◆ 3.


何日かの野宿の後、やっと次の街に辿り着いた今夜は、三蔵と悟浄が同室になった。

「なあ、賭けしねえ?」
「またか、もう何度目だ、懲りねぇ奴だな」
「いいだろ〜」
「おまえのおかげで煙草ならまだ充分に足りている」
「嫌味か、そりゃ……んじゃ、違うモンにしようぜ」
「今度は何だ?」
「俺が勝ったら……」
「ん?」
「おまえの唇をいただく」
「はあ?!」
「そっちが勝ったら、俺を好きにしていい」
「…殺してもいいってことか」
「アンタがそれを望むならな」

悟浄の眼差しは真剣そのものだった。
しかし、こんな遊びに命を賭けるなんて正気の沙汰ではない。
溜め息をひとつ吐いて、三蔵はやれやれといった風に首を振った。

「何だよ、逃げる気?」

悟浄の冷たい声が三蔵に突き刺さる。
ばかばかしいと言って終わらそうと思ったが、今の一言はカチンときた。

「おまえが言い出したことだからな」

全戦全勝という今までの戦績から言って、悟浄の負けは目に見えているも同然。
それでもなお挑み、更に真剣勝負と来たってのか。
てめぇが本気なら、こっちも本気で相手するまで。
と、三蔵は口元を引き締めて、読んでいた新聞を脇にどけた。

「いくぜ」
「ああ」

弾かれて落ちてきたコインが、悟浄の手の甲に吸い込まれるように隠された。

「裏」

どちらかと訊かれる前に、三蔵が答えた。
悟浄がゆっくりと手をずらせる。
現われたコインは、表を見せていた。

「悪ぃな」
「チッ!」

三蔵の顔が、苦虫を噛み潰したように歪んでいく。
今更ながらに、何故こんな賭けにのってしまったのかと自分を責めるが、受けた以上は仕方が無い。

――どいつもこいつも、どうして俺にこんな嫌がらせをしやがる……!

あの日のことは、自分の中では無かったこととして処理していた。
いつまでも引き摺るなんてことしてやりたくねえ、と思って…。

「さっさと終わらせろ」

自分に近づいてくる悟浄を睨みつけながら、三蔵は椅子から立ちあがった。
まだ少し距離があるところから伸びてきた手に怯まないように構えると、かけていた眼鏡が外されていく。

「これ、邪魔」

テーブルに置かれた眼鏡にやった視線を悟浄に戻した時、不意に視界を塞がれた。
大きな手が、三蔵の目を覆っている。

「何の真似だ」
「そんなに睨まれてちゃ、やりにくいだろ」

ギリギリと奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうなほど、三蔵は歯を食い縛った。

「もっと気楽にいこうぜ」

腰に手が廻され、引き寄せられた。
三蔵の全身が強張る。

軽く、二人の唇が触れた。
その時、三蔵の身体から伝わってきたのは、怒りだけではない震え。

――おまえ、もしかして……?

悟浄は、優しく、とにかく優しく、三蔵の顔に唇を落としていった。

「今は、俺だけを感じろ」

囁く声を耳に受けながらも、三蔵の脳裏には過去の場面が甦っていた。

寺でのあの日…。
先輩にあたる僧達に殴られ、蹴り上げられ、散々痛めつけられた後にされた行為。
それは、接吻などとは呼べない蹂躙でしかなく。
助けなど最初から呼ぶつもりは無かった。
ただ、こんなことはそのうち終わる、我慢さえしていればいつか終わると、それだけを思って。
身体を弄る何本もの手。
穴という穴にいろんな物を突っ込まれた感覚。
命を奪われないのなら、身体に起こったことなど無かったことにしてしまえばそれでいい。
そして、いつもと変わらぬ顔で、あの方のところに戻ろう……。

あの出来事は、今まで特に思い出しもしなかった。

なのに……。

物では無く自分を求められた時は、こいつもあの時の奴等と同じか、と思った。
命を賭けるとまで言ったので、ついその酔狂に付き合う気になってしまったのが間違いだったのか。

だが、実際その唇を身に受けて、三蔵の中に戸惑いが生じていた。
触れてくる感触が、記憶の中のものとは違う…。

――これは、何なんだ?

