◆ ２．
まだ日のあるうちに宿に辿りつけた四人は、久しぶりに落ち着いた午後を過ごしている。
この街を出るとしばらくはひたすら走り続ける日になりそうなので、ここで十分に英気を養っておこうとしていた。
「んじゃ、行って来るっ！！」
「留守を頼みますね」
荷物を解いてから、八戒と悟空は次の出発に向けての買い物に出掛けた。
あれを食いたい、あの食べ物はあるだろうか、と賑やかな悟空の声が、通りに出てからも聞こえている。
「やっとうるせーのがいなくなったな」
「もう一人残っているが」
「あ？」
「チッ」
部屋にいるのは、八戒に留守番を言い渡された二人。
今夜の部屋割りは、三蔵と八戒、悟浄と悟空という組み合わせに決まった。
しかし、悟浄が一人で部屋でじっとしているはずもなく、勝手に三蔵の部屋へ押し掛けて来ている。
と言うものの、取り立てて何もせずにだらだらしながら、ただひたすら煙草の吸殻を増やしては時間を潰していた。
「なあ」
空いていたベッドに寝転んでいた悟浄が、窓際の椅子に腰掛けている三蔵に顔だけ向けた。
「おまえ、誰かと肌を合わせたことってあんの？」
唐突に投げかけられた質問の内容に、三蔵は眉間に皺を寄せた。
「答える必要はないな」
「まあ、そうだけどよ」
「……何故そんなことを訊く？」
訝しげに問うと、悟浄は 「別に」 と答えながら身体を起こしてベッドに腰掛けた。
「もしも無いなら、経験しておいた方がいいんじゃないかと思っただけ」
「はあ？」
「だって、人生愉しまなきゃ損でしょ？」
「愉しむだと？」
――ケッ、あんなことのどこが愉しみと繋がるってんだ！
「あれ？ 三蔵サマは愉しいと思ったことって無いの？」
苦い顔をしている三蔵には気付かずに悟浄が続けた。
愉しい……三蔵は、そんな言葉は自分とは無関係だと思っていた。
己の嗜欲で求めてしている事は、別にたいして愉しいとも思わない。
人生においての愉しみ、自分にとってそんなものがあるのだろうか？
それは、必要なことなのだろうか？
例えば悟空なら、食べることが愉しみなのだろう。
悟浄なら、女を抱くことか。
八戒なら 「僕は、この四人でいられることが愉しいんです」 と、穏やかに微笑むのだろうか。
「せっかく生きてんだからさ、頑張ってる自分を愉しませてあげることもたまには必要じゃない」
「……」
立ちあがって伸びをしながら言った悟浄を三蔵がじっと見ていると、紅い瞳がその視線を捉え、ウインクで返した。
「ま、俺で良ければいつでもお相手するぜ」
「何でそうなる？」
紫暗の瞳が睨み返す。
「もしも初めてだったら、経験豊富な俺みたいな方がいいだろ？」
「断る」
「またまたあ、照れちゃって」
近づいてきた悟浄の腕が三蔵の首に巻き付いてきた。
「馴れ馴れしくするなっ」
「優しくしてやるから」
耳元で囁かれた途端、弾かれたようにその腕を振り払うと、懐に手を伸ばした。
「貴様、死にてぇのか？」
悟浄の額を三蔵の小銃が狙っている。
ガチャと撃鉄が上がる音がした。
「おい待てって！ …ったく短気なんだから」
「ふんっ」
一見、強気な三蔵だったが、通常ならピタリと狙いを外さない銃口が僅かに揺れているようだ。
悟浄の頭に疑問が浮かんだ。
動揺してたのか？
…って、何に？
本人は自覚が無かったのか、悟浄がおとなしくなったのを見ると、さっさと銃を下ろしてしまった。
また椅子に腰掛け、テーブルにあった新聞を手に取ると、いつものように仏頂面で読み始めている。
悟浄は、さっきの会話の中の何が三蔵を無意識のうちに反応させたのかと考えていた。
触れてはいけない部分を探り当ててしまったのだろうと思い至ったが、それが何なのかわからない。
もっと慎重にいくか？
それとも、もっと大胆に攻めてみるか？
ポケットの中のコインを手で確かめながら、悟浄は次の賭けをどうしようかと策をめぐらせていた。
* * *
「俺はつまらなそうか？」
夕食が終わってそれぞれ部屋に引き上げたあと、八戒が淹れたコーヒーを飲みながら三蔵がぼそっと呟いた。
「そうですね…もっと笑顔が見たいな、と思うことはありますけどね」
「笑顔………」
「でも、ニコニコしている三蔵ってのも、かえって気持ち悪いかな〜、なんて」
何を思い煩っているのかと八戒は少し気になったが、敢えて明るく振る舞った。
「あのなあ」
「冗談ですよ。 まあ、できるだけ穏やかな顔でいてくれれば、僕も嬉しいですが」
辛そうな表情は、旅が始まってそれほど経っていないこの短い間でも十分に見てしまったから。
綺麗な顔が勿体無い、と八戒は心の中でよく嘆いていた。
「うるさい奴等がいなくて、煩わしいことが何も無ければな」
「この旅の間は無理ってことですか」
「そういうことになるな」
西を目指すこの旅が過酷なものであることは八戒にも十分過ぎるほどわかっている。
けれど、四六時中ピリピリしているわけでも無いということも、実際に行動してみてわかった。
「でも」
「ん？」
「今ならいいでしょう」
「…？」
「僕はうるさくしたりしませんし、今夜は取り立てて煩わしいことも無し」
「ひとりがいいと言ったら」
「残念です、僕の存在さえも三蔵の邪魔をしているなら」
心底落胆したように、八戒が項垂れた。
それを見た三蔵は、別に悪いことをしたわけでもないのに、居心地の悪さを感じさせられた。
今に限って言えば、本当はそれほどひとりの時間を欲していたわけではない。
ただ、笑顔だとか穏やかな顔だとか言われてもどうしていいかわからず困惑していただけだった。
だから、八戒の機嫌を取ろうなどとは思っていないが、できるだけ怒った声にならないようにしながら口を開いた。
「何も要求しねぇなら別に居ても構わん」
「ありがとうございます」
顔を上げた八戒は、いつも以上の微笑みを三蔵に向けている。
「何だ、その顔は」
「三蔵の分も、僕が笑顔でいることにします」
「……勝手にしろ」
貴様の考えていることはよくわからんと首を傾げながら、三蔵は新聞に目を戻した。