◆ 15.
「俺を呼んでいたのは…おまえだったのか?」
地震に遭ってからの記憶が抜け落ちていたが、誰かが自分を呼ぶ声が耳の奥で聞こえていたのは覚えていた。
「それはあの猿の仕事っしょ」
三蔵の心に届いた声は、多分自分では無いだろうと悟浄は思っている。
悟空が食事するのも忘れるくらい、一所懸命に三蔵を呼び続けていたことを知っているから。
誰も割り込めない三蔵と悟空の結びつきがあることは、悟浄も納得している。
今回は、そんなことは関係無く、自分もずっと三蔵の名を呼んでいた。
けれど、頑張っても叶わないことがある、と思うと、一抹の寂しさを感じてしまうのは禁じ得ない。
そんな自分の想いに気付かれないように、悟浄は三蔵から目を逸らして長く紫煙を吐き出した。
「でも、思い出せたのはおまえのおかげだ…」
俯いたままボソッと呟いた三蔵の頬が、薄っすらと色づいている。
「え、何? 悪ぃ、あいつらが煩くて聞こえなかった」
隣で悟空が騒いでいる声がこちらの部屋まで筒抜けだった。
「ったく、飼い主が帰ってきた途端、あのはしゃぎようだよ。 尻尾なんか振りちぎれるって。 …で、何だって?」
「……くだらねぇ掛けの決着をまだつけてないってことを思い出しただけだ」
「ほお〜」
悟浄がニヤリと笑った。
「いつでもお相手するぜ、賭けでもSEXでも」
「何でそうなるっ!!」
ウインクして見せると、勢いよくハリセンが飛んできた。
(くうーーーっ! これこれ〜!!)
久しぶりに聞く軽快な音に三蔵の復活を確信した悟浄は、叩かれた頭を擦りながらも嬉しくて仕方がなかった。
* * *
記憶を無くしていた間に一緒にいた男のことを、悟浄と八戒は三蔵に言えずにいた。
山の中を探していたら、一軒家で妖怪に襲われている三蔵を見つけた、としか説明していない。
三蔵はそんな説明を頭から鵜呑みにしていたわけでは無いが、自分の中を探っても何も出て来ない。
二人にそれ以上の説明を求めるのは無理のようだし、悟空は元から何も知らなかった。
今、こうして生きているのだからそれでいいか、とも思った。
ただ、何か大事なことを忘れているような感覚だけがずっと付き纏ってくる。
大事なこと…?
大事な、人……?
ぽっかりと心に穴が開いたような感じが消えない。
それでも、旅を中断させるわけにはいかない。
翌朝、早々に宿をチェックアウトさせると、三蔵は真っ先にジープに乗り込んだ。
* * *
川沿いの道を走っていた時、何気なく周りを見た三蔵の意識に何かが引っ掛かった。
「止めろ」
「えっ!…は、はい」
八戒にジープを急停止させると、三蔵はひとり車を降りて、道に木陰を作っていた林へと入っていく。
踏み込んだそこには、一面に、とまではいかないが、奥の方まで花が咲いていた。
「これは…何ていう……」
「シャガですね」
追い付いた八戒が後ろから答えたと同時に、サーッと風が吹いた。
木々がざわめき、花々が踊った。
三蔵の髪が、木漏れ日を浴びてキラキラと揺れた。
『俺の一番好きな花だ』
三蔵の耳の奥で、誰かの声が聞こえたような気がした。
「そんな名前だったか…」
どこで見たのか、どこで名前を聞いたのか、誰に教えてもらったのか、思い出そうとしても無駄なようだった。
「僕、好きです、この花」
貴方のようで、と言い掛けた言葉を飲み込み、八戒はただ静かに微笑んだ。
慎重派の自分は、変化を期待するよりも現状維持を願っている。
――このまま、終わりが来る時までずっと、貴方のそばにいられれば……
どこか思い詰めたように花を見はじめた八戒には構わず、三蔵は手前に咲いていた一本を手折った。
そのまま、手の中の花をじっと見つめている。
が、ふと顔を上げると、川辺まで戻り、手折った花を放り投げた。
「何、ガラでもねぇことしてんだ?」
近くにいた悟浄が煙草をふかしながら訊く。
「別に」
――ただ、何となくそうしたかっただけ……
懐を探り煙草を取り出すと、横からライターが差し出された。
三蔵は黙ってその火を貰った。
「綺麗な花だったな」
「……そうだな」
二人は水面(みなも)を眺めながら、吸い込んだ煙をゆっくり吐き出した。
後ろでは、ジープがエンジン音を響かせている。
八戒は既に運転席に座り、ハンドルを握っていた。
次の宿のある街までは、あと二日ほどかかりそうだった。
せっかくの心洗われるような美しい景色は、できることならもっと堪能したい。
けれど、少しでも早目に動いた方が後々楽だろうと、八戒はいつでも出発できるようにスタンバイしていた。
先に煙草を吸い終わった悟浄がジープに戻ってきた。
乗り込む時、チラと八戒を覗うと、深緑の瞳が微かに頷き返した。
「三蔵、何だったの?」
ひとり蚊帳の外だった悟空が横に座った悟浄に尋ねる。
「お子様には関係ねぇの」
しらっとした調子での答えが悟空を満足させる筈も無く。
「何だよ、教えてくれてもいいじゃんかよ!」
「うるせえ、喚くな、このサル!」
「サルって言うなー!!」
久しぶりに後部座席での喧嘩が始まった。
――これが無いと、僕らの旅は始まりませんね
いつもなら苦笑する八戒も、今日ばかりは微笑ましく思って二人の言い合いを聞いていた。
「そろそろ行きますよ」
流れていく花を見送っていた三蔵に声を掛けると、後姿を見せたまま 「ああ」 と声が返ってきた。
四人が去った後、林の奥では、黒い揚羽蝶が一頭、ゆらゆらと胡蝶花の間を飛んでいた。