案山子
ナルトは川沿いの道を歩いていた。陽だまりは暖かだったが、木陰は幾らか寒いくらいに感じられた。
春先の強い光が日向を照らし、冬の名残の冷たい空気が日陰に潜む。
それは丁度彼岸の間近の出来事であった。
だんだらに続く木々の日陰は山の方ほど目深で、里へ下りてくればおざなりに陽光を透過させてしまう。やがてその手薄な木陰さえも途切れ、景色がひらけると、そこには丁寧に手入れされた田畑が、狭い土地に押し込まれるようにつくられていた。
その年、彼はアカデミーを卒業したばかりだった。
これまでの子供ばかりの世界から抜け出てみれば、そこには新しい縁もあり、縁の導く事件もあり、未知の大海が洋々として彼の前へ横たわっていた。それは時に非常な魅力をもって彼を惹きつけ、幼い好奇心を刺激した。
何もかも、それなりに楽しかった。
やがて川が細く分岐する、用水路の端へついた。
本流ではなく、用水路のほうへと足をすすめた。そちらの方角へナルトの住むアパートがある。
その日は任務が無く、他班と合同演習があった。カカシは来なかった。アスマという名前のやけに大柄な上忍が指導にあたってくれた。
用水路の水は美しい。薄青く深い本流よりも輝き、澄んでいる。
ごく浅いところでは高く弾む水音を、幾らかの深みでは誘い込む低い音をたてて水は流れていた。
水の流れる畦道をしばらく進んだところに、ささやかな橋がかけられていた。橋とは反対側の、柳が植えられた道の端にはもう随分と古いような地蔵が六体並んでいる。
橋の傍には見慣れぬヒシャクが何本か立てかけられていた。真新しい、柄の竹の節もまだ青々としたヒシャクだった。
橋よりすぐ下流に、白い布が四角に張られていた。川の流れの中、四方に細い杭を立て、そこへ四つの端を結んだ白布には、墨で黒く「南無阿弥陀仏」と書かれている。
ほんの一尺程の布切れである。
しかしこれに意味のあることは里の誰もが知っていた。
孕んだ女が死んだのだ。
身二つに分かれぬままの死は業深く、迷いやすいと言う。南無阿弥陀仏と四辺から中央に向かって書かれた白布は、その業をそそぐための装置であった。
女の彼岸行きを願うこの六字が水に洗われて消えたとき、身ごもったままで死んだ罪も消えるとか。
川水の真上へ立てられたこの白布へ、有縁無縁を問わず道行くひとが水をかけてくれる。ゆっくりと文字は滲み、薄れ、消えてゆく。
心もとなく細い杭が川の流れに震えている。白い布の上に書かれた文字は、まだそればかりも薄れていない。滲み始めた墨が、たわんだ中央の底へ向けて、流れるような染みを作っていた。ナルトはそれをぼんやりと眺めていた。周囲に誰も居ないことが彼を勇気付ける。母親となるべき女と、生まれてくることのなかった子供の死を、悼んで悪いことがあるものか。若い、力強い手は勢いづいてヒシャクをとると、水を汲み、そそいだ。ただそれだけのことだった。
たったそれだけのこと。
白地の表面を光らせて流れた水は、やがて染み出して川へ帰った。
墨は幾らも薄れない。
でもいつかは消える筈なのだ。
良いことをしたという満足が、少年らしい心を誇りで満たした。
川沿いの道を大股で歩きながら、ナルトは死んだ女のことを考えた。
名前も知らない、どこの誰なのかさえ。
だけど、と彼は考えた。
自分にも母親があって、きっとそのひとは自分を産んだすぐあとにでも死んでしまったのだ。誰からも聞いたことはないが、そうでなければ、これほど自らの中に母に関する記憶の一切無いはずがなかった。
子供を産んで死んだ母。
子供を産まず死んだ母。
その符号を見出して、このささやかな善業に意味を見出すことは、ますます彼の素直な心に一種の高揚を与えていた。
つまりは、人知れず善いことをしたという満足が、彼に誇らしく胸を張らせる。
そして遠いところにある悲しみを思うときの甘やかな痛みに、胸を擽られる。
既に乗り越えてしまった悲しみほど、自身を甘やかすものはない。
里の外れの辺りまで近づくと、その辺りは葬送の場所でもあり、新しい墓の上には色とりどりの吹流しがそよいでいた。
鐘の音がしていた。
一際新しく翻る吹流しの許に、黒装束の人々が集まっているのが見えた。途端、ナルトの胸は跳ね上がる。黒一色の長い上着は凶事を表わす。葬列だ。
他者の行き会うべきでない場面に出くわしてしまった。
道を変えるべきか否か。
だが里の入り口はすぐ前にあり、道はここまで来れば一本道であった。無理をして引き返すまでもない。そう思ったのも事実であるし、また同時に、誰が死んだのかという興味がささやかに彼を突き動かしたせいでもある。それはいかにも子供らしい好奇心で、彼が特別残酷なわけではなかった。
真新しい墓の上には五色の吹流しが高く立てられ、その下には二つの盛土と、今まさに掘られている三つ目の穴があった。
「ここらで」
穴を掘る男のうちの一人がそう声をあげた。
その声を合図に、黒い服の人々の奥から、白い単に身を包んだ長身の男が進み出て来る。まさにそのとき、ナルトはこの集団の正面までさしかかって、中を覗いていた。葬列の大人達は誰も皆無表情に見えた。子供は一人も居なかった。
