連作 木の葉の子供
異邦のひと
ナルトがその女のことを思い出すとき、決まって幼かったあの時分に聞いた二つの詞章を連想する。
一つは
いろ青きさかなは何にかなしみ、ひねもすそらを仰ぐや
と始まる歌であった。旋律は曖昧にしか覚えていない。この続きの歌詞も曖昧である。
もう一つは呪文のように調子良く繰り返す問答で、少し聞けばこれも決まりの歌のようになっていた。
狐がえりそうろうや
あななりそうろう
狐がきて悪いことをするにや
……その文句は、このように繰り返すものだった。
われは何をする
若宮の祭とて狐狩りをする
狐狩り 狐狩り
雨が降れば地固まる 狐狩ればテン鳴く
鳴く狐耳に入れて 狐狩りする 狐狩り 狐狩り
思い返せば大勢の歩く足の細い影々が連なる夜道がよみがえる。足の高い下駄はからからと夜道を引かれて地べたを乱してあった。女の抱く腕は、その晩にかぎって力強かった。今となっては心もとないばかりの、あの腕の熱さ。
歌は女のよく聞かせてくれたものだった。
いろ青きさかなは何に悲しみ、ひねもすそらをあおぐや……
謎かけのようなこの歌をうたい、「なぜかしら、いろ青きさかなは何に悲しみ……」呟いた女の横顔はいつでも疲れているような影が見えた。その影はくすんだ女の容貌とあいまって見るものを憂鬱にさせた。
だが、この憂鬱な子守りの女が子供時代のナルトにとっては、火影を除けば唯一の庇護者であった。
時折子供は「なぜ」と彼にしては珍しい、愛想のように問うた。まさかそれに答えなどあるわけもない戯れ事に、たった一夜、女はこうと言った。
「空でないからね、空でないから」
まるでそれは抽象的で美しすぎる返答で、面白くなかった。
若くもなかった女だのに、随分少女じみた答えだ。
正月を過ぎて最初の満月の晩のことである。
吸い付くような丸い月が中天に貼られる頃合に、往来を行く声々があった。
狐がえりそうろうや、あななりそうろう、狐がきて悪いことをするにや
子供の声だった。
狐狩り、狐狩り、狐狩り、と凛と張った声が打たれたように冷え凍える空気を伝う。
それを聞くナルトはまだ幼かった。
それは毎年の行事であった筈なのに、彼にとってはその年に初めて里で何事かあるのだと意識された。或いはまだ神の手のうちの年頃と、物心ある年頃とを隔てる境目が、丁度あの年に巡ってきたものであったのかも知れない。
狐狩り、狐狩り、狐狩り
ナルトは表へ出ると声のするほうを追った。元より夜歩きを禁じるような習慣はこの里には無い。孤児故にベットから抜け出したことに気付く親も無い。
集団は直ぐに見つかった。
から、から、からと下駄を引き、全員が揃いの古めいた紺地の着物を着ていた。手には杖を持ち、それも地べたを引いていた。徒に引いて歩くものだから、白光りする乱暴な線描が行列の後に残されている。何より異であったのは、誰もが白い狐の面をつけ、誰が誰とも分からぬ様子であったことだ。朱で表情のつけられた、眼光の恐ろしい狐の面は不吉であった。どうにもならぬ異形の行列であった。それが夜半の里の道を通る。
どうやらそれが当時のナルトよりはずっと年嵩の子供達を中心とした行列であるらしいことが、にょっきりと着物の裾から伸びた足の長さで知れた。そのまっすぐな細い足は、幾重にも影になって地に落ち折り重なって格子模様をつくりだし、時に放射に伸び、縞となり網となり、細波のように底冷えの夜の底を這って進んだ。
と、先頭の一人が強く杖を振り、声を張り上げた。
「われは何をする」
残りの全員が声を揃えて答えた。
「若宮の祭とて狐狩りをする」
そして口々にこう言った。
「 狐狩り 狐狩り」
最初の一人がまたこう宣言した。
「雨が降れば地固まる 狐狩ればテン鳴く」
他の者が応える。
「鳴く狐耳に入れて 狐狩りする」
声々はこだました。
狐狩り 狐狩り
夜道の所々には、こんな時刻であるのに見物らしき大人の人影がある。どうやら子供らの親のようで、佇んで見るのは女親が殆どだった。男たちは慌しく提灯を持ちどこかへ駆けてゆく者を二人、見かけたきりだ。なんにせよ、見物の人数は少ない。
