◆ 7.
「静かだな」
「ん?」
「静かな食卓だ」
朝食の時、三蔵は何故か小さな引っ掛かりを感じた。
食事というのは、こんなに静かに摂れるものだったか…。
「俺はいつもこんなだけどな」
「そうか」
ここへ来てから、この男とはたくさん会話をしているが、それは気を遣ってくれていたからだろう。
本来の瓏洸は、ひとり暮しのせいもあるだろうが、きっと寡黙な男なのではないかと三蔵は思った。
「嫌なのか?」
「そうじゃない。 ただ…」
三蔵が何か考え込むように目を伏せた。
「もしかしたら、記憶が戻りかけてるのかもな」
瓏洸はそれを喜ばしいことだと思っていると感じさせるように、わざと明るい声を出した。
「え?」
「以前のおまえは、もっと大勢で賑やかに食事してたんじゃないか?」
「そうだろうか…」
「家族か仲間に囲まれて、愉しい毎日だったんだよ、きっと」
「愉しい?」
さっきよりも眉間に皺が寄り、悩んでいる顔になった。
「おまえ、愉しいと思ったこと無いのか?」
――何だろう……その質問を受けるのは初めてでは無いような気がする……
何かを思い出しそうになって、三蔵は意識を自分の内側へと向けた。
しかし、いくら手を伸ばしても空気を掴むような感覚しかない。
三蔵が黙ってしまったのを見て、瓏洸はハッとした。
「あ、すまん! 以前のことを訊いても、お前が困るだけだったな…」
「いや、それは別に構わないが」
うろたえた瓏洸を労わるように、三蔵が口を開いた。
「ただ、愉しいというのが……よく…わからん」
「心が満たされて弾むような気持ちになることだ」
瓏洸の眼差しが優しく三蔵に注がれた。
「俺は、このところ毎日愉しいけどな」
瓏洸が心底嬉しそうな顔をした。
しかし三蔵は、ただ困惑するばかりだった。
瓏洸との生活は、穏やかで充実している。
いつもふたりで、よく喋り、よく笑い……。
――違う
どうしてだか、違和感が消えない。
この生活自体は “愉しい” と呼べるものだと思えるが、本当の自分が欲しているものでは無い気がする。
「あまり難しく考えるな。 な、胡蝶」
その呼び名も仮初めのものであるせいなのか。
夢を見ているような気分だ。
ここは、俺が見ている夢の中なのか?
それとも、誰かが見ている夢の中に俺が紛れこんでいるのだろうか?
また考え込む三蔵の横で、瓏洸も僅かに表情を曇らせ、テーブルの下で両手を組んで祈っていた。
記憶よ、戻るな!
…と、ただひたすら、それだけを。
ふと瓏洸を見た三蔵は、その顔から笑顔が消えているのに気付いた。
さっきの失言をまだ気にしているからなのか、と思い、咄嗟に瓏洸を喜ばせられるような言葉を捜した。
「この生活は、結構気に入っている」
三蔵がぼそっと呟くと、瓏洸が弾かれるように顔を上げた。
「それならいい」
瓏洸はいつものような微笑を三蔵に向けた。
それに応えるように、三蔵が小さく肯いた。
「さあ、冷めないうちに食っちまおう」
「ああ」
何も気にせずに過ごせる時間があとどのくらい残されているのか。
三蔵に見せている笑顔の裏で、瓏洸はそればかりを考えていた。