「あ……」
ナルトは思わず声をあげた。
「カカシ先生!何してんだってばよ!」
白装束の男が顔を上げる。
「…………」
何も言いはしなかったが、その表情には親しみと困惑と、今は下がっていろという言外の言葉が読み取れた。
白い単を着た男は、カカシだった。
顔を覆う普段の黒いシャツも額当てもなく、白い単に白い首筋、青ざめたような白面の眉目は、ナルト達の予想に反して、これといった特徴が無かった。普通の男だった。
「先生……」
ナルトは口篭もり、それ以上彼らに近づくことが躊躇われた。
カカシは顔を伏せると、今しがた掘られたばかりの深い穴へ腰をおろし、うずくまった。
シャベルを持った男たちがその穴の縁を囲むようにして立った。
ぱっと、暗い色の土が白い装束の上へ散った。
あとから、あとから散った。そして積もった。
白昼の陽光を見上げ、眩しげに目を眇めるカカシは、まるでこの世ならざるものを見るかのように翳んでいた。やがてその白面にも、はらりと土は散り、彼を隠していった。
「先生」
ナルトは佇んだままで自分の師が生き埋めにされてゆくのを眺めていた。
「先週はうちの爺様が死んだ」
いつの間にかすぐ隣に立っていた老婆がしわがれた声で言った。
「そんで今度は里さがりしてた娘が」
ナルトは老婆の顔を見た。老婆はナルトを見なかった。みとれるように、黒土の上へ今は僅かに覗くばかりの白装束の、その裾を見ていた。
「だから、はたけの家のもんを頼んだんだ。これ以上悪いことの無いようにさ」
そしてカカシはすっかり埋まった。
男達は暫くウロウロと、落ち度の無いように入念に土を盛ったり整えたりしていたが、漸く納得するとその上へ青木のままの杭をたてた。
「これで」
先刻のように一人の男が合図すると、人々はだらしなくその場を離れ始めた。行きがけは列を組んで来たのだろうが、帰りの葬列は三々五々に思う方へ歩き出す。
一人の男が老婆の肩を抱いた。
「もう大丈夫だ」
そう言われて初めて、老婆は「ああ」と応えてぽろぽろと涙をこぼした。力強く頷いて見せるその皺くちゃの顔は、はっきりとした倫理に貫かれていた。
誰かが「良い天気だ」と何気ない口を開くと、それに引き込まれるように、これまでの無表情が崩れ、息が抜けるように集団に生気が戻り始めた。
晴れ晴れと、大きな溜め息を誰かが吐いた。今や葬列は過去のことであった。
「先生」
ナルトもつられて二、三歩その集団に付いて歩き出しかけたが、振り返り、沈黙する盛り土の上を振り向いた。
何も起こらない。
どうして良いか分からなかった。どうしてカカシは埋められてしまったのだろう。まだ生きているのに、死者のように。
「これ以上悪いことが無いようにだ」
男達の中の一人が先程の老婆と同じことを繰り返した。
「二度あることは三度あると言うだろう。だから、二度死者が続けて出た家では、ああやって三番目の死者を先に作って埋めてしまうんだ」
そう言った男は、良く見ればナルトをたまに「野菜も食べろ」と叱り付ける八百屋の店主だった。すぐ隣ではその妻である女性が人の良さそうに微笑んでいる。
誰も皆、役目を果たし、満足そうに胸を張っていた。
はらり、と盛られたばかりの緩い土が少しだけ崩れた。
民家の続く里中の道にはざわめきや生活臭が溢れていた。
だが、まるで耳に水が入った時のように、その物事は遠く聞こえてぼやけている。
川の流れに立てられた白い布と、土の中へ埋められた白装束のことを考えていた。死んだ孕み女と、死者の隣へ葬られたカカシのことを。
里下がりしていた娘
その時、何かがようよう彼の中で解れ始め、ほころぶように確信的な鮮やかさを増していった。
娘が里下がりしていたのは孕んだからだったろう。だとすれば、死んだのは孕み女である。あの川なかの白布はその娘の為のものに相違ない。
先週にはその家の爺様が死んだ。続いて子を腹に宿したままの娘も死んだ。立て続けの不幸を止めようと、老婆はカカシを三番目の死者になぞらえて葬ることを頼んだ。何故里の誇る上忍にそんなことを頼んだか。彼らはまるでそれが当たり前のことであるかのような顔をして、カカシを埋めた。恐らくは「はたけの家の者に頼んだ」と言うように、それが彼の家筋なのだろう。
カカシというのは木偶のことだ。
人の形代だ。
そんな名前を彼は貰った。
ナルトは自宅へ戻ると、普段通り昼食をとってから外へ遊びに出かけた。
カカシの埋められた、あの墓地へ戻る気にはなれなかった。
どうせカカシのことだ、今日のうちに何食わぬ顔で戻ってくるだろう。土に埋められることなど、彼にとっては、どうという程のことでもないのだ。
何とは無しに、初めて見たカカシの素顔のことを、ナルトは誰にも話さなかった。
異邦のひと
麦の穂騒ぐ頃に
迷い子たち
(準備中)
こんな話はこれきりなので、ご容赦下さい。
水勧請(流れ勧請)は実際にある習慣から。三番目の死者は実際には人形を作って埋めるのだそうです。