ナルトは後になって知ることであるが、これはもとより見物されるような行事では無い。正月にその年の豊作と獣害の無いことを祈って行われる子供の神事であった。
見物の女たちは、見物することをぜんたい罪であると考えるかのようで、路地の隅へ避けて子供らの行列に近寄ろうとも干渉しようともしなかった。それは平常の親子の関係とは違った緊張感を持って深夜の行列の威儀を高めていた。
「なあ、あれは何だってばよ」
見物の女のなかの一人の裾をひいて、ナルトは尋ねた。女は眉を顰め、この里の人間には良くあること、殊に女にはあからさまに行われる態度であったが、冷たくその子を突き放して、答えずに笑った。
「何だよ!何だよ!」
ナルトが舌足らずに大声を出すと、
「しッ」
という叱責の声があがり、非難する声々が紛れ込んだ異物のような子供を黙らせようとした。そうとなればナルトはますます声をあげて
「何だよ、何だよ」
と叫んだ。そして、子供らの行列について歩こうとした。
行く末を自ら検めようとしたことも事実であったし、子供ばかりの行列であるから、自分がついて行って悪いということはないだろうと考えたためでもあった。
「どこに行くの、ねえ」
一歩、二歩と踏みだした時だった。
「狐がえりそうろうや」
「あななりそうろう」
「狐がきて悪いことをするにや」
狐狩り、狐狩り、狐狩り
「あら、ナルトは駄目よ」
冷たい、若い母親の声がした。途端、さざめきのように笑いがおこった。
「だって……ねえ?」
母親たちは顔を見合わせ、笑う。ともすれば、その表情は誇らしげでもあった。里の祭事に奉仕出来る、まっとうな子を持った喜びが、この異形の子を前にしては彼女らにくっきりと意識された。
笑う、声々。
凪いだ湖面のように冷気に光る夜道を、ナルトは駆けた。湿った裏木戸の取っ手を押して、自分の部屋へ帰った。埃っぽい廊下の先の居間に明かりが点るのを見出し踏み込むと、ストーブの傍へ子守りの女が腰掛けてうつらうつらとしていた。
「なあ」
ナルトは女の手を引っ張って、無理やり体へしがみついた。
「なあ!」
だが、彼には自らの高ぶった感情を表現するだけの知恵はなかった。ただ闇雲に女の体をはたくばかりである。女はいかにも鈍そうにのろのろと薄目を開けるとあやしつけるようにナルトを抱き上げ、小さな肢体をゆっくりと揺すり始めた。背中に回された女の腕を、その晩にかぎってひどく熱いと感じた。
いろ青きさかなは何にかなしみ、ひねもすそらを仰ぐや
いろあおきさかな、なににかなしみ、……
またいつもの童謡を繰り返す。
空も川も青い、魚も青い、では何故魚は悲しむのか……何かそんな感じの歌であったと思う。
しばらくして女は姿を消した。
これはナルトが随分と大人になってから知ったことではあるが、彼の子守り女は他国の諜報だったのだそうだ。それで、始末された。あんな愚鈍そうな様子からはまるで似つかわしくない。里は女を泳がせるためわざとナルトの子守りにつけたのだ。
それにしても女がナルトの出生について知らなかったということから知れるように、重要な機密を狙うものでは無かったため、里の中でも彼女について然程の注意は払われずに終わった。
ナルトが正月の行列に加わることは、アカデミーを卒業した現在に至るまで一度も無い。
案山子
麦の穂騒ぐ頃に
迷い子たち
(準備中)
「異邦のひと」の作中の「いろ青き魚はなにを悲しみ」という詩は、室生犀星の「いろ青き魚はなにを悲しみ ひねもすそらを仰ぐや。 そらは水の上にかがやきわたりて 魚ののぞみとどかず。 あわれ、そらとみずとは遠くへだたり 魚はかたみに空をうかがう」(『或る少女の死まで』岩波文庫、昭和二十七年)から、この作品に都合の良いように多少解釈を違えた形で引用しました。狐狩りについては、実際にある行事です。問答の文句は郷土史をあさってるときに発見したものをそのまま。敦賀だったと思います。