◇ ◇ ◇
すっかり身支度を整えたクルーゼが、寝室を出てきた。何も言わず去ろうとするクルーゼにギルバートは言葉を投げかけた。
「礼もなしですか?」
「…助かった。邪魔したな」
そっけなく身を翻すクルーゼの腕をギルバートが掴む。
「お待ちなさい。ゲスト用のベッドならいざ知らず、自分の寝床を提供した男にそれだけですか」
「何が欲しい」
「あなたが……と言いたいところだが、その状態では無理ですね」
「お前には関係ない」
「いつまで、そんな茶番を続けるつもりです?」
「聞いてどうする」
「知りたいだけですよ」
「ザラの情報を引き出したいなら、別の者をあたってくれ」
「また、そんな憎まれ口を」
「この口がうるさいのなら、勝手に閉じさせれば済む話だろう?邪魔な人間一人の口を封じる裏工作はお手のものだったな」
「…そうですね」
ギルバートは、クルーゼのスクリーングラスをはずした。
「そちらの提案ですから、噛み付かないでくださいね」
無粋な一言の後、クルーゼの頤に手を伸ばし、自分の唇で相手の反論を奪う。
「…んっ」
角度を変えて繰り返される口付け。相手の官能を誘うようなキスだった。
クルーゼの肩が強張る。
数時間前に無理やり静めた熱が、ざわざわと背中を駆け上がる。吐息が荒くなった。
「おや。こんなことで感じないでください」
唇を離すと、ギルバートが意地悪く囁く。
「―――誰がっ……!」
「私は、あなたの『その他大勢』になりたくはないですから」
「なんだそれはっ」
「さて?」
「……帰る」
「そのままで、帰れるんですか?お手伝いしましょうか」
軽くクルーゼのコートの襟を指先で弾く。
「うるさい」
ギルバートの手からスクリーングラスを奪い返すと、緩く笑みを洩らす男を押しのけて、クルーゼは玄関口へ向かう。
その後ろ姿を一瞥しただけで、ギルバートは後を追わなかった。その代わりに唐突に口を開いた。
「―――フラガ家があなたの消息を追っています」
クルーゼは、びくりと肩を揺らし、ドアに伸ばした手を止めた。
ゆっくりと振り返る。
「あの一族は、現当主が不在とはいえ、方々に顔が利きますから侮れませんよ」
クルーゼの表情は既に黒いスクリーングラスに隠され、窺うことはできない。
「連合は、すでに直系の素体を手に入れていたようです。どちらのものかは不明ですが」
ギルバートは、一歩また一歩とクルーゼに歩み寄る。
「それに、すでに連合の手を離れたという噂もある。導師が手引きしたらしいですがね」
手を伸ばせば触れることができる距離まで近づくと、クルーゼのスクリーングラスに指を掛けた。
「どうします?」
顔を隠す無粋なものを再び取り上げた。
「私には関係のない話だ」
クルーゼの目が瞬きもせず、ギルバートを射抜くように注がれていた。
フラガ家の直系に遺伝する特殊な能力。
勘が働くという程度のものではない。投資にしろ、事業にしろ、フラガ家がついた側に従っていれば絶対に損はしないと、裏世界では有名な伝説だった。
その不思議な能力によって、財を成したフラガ家は政財界を問わず、幅広いコネクションを持つ。
前当主アル・ダ・フラガが死亡してからは、当主不在のまま、一族の合議でフラガ家は存続していた。本来なら、時期当主を分家筋から迎えて丸く収まるはずだった。しかし、それができなかった理由。
―――アルには実の息子がいたのだ。
直系の子を差し置いて分家筋が後を継ぐわけにはいかなかった。なによりも、直系でなければあの能力は受け継がれない可能性が高い。
本来であれば当主になるべき男は、母親の意向で自由な気風の中で育ったために一族になじめず、家を出た後、軍へ入隊したという。
そして、本人の断固たる意思で家を継ぐことを拒否した男の代わりに、一族が探していたのが――――かつてアルがつくった自分のクローンだった。
だが、一族の者は知らないのだ。
そのクローンが失敗作だったことを。重大な欠陥を抱えていたことを―――。
クルーゼは内心自嘲気味に笑った。
愚かな者たち。
傲慢で愚かな「ヒト」という種。
(他者の命を弄び、貪る者が命の平等を、平和を唱えるなど……)
(この世界は狂っている……滅びて何が悪い?)
