◆ 5.


「ん……」
「気がついたか!」

声がしてから、バタンと音がした。
と同時に、部屋に一気に差し込んでくる陽の光。

「眩し…」

顔に影を作るように思わずかざした白い手を、よく日に焼けたごつごつした手がそっと握った。
ベッドに横たわっている青年はまだ完全に覚醒していないのか、嫌がりもせず、されるに任せている。

「胡蝶……」
「……え?」

自分を凝視している男が呟いた言葉を耳にして、青年が不思議そうに見上げた。

「あ、いや……大丈夫か? どこか痛いところは無いか?」

黒い瞳が心配そうに覗き込んできたので身体に意識を向けてみたが、別に異状は感じられない。
大丈夫だという意味で、首を横に振った。

「良かった……」

言いながら、男は大きく安堵の息を吐いた。
白い手を両手で握り直して胸の辺りに抱え込み、目を閉じて、しばらく何かに祈るようにじっとそのまま動かない。
その様子を見ながら、青年が 「誰だろう?」 とぼんやり考えていると、黒い瞳が再び見つめてきた。

「俺の名は瓏洸」

そう名乗ったのは、精悍な顔つきで黒髪を短く刈り上げた、がっしりとした体格の20代半ばに見える男だった。

「ロウコウ…?」
「ここは俺の家だ。 今朝、川でおまえが倒れているのを見つけたから、ここまで運んできた」
「そうか…助けてくれたのか……」
「おまえ、名前は?」

え?……………

名前?
俺の…名前?

紫暗の瞳に、先ほどまでは無かった困惑の色が浮かんだ。

「今日は一日、ここでゆっくり寝ていればいい。 隣にいるから、何かあったらすぐに呼べよ」

混乱している様子を見て、ひとまず落ち着かせようと瓏洸は部屋を後にした。
ひとりになってから、青年は自分に問い掛けた。

「俺は………誰だ???」

声に出しても答えは出てこない。
眠って、次に目覚めれば思い出せるだろうか?
そんな淡い期待を抱きながら、三蔵は再び目を閉じた。


* * *


夕方近くになって瓏洸が食事を運んできた時、三蔵は既に目を覚まし、ベッドに半身を起こしていた。

「どうだ、気分は?」
「何も思い出せない……」

金糸の髪が、左右に揺れた。

「そう焦るなって。 何があったかは知らないが、まだショックが続いているんだろう。 落ち着けばきっと大丈夫さ」
「そうだろうか…」

三蔵の口から弱々しい声が漏れた。

「今はまず、身体を回復させないとな。 スープを作ったから、食欲があるなら少しでも腹に入れた方がいい」

運ばれた皿からは、いい匂いが漂ってきている。
瓏洸の言うことも尤もだと思った三蔵は、素直に従うことにした。
色とりどりの野菜が煮込まれたスープをスプーンで一口飲んでみると、すっと喉を通る。
ごくんと飲み込んだあとには、口いっぱいに旨みが広がった。

「美味い……」
「それは良かった、まだたくさんあるからな。 食事が終わったら、後で包帯を替えよう」
「…ありがとう」

礼を言いながら、それはどこかよそよそしい言い慣れない言葉のようだ、と三蔵は思った。


* * *


「おはよう! 入るぞ」

瓏洸がノックしながら声を掛けてドアを開けると、起き出してベッドから出ていた三蔵が着替えている最中だった。

「起きて大丈夫か?」

向かい合って立ってみて、瓏洸が自分よりも頭ひとつ背が高く、身体も一回りは大きいのだと三蔵は知った。

「これはおまえのか?」

三蔵は、今、着たばかりの服を指差しながら訊ねた。
寝かされていた時に着ていた寝巻きもそうだが、ベッドの横にあった大きな服はサイズが合わない。
自分のでは無いだろうと思ったが他には何も見当たらない。
それで、取り敢えず置かれてある物に袖を通したところだった。

「ああ、俺のだ。 おまえにと用意しておいた服だから着てくれて構わないが……」
「では、借りていく」
「え?」
「世話になった」

袖や裾を折り返しながら淡々と告げた三蔵の言葉に瓏洸は焦った。

「出て行くのか?!」
「ここに居る訳にはいかない」
「…何か思い出したのか?」
「いや…まだ何も…」

三蔵の動きが止まった。
記憶を手繰り寄せようとしても何も引っ掛かってこない。
正直なところ、自分でもこの先、どうしていいかわからなかった。
ただ、他人のようなこの家の住人に、これ以上の厄介事は迷惑だろうと考え、出て行くことだけを考えていた。

「それなら、記憶が戻るまでこの家に居ればいい」
「そんなことは…」

当然のように瓏洸が言ったが、それは三蔵にとっては思い掛けない申し出だった。

「俺なら一向に構わない。 むしろ…おまえに居て欲しい」
「何故…?」
「ずっとひとりだったからかな……誰かとこうして居られることが嬉しくて……」
「え……」
「おまえの世話を焼くことで、こんなにも生活に張りが出るのかと自分で驚いている」

少し照れくさそうに瓏洸が笑った。

「瓏洸……」
「戻るべきところを思い出したら、気持ち良く送り出してやるさ。 それまでは、ここで俺と暮らさないか?」
「本当に…いいのか?」
「ああ、もちろん」

目の前の男が、自分にとって安全なのかそうでないのか。
敵か、味方か。
そんなことを一瞬のうちに考えたが、実際に目にしている微笑みは信じられるような気がした。

「なら……また世話になる……」
「そう堅苦しくなるな! これからしばらくは家族も同然なんだから」
「家族……?」

三蔵には、その言葉から連想されるものが何も浮かんでこなかった。
俺に家族がいたのだろうか……?
思考の深みに嵌りそうになった三蔵を、瓏洸の明るい声が呼び戻した。

「…となったら、名前が必要だな」
「え?」
「ずっと “おまえ” と呼ぶのもな…だから、ここにいる間だけの呼び名をつけないか?」
「呼び名……あ、あの時、何か言っていたな」
「いつ?」
「俺が目を覚ました時、俺を何かの名前で呼んだだろう?」
「…聞こえていたか」

瓏洸が微かに頬を染めた。

「何て言ったんだ?」
「胡蝶」
「こちょう、か」
「それで……いいか?」
「呼ばれてもすぐに自分だとは気付かないかもしれないが…」
「ははは、そのうち慣れるだろう」
「なら、構わない」
「胡蝶」
「瓏洸」

確かめるように、お互いの名を呼んだ。

「改めて、よろしくな」

瓏洸が右手を差し出した。

「よろ…しく」

嬉しさで満ちている黒い瞳を見つめたまま、三蔵はまだ躊躇いがちにその手を握り返した。



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