ふっと、身体の力が抜けた。
瞼を覆っていた手が、ゆっくりと外される。
三蔵が目を開けると、すぐ近くに紅い瞳があった。

「本物の味ってやつを教えてやるよ」

頬に添えられた手が、少し上を向くように促した。
再び下りてくる唇。
触れた途端、そのくちづけは熱く激しいものとなった。
僅かな隙間から入り込んで来た舌が、口腔内をくまなく探っていく。

どうしていいかわからず、ぎゅっと目を瞑って咄嗟に悟浄の腕を掴んだ三蔵の手にも力が入った。
引き剥がそうとしているのか、それとも、縋っているのか……。

誘い出された舌が吸われ、裏までも舐められ、くすぐったさに背筋が震えた。
反応している三蔵の身体を、悟浄が更に抱き寄せる。
その分、また深くなるくちづけ。

息もできないほどに求められ、三蔵は頭の芯がくらくらとしてきた。
がくっと膝が折れたが、悟浄が抱えていたので倒れ込まずに済んだ。
体勢を崩したことで、ようやく唇が開放された。

「どう?」

離れた直後に悟浄が問うたが、三蔵はすぐには答えられないでいる。
しばらくは悟浄の肩に頭を載せながら、酸素を求めるようにハアハアと喘いでいた。

「何…しやがった……」
「言っただろ? これが本当のキス」
「おまえは…いつもこんなことをしているのか?」
「本気になった相手にはね」
「これはただの賭けだろっ!!」

三蔵が突き放すように腕を突っ張っろうとした。
けれど、悟浄の腕からは逃れられない。

「だ〜め、おまえサンまだふらふらしてるんだから」

その腕が、微かに震えている三蔵の身体を、包み込むように抱き締めた。

「泣きたいなら、このまま胸を貸すぜ」
「要らんっ…」

口では強がっていても、身体はまだ預けたままでいる。
素直じゃない相手の場合、真っ直ぐに言ったところで反発するだけ。
悟浄はそれ以上は何も言わずに、そっと三蔵の髪に唇を寄せた。

さきほど受けたくちづけとはまた違う、ぞくぞくした感覚が三蔵の身体を走り抜けた。
その瞬間、三蔵は自分に廻されていた手を振り切り、悟浄から飛び退いた。

「もう復活? 残念」
「次の賭けでは必ず勝つ」
「また挑戦してくれんの?」
「勝って、おまえを殺す!」
「そりゃ楽しみ」

悟浄はニヤリと笑って見せたが、まだ全身を緊張させている三蔵に背を向けると、ふっと真顔に戻った。

(おまえが素直に涙を見せられる相手は、どこにいるんだろうな……)

それが自分であればいいのにと思うと、胸の奥底から熱いものが湧き上がってくるように感じた。
が、その熱いものが身体全体を満たす前に、とあることに思い至り、

「あ!」

と思わず声が出た。

「何だ?」

三蔵の問い掛けに振り返った悟浄が、嬉しそうな顔をしている。

「これからは “間接チューした仲” じゃなくて、正真正銘 “チューした仲♪” になるんだな」
「言うなっ!!!!!」

ガウン!ガウンッ!!


* * *


「今、何か聞こえなかった?」

隣の部屋から銃声が聞こえたような気がして、悟空が寝そべったままベッドの中からそちらの壁に目をやった。

「また悟浄が三蔵を怒らせたんでしょう」

苦笑しながら、八戒が電気を消しに立った。
こちらの二人は、すっかり眠る用意が整っている。

「そのうち当たるよね、あれ」
「気をつけましょうね、悟空も」
「うん!……悟浄、ちゃんと避けたかな?」
「さあ、どうでしょうね」

にっこり笑って、八戒がパチンとスイッチを切った。

「朝になってみればわかりますよ」
「そうだな」
「部屋に弾痕が残っていたら、宿のご主人に謝っておかなければいけませんね〜」
「八戒、また仕事が増えたな」
「まあ、いつもの事ですから」

そう言いながら、八戒は自分のベッドに潜った。

「明日もいい一日でありますように」
「うん!」
「おやすみなさい、悟空」
「おやすみ〜!」


不条理も、慣れてしまえばいつもの一コマ。



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