃の話だ。
祖父が亡くなったときの話。
まだ学校へも通わないくらいの年頃だったオレは、両親につれられて、危篤の床にある祖父の看病に行った。
いや、看病に行ったという言い方は違うかも知れない。
看取りに行った。
祖父が死んでしまうことは、誰の目にも明らかだった。治療は既に打ち切られていた。あとは、時間が流れて行くだけ。
祖父は薄くなった胸をかろうじて上下させ、今にも引き込まれそうな眠りの誘惑と、静かに戦っていた。
うとうとと体を沈ませかけると、ふいに喉を鳴らして目を薄く開いた。そしてまた目蓋を閉じる。眠ってしまえば二度と目覚めない。周囲もそんなふうに思っていたし、本人もそう思っていたのだろう。見守るオレたちと名残を惜しむように、誘いにくる死をあと少し、あと少しと振り払ってその日を過ごしていた。
すっかり痩せた体躯は茶ばんで、首の皮は張り付くように気管や血管の筋を浮き立たせていた。
「潮が引く頃に死ぬよ」
そんなふうに祖母が言った。
「昔から、そう言われてる」
祖母と祖父は、海のある町に長く住んだことがあるのだそうだ。
木の葉の里には海が無いから、潮が引く頃と言われてもオレには良く分からなかった。
ただ、海が満ち引きするのだとしたら、暗い夜の間には深く満ちて、朝に引いてゆくものだろうと勝手に考えた。恐ろしいことは、全て夜に起こると思っていた。
今は満潮干潮の事実を知っているが、果たして祖父はその明け方に、引き込まれるように死んだのだった------
アカデミーからの帰り道、珍しく回り道をして麦畑の中を歩いた。仕事は半日で上がりだったので、普段ならあまり出歩かぬような時間帯に一人歩いているのが何とはなしに新鮮に感じられる。
麦秋と呼ぶに相応しい季節になっていた。
今ごろは麦の穂が見事だろう、そう思ってわざと用も無い回り道を選んだ。
空は澄んで、晴れていた。
さわさわと、長細い葉が擦れ合う音が広がっていた。
何年か前、やはり今日と同じようにアカデミーが半日で休講になった日があって、真昼のこの道を歩いたことがある。
畑には黒っぽい切り株ばかりが並んでいるような時期だった。
絶対先生の家へ行く。
そう言ってついてくる子供を持て余して、遠回りをした。
その子の背丈はまだ小さく、黄色い髪のその穂先が、丁度下ろした腕の手首あたりに、ちくちくと触れた。
通常であれば学齢に達しないような、こんな年頃のこの子がアカデミーへ入れられたのは、まるで里の作為であるようだった。
この子は持て余されている。
ざくざくと大雑把に踏み均された畔を踏んで、オレは歩いた。少し遅れて、その子も。
「先生の家な、散らかってるから今度にしないか」
「…………」
「大体オマエ、ヒマあるなら宿題でもしてろ」
ぎゅ、とその子が唇を噛んだ。
俯いて下唇を吸い込んで、くちばしを尖らせるヒヨコのような顔になっている。小さな子供がよく見せる表情だ。
「……やだってば!絶対今日は先生ん家に行くんだ」
ナルト、と、オレは聞き分けのない生徒を呼んだ。
「先生の家なんてな、面白いモン、何も無いから」
「知らねえよ、先生んちがどんだけ散らかってんだか、オレが見てやるんだってばよ、それだけだってば」
ナルト、とオレは呼んだ。
「クラスの他の奴だって、先生の家になんか来たことないだろ。オマエだけ特別は駄目」
ぎゅ、とますます強く、ヒヨコのくちばしが尖る。
可愛いな、とオレは思った。
「こら!ちゃんと聞き分けろ!立派な忍者はワガママ言わない!」
ハーッ、と拳固を作る真似事をして、子供に喜ばれるような怒り方をしてやる。
出し抜けに、はしゃぐような悲鳴のような幼い笑い声があがった。
走り出して、ナルトは逃げた。
「せんせーっ、怖いって!」
少し離れたところから、飛び跳ねて、回り込んで、オレを見て舌を出して、またもう少し離れたところまで走って行った。
小さな、黄色い頭。
可愛い笑い声。
「せんせーっ」
ざ、ざ、ざ、と乱雑な畦道を踏み散らす音。
「せんせーっ」
ざくざくと、オレは何歩か後ろ歩きに歩いて、立ち止まったナルトのほうを見ながら遠ざかった。
「気ぃつけて帰れよー」
ざくざく、ざくざく、ざくざく
振り向き、前を向くと、もうナルトに背を向けたまま歩いた。
あの子の眼球の上をつるりと滑った陽光が、残照になって視界を悪くする。
もう後ろから「せんせーっ」と追う声はしなかった。
麦の穂は騒ぎ、細波だっている。
この里を守った、五代目火影の死んだのは干潮の時刻だったのだろうか。混乱は去る時だけは静かに、まさしく潮のように退いて行った。
あの子供は、夜の明ける頃、里を出ていった。
ちくちくと麦の穂先が下ろした腕の手首あたりに触れる。
このくらいの背丈だった。
このくらいの背丈だったあの子は、今やこの胸のあたりまで成長し、麦が穂を伸ばした今、旅立ってしまった。
あの子は引き込まれるように去ったのではない。
力強く、いずれまた新しい命を身に付けて、帰ってくるだろう。
風が吹くのか遠くの木々が揺れている。
と、思う間もなく麦畑の上を白く波立たせ、順繰りに光る穂先を撫ぜて接近し、畔のところでその波の姿は絶えて、ごう、と鳴り衣服を膨らませて現在地を騒がせ、すぐにまた畔の向こう岸まで渡って、そこから麦穂の上に波の姿を取り戻して吹き抜けてゆく。
その日の夜、サスケが帰ってきた。
ナルトに会ったのだと聞いた。あとのことは知らない。
明け方になっても誰も死ななかった。そんな話はどこからも聞かなかった。
ただ騒々と波の引く音だけが、騒いだだけのことであった。
03.06.04
異邦のひと
案山子
迷い子たち
(準備中)
丁度「木の葉の子供」の4作を考えついたのは『或る少女の死まで』という小説を読んでる時で、その中にあった「麦の穂は衣へだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ」という短歌からこの話を思いつきました。暗いなァ・・・とほほです。イルカ先生はほんとはもっとこうなんつうか、生きる希望に満ち満ちちゃってるステキな漢だと思ってます・・・。