◆ 6.


三蔵が “胡蝶” と呼ばれるようになってから二日が過ぎた。
包帯が取れ、身体の調子が戻ってからは、慣れないながらも少しずつ瓏洸の仕事を手伝っている。
と言っても、家事も力仕事もほとんどこなせない三蔵は、猫の手よりはマシかという程度だったが。

瓏洸はほとんど自給自足の生活を送っている。
作ったり育てたりできない物は、畑で採った野菜を街まで下りて行って売り、そのお金で調達してきていた。

「たくさん採れたな」
「これで、美味いもんを作ってやる」

二人は畑で野菜の収穫をした後、川で手と顔を洗っていた。
山から流れてくる水は、冷たくて気持ちがいい。
まだ夏にはなっていなかったが、一働きすれば汗もかく。
澄んだ水でさっぱりした三蔵がタオルで顔を拭いていると、自分を見つめている視線に気付いた。

「本当に綺麗な色だな、おまえの瞳」
「え……」
「その髪も……綺麗だ」

綺麗だなんて女に使う言葉じゃないか、と思ったが、今の名前自体が男につけるものでは無いように思う。
記憶が無いとはいえ、それを受け入れている自分が今更そんなことで怒るのも可笑しい。
それよりも、自分に向けられているその穏やかで愛情深い眼差しを見ると文句が言えなくなった。

「腹が減った、帰るぞ」

三蔵はどんな顔をしていいかわからなくなったので、くるりと背を向けるとさっさと先に歩き出した。

「ああ」

瓏洸は微笑みながら籠を背負うと、ゆっくりと後を追った。

(誰にも渡したくない……)

日増しに強くなる想い。
自分が誰かに対してこんな風に思うなど、今まででは考えられないことだ。

山奥に居を構え、ずっとひとりで暮らしてきて、誰かと言葉を交わすことも稀だった。
そんな生活の中で、突然目の前に現われたひとりの青年。
たまたま麓まで下りて来ていた時、川岸に打ち上げられたように横たわっていたのを見つけた。
そして、息があるのを確認すると、すぐさま家へと運んだ。
どこかから流されてきたのだろうが、奇跡的に大きな外傷は無いようだった。
何とか自分で手当てできると判断し、近くの村人にも話さず匿うように家に置いた。

そんな行動に出たのは、青年の容姿のせいだったのか?
見つけた時は、自分の漆黒の髪とは正反対のような輝くばかりの金糸の髪に見惚れた。
それからよく顔を確かめると、整った顔立ちに胸が微かにときめいた。
閉じられた瞼の奥には、どんな色の瞳が隠されているのか。
闇夜のような自分の瞳とは違うはず、とその目が開かれるのを心待ちにしていた。
そして意識が戻った時、そうあって欲しいと想像していた美しい紫の瞳を前にして心が躍った。

もっとこの瞳を見ていたい、金の髪にそばに居て欲しい…。

一気に涌き上がってきた欲望は、かつて経験したことなど無いものだった。

だから…。

三蔵は、自分のことと、自分に関わる人や物事が思い出せないでいる。
だから、記憶を無くしているとわかった時、迷わず一緒に暮らしていくことを望んだ。

「瓏洸、どうかしたのか?」

既に家の前まできた三蔵が、まだ瓏洸が追い付かないのを見て首を傾げた。
歩幅の違いがあるせいか、並んで同じ調子で歩くと三蔵が置いて行かれそうになる。
遅れまいとしながらも、急いでいる様子は見せないように歩く三蔵。
そんな姿を眼の端に入れながら、瓏洸は微笑ましく思っていた。
まだおとなしくしているが、本当はきっと負けず嫌いな性格なんだろうな、と想像しながら。

「おう、いま行く」

手を上げて三蔵に返事した瓏洸は、自分を見ている愛しい人の元へと急いだ。
一歩一歩近づきながら、もっともっとこの青年のことを知りたいと思った。

川で見つけた時の、三蔵の本来の姿。
記憶が戻った後、三蔵があの姿でいるならば、自分のような人間はそばにいることもできないだろう。
住む世界が違う。
身分が違う。
会話もさせてもらえず、ましてや触れようとでもしようものなら、犯罪人扱いされるかもしれない。
多分、遠くから姿を見ることしか叶わなくなる……。

だから……。

誰にも邪魔されたくない、この、二人だけの生活。
おまえと言葉を交わすのは俺だけ。
おまえの瞳に映るのは俺だけ。
そして、おまえに触れるのも……。

「ただいま」

戸口でじっと待っていた三蔵に、瓏洸は当たり前のように言った。

「お…おかえり」

戸惑いながらも、三蔵が反射的に応える。
言った後、少しはにかむような顔をした。
次々と変化する三蔵の表情を、瓏洸は眩しいものでも見るように目を細めて眺めた。
が、いつまでも見ていたくとも、そういうわけにもいかない。

「さあ、メシだメシだ! おまえも手伝えよ」

気持ちを切り替えようと意識して声を弾ませて言うと、三蔵はコクンと頷いた。
横に並んで自分を見上げる美しい瞳を見て、瓏洸は突然湧き上がってきた衝動に突き動かされた。

(誰にも渡しはしない……!)

伸ばしてしまった手が頬に触れそうになったのをぐっとこらえ、目標を変えて金糸の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。

「何する!」

いきなり子供のような扱いをされて、三蔵は声を荒げた。
しかし、瓏洸は 「あははは」 と笑い声だけ響かせると、先に台所へと入っていった。
三蔵は瓏洸の行動が理解できずに憮然としていたが、腹が減っていたのを思い出すと、すぐに後を追った。



――恐れるのは、おまえの記憶が戻ってしまうことだけ……


* * *


ふと、三蔵が顔を上げ、辺りを見まわした。

「誰か呼んだか?」
「いいや、俺は呼んでないし、ここには他に誰もいないぞ」
「…そうか…」

夕食後に読んでいた新聞を膝に置くと、まだ疑問の残る顔で、三蔵は窓の外に目をやった。

「どうした?」
「誰かの声が聞こえたような気がしたんだが」

瓏洸は、三蔵の視線が外に誰かいないかと探しているようなのを、居た堪れない思いで見ていた。

「きっと、気のせいだ」

そっと肩に手を置き、意識を自分に向けさせる。
三蔵はゆっくりと振り返って瓏洸を見上げた。

「今日は疲れたろ? もう休もう」
「ああ」

三蔵が瓏洸の瞳を見つめ返して、ようやく瓏洸は落ち着いた。
そのまま肩を抱いて、何かから隠すようにしながら寝室へと促す。
もう何も聞こえなくなったのか、三蔵は素直に従った。

誰も、こいつを呼ばないでくれ!
誰もここへ来ないでくれ!

居間を出る時、一瞬、睨むように窓の外を見て、瓏洸は心の中で叫んでいた。



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