◆ 13.
目の前で起こった惨劇に、三蔵はしばし呆然としていた。
いきなり、何がどうなったのか…。
自分たちは、平和な暮らしをしていたはずではなかったのか……。
動かなくなった男を妖怪が足で蹴飛ばすと、物のように転がっていった。
「……やめろ……」
三蔵は崩れるように床に座り込んでいたが、変わり果てた瓏洸の姿が目に入ると、喉の奥から声が出た。
――瓏洸を、これ以上……
小刻みに震える身体を自分の腕で抱き締めるようにしながらも、三蔵は気丈に妖怪に顔を向けた。
「瓏洸に…触るな……」
「ふふっ」
妖怪が嫌らしい笑みを浮かべた。
「なら、おまえを触ってやろう」
ゆっくりと近づいてくる何本もの手を見て、三蔵は咄嗟に逃げようと立ちあがった。
しかし、後ずさりした先は寝室で、三蔵は逃げ場を失った。
「どこへ行こうと言うのかな?」
部屋に入ってきた妖怪に、三蔵は手当たり次第にそこらにあるものを投げつけたが、全てかわされてしまった。
「もう終わり?」
長い腕が伸びてきて、三蔵の顎を掴んだ。
身の毛がよだつほどの気持ち悪さに、三蔵はその手を振り払った。
「往生際が悪いな」
言うや否や、違う手が三蔵の頬を殴った。
倒れまいと踏ん張った足を、また違う手が掴み、そのまま引き倒す。
横向けに床に転がった三蔵の腹を、妖怪が蹴り上げた。
「ぐはっ!……」
一本の手が、頭を抱え込んで丸くなった三蔵の髪の毛を鷲掴みにして、無理やり起こす。
「素直に言うことを聞く気になったか?」
近づいてきた醜い顔に恐怖が湧いたが、三蔵は勇気を振り絞った。
「嫌だ」
顔面に、また拳が入った。
切れた唇の端から、一筋の血が流れる。
「くっ……」
首を絞められ、意識が薄れてきた。
長い腕が力を失った身体に絡みつく。
抵抗も空しく、三蔵は妖怪の手に落ちてしまった。
* * *
三蔵は、後ろ手に縛られ、足首も縛られて、寝室のベッドに転がされていた。
「きっちりと隠しているのもそそられるが」
妖怪の手が三蔵の襟を掴んで起こした。
壁に上体を凭せ掛け、ニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
次の瞬間、首元に掛けた手を勢いよく下ろすと、ビリッとアンダーシャツが引き裂かれた。
「!!」
「ほお、綺麗な肌だ」
三蔵の露わになった胸元を、何本もの手が撫でていく。
まだ瞳の焦点が合わないが微かに息を漏らした三蔵に、男は舌なめずりした。
「先ずは味見から」
薄く開いている三蔵の口元を目掛けて、ぶつかるように唇が押し当てられた。
さきほど切れたところが痛い。
けれど三蔵は、自分の身に起こっていることを、どこか他人事のように感じていた。
何だこれは…?
痛いだけ、気持ち悪いだけ。
嫌な接吻……こんなことは、前にもあった。
確か、忘れてしまえと自分に言い聞かせたんだ。
でも……
嫌じゃないくちづけも、俺は知っている……。
俺に優しく触れ、怖がらせないようにと気遣うようだった唇。
熱く自分を求めた、あれは……。
あれは、黒い髪と黒い瞳の瓏洸………いや違う、あれは……紅い髪と紅い瞳………………?
曖昧だったものが、脳裡に像として結ばれそうになった。
その時、ドアを蹴破って悟浄が飛び込んできた。
そこで目にしたのは、地震の時に三蔵と共に谷底へ落ちたはずの妖怪だった。
三蔵を夢中で嬲っているその後ろ姿に向かって、悟浄は錫杖を振り上げながら突進した。
「てめぇっ、ぶっ殺す!!」
突然の侵入者に驚いて振り返った途端、妖怪は足蹴りにされ、三蔵から引き離された。
体勢を立て直す間もなく、鋭い鎌により切断された首が胴体から飛んでいく。
悟浄が更に錫杖を振り下ろすと、身体も複数の腕もバラバラになった。
再び三蔵の周囲が血に染まる。
不意に凌辱が終わったのを感じて目を開けたが、そこで見たのはおぞましい光景だった。
「あ…あ……」
飛び散る肉片を目の当たりにして、三蔵はパニックに陥りかけた。
三蔵の視界が赤い色に覆われている。
けれどその中に、血によるものではない紅い色があるのを見つけた。
ガウンッ!!
と、一発の銃声が響いた。
銃口が向けられた先には、額が撃ち抜かれていた妖怪の頭部が転がっていた。
大きな音に驚いたままでいる三蔵に、悟浄は握っていた小銃を上げて見せる。
「預り物」
その銃には見覚えがあった。
それを持っている男にも。
そして……その男の唇も。
胸の奥でキュッと痛みを感じた瞬間、軽い頭痛がした。
三蔵は、自分が誰だったかを思い出した。
――俺は……玄奘…三蔵………
「三蔵! 三蔵っ!!」
気を失う寸前に耳に届いた、悟浄が自分の名を呼ぶ声を、三蔵は心のどこかで懐かしく感じていた。