クルーゼは、暗い笑みを洩らす。
アル・ダ・フラガの死後、彼が築き上げてきた事業は一族の者たちが受け継いだ。
その子会社の一つが事業に失敗して、多大な負債を抱えたことがあった。その際、ある地球系の財団から援助を受け、なんとか倒産を免れた。
その財団は、国連が解体した後、特に資金面で地球連合の創設に貢献し、連合軍の運営にも多大な尽力をしている財閥だった。
もちろん負債の補填がまったくの善意によるものだったわけがない。
ある取引が成立していた。
その財団―――アズラエル財団が望んだのは―――フラガ家直系の能力。
その軍事転用だった。
それにはどうしても人体での研究が必要となる。しかもそれをオリジナルに悟られてはならない。
本人に気づかれないよう研究を進めなくてはならなかった。
そして、一族は身内を売ったのだ。
その精粗細胞を―――クローンをつくりだす元となる彼の体の一部を。
まだ幼い子供の―――ムウ・ラ・フラガの精粗細胞を―――――――。
「“プレア・レヴェリー”と言うのだそうですよ。その子供は」
「関係ないと言ったはずだ」
ギルバートがその名を知ったのは、もちろんクラインを通してのことだった。だが、ここでそれを言う必要はない。
クラインが、マルキオ導師を通じてプレアに何を託したかも―――。
「……そうですね。あなたには関係のないことだ」
「―――ギルバート・デュランダル。その命、まだ捨てたくはないだろう?」
「ええ」
干渉するな。
それが約束だったはずだ―――そう、怒りを内包した瞳が告げていた。
ギルバートは彼が激情を押さえようとするときの瞳が好きだった。
めったに見せることのない、その青く冷たい瞳に熱が点る。命の煌きが感じられる。
それが見たくて、わざと怒らせるようなことを言ってみたり、挑発してみたりするのだが、彼が本気で取り合うことはほとんどなかった。それだけに、稀に彼が見せる激情をはらんだ瞳に魅せられた。
干渉しすぎれば、クルーゼは躊躇わず自分を永久に沈黙させるだろう。社会的にというだけでなく、文字通りの「死」を。
ひやりとした緊張をはらむその一瞬が、ギルバートの心を沸き立たせるのだ。
我ながらどこかおかしいのではないかと、ギルバートは笑う。
ふいに口元を緩めた男の顔を一瞥し、クルーゼは眉を顰めた。
「帰る」
スクリーングラスを奪い返すと、クルーゼは踵を返した。
ギルバートは、その背中に声を掛ける。
「コートが濡れたままでは風邪をひきますよ。―――どうぞ」
クルーゼは振り返り、自分のコートを差し出したギルバートの姿を認めたが、そのまま無言で出て行った。
クルーゼが立ち去った後には、熱が冷めたような空気だけが残った。
ギルバートは苦笑して呟く。
「この私にも、振り向かせたくなる人がいるとはな……」
その呟きは雨音とともに空虚な室内に消えていった。
「さて…」
ギルバートはため息をつき、自分のコートを椅子の背もたれに放り投げた。
やりかけの仕事に戻る頃には、すでに空が白み始めていた。今日必要な書類をなんとか揃えると、一眠りしようと立ち上がった。
その後、家の主が束の間の休息を結局、ゲスト用のベッドでとることになったのは言うまでもない。
―――ギルバート・デュランダルが、”彼”とよく似た少年を庇護下に置くのはそれから
数年後のことである―――――。
〈END〉