◆ 8.
空は青く澄み、真綿のような白い雲が浮かんでいる。
谷を渡る風が林を揺らし、ザーッと大きな音を立てた。
朝食の後、山菜を摘みに行こうと瓏洸が三蔵を誘って、山の中へと入ってきていた。
誰も知らない穴場らしく、人が足を踏み入れていない場所からは山ほどの収穫があった。
「今日はこのくらいでいいだろう」
用意していた二つの籠がいっぱいになったので、瓏洸が作業の終りを告げた。
「疲れたか?」
「いや、大丈夫だ」
木々が発散するいい香りに包まれているからか、疲れさえも心地よく感じる。
三蔵は、いつもよりも動き回ったにも関わらず、清々しい気分でいた。
「なら、もう少し歩いても構わないか?」
「それはいいが……」
「おまえに見せたいものがある」
瓏洸の後を付いて行くと、木の根元一面に花が咲き乱れている場所が現れた。
見渡す限りの地表が一種類の花々に覆われている。
見事な景観に圧倒されたのか、三蔵はしばしその場を動けずにいた。
「…すごいな」
「胡蝶花(コチョウカ)だ」
三蔵はその名を聞いて、ハッとした顔で瓏洸を見上げた。
「それって……」
「おまえを見た時、この花のようだと思った」
「え………」
白をベースに黄色と紫が入り交じり、その姿は美しさ、艶やかさと共に、神秘さや芯の強さを感じさせる。
「俺の一番好きな花だ」
「瓏洸……」
隣に立ち、頭一つ高いところから見つめる双眸に吸い込まれそうになった。
手が頬に伸びてくる。
「好きだ」
突然の告白に、三蔵はうろたえてしまった。
戸惑いで揺れている紫暗の瞳を受けて、瓏洸は頬から離した手を肩にポンと置いた。
「すまん、ただ言いたかった……俺の我侭だな、許してくれ」
言うだけ言って背を向けた瓏洸の袖口を、三蔵は慌てて掴んだ。
「好意は…………迷惑では無い……」
「胡蝶!……」
声に恥じらいのようなものが含まれているのを感じ、瓏洸は振り向かずにそのままでいた。
「でも、俺は……」
「いい、わかっている」
その先を続けるのが辛そうな三蔵の気持ちを察し、瓏洸が優しい声で言った。
記憶が無い故に、自分との暮らしに根を下ろすことができないでいる三蔵。
その苦しさを、瓏洸は横で見ていて痛いほど感じていた。
ここでの生活は記憶が戻るまでの一時的なものだ。
自分とも、本来は行きずりの関係でしか無いだろう。
けれど、それでも吐き出してしまったこの熱い想い……。
それを拒絶することなく、むしろ容認してくれたような三蔵に対して、瓏洸は悦びが身体中から溢れそうだった。
袖口を掴んだままだった三蔵の手を、瓏洸がそっと握り締めた。
一瞬ぴくっと反応したが、逃げようとしない三蔵が嬉しかった。
「ありがとう」
三蔵は、礼など言われるようなことはしていないとばかりにぶんぶんと首を横に振っている。
そうしながら、胸の内の苦しさに耐えていた。
瓏洸のことは嫌いではない。
むしろ、何日かを共に過ごすうちに、次第に惹かれ、好ましくさえ思っていた。
この男に応えられれば、それはそれで幸せなのかもしれない。
けれど、以前の記憶を無くしたままでは先に進めない気もする。
自分は、何かを成し遂げなければならなかったはず……
それがわからない限り、瓏洸を本当に受け入れることはできない。
全ては、自分という存在を取り戻してから。
ただ、もうしばらくの間は…。
「帰ろう」 と三蔵が言った。
――俺達の家へ。
「ああ」 と瓏洸が答えた。
――おまえと一緒に。
家までの道程を歩き出しても、しばらくはどちらも、繋いだ手を離さなかった。
いつの間にか、太陽が黒い雲に隠れている。
遠くで微かに雷の音が聞こえた。