◆ 10.
その夜、空を割るような雷鳴が轟き、辺りに響き渡ると、いきなり大粒の雨が降ってきた。
「この間、大きな地震があったから、地盤が緩んでいるところがあるかもしれない」
家の裏には山が迫っているので、危険な箇所が無いかどうか確認に行こうと、瓏洸は雨具を着込んだ。
「おまえは家の中にいるんだぞ」
「瓏洸…」
「すぐ戻るから!」
瓏洸が出て行ってからずっと、三蔵は心細さを感じていた。
さっきから、どうも落ち着かない。
正確には、雨が激しくなってからだ。
恐怖・絶望・哀しみ……
根拠の無いそれらの感情が三蔵を襲っていた。
嫌だ、雨は嫌だ!
早く戻ってきてくれ、瓏洸!!
と、突然、外で大きな音がした。
「?!」
椅子の上で膝を抱えて丸くなっていた三蔵の耳に、何かがぶつかったような激しい物音が飛び込んで来た。
「瓏洸っ!!」
慌てて飛び出そうとしたところへ、丁度、外から扉が開いた。
三蔵が立ち止まると、そこに立っていたのは、ずぶ濡れになってこめかみから血を流している瓏洸だった。
「あ…ああっ……」
突然、ガクガクと痙攣したように震えだし倒れそうになった三蔵を、瓏洸が抱き留めた。
「胡蝶、どうした!」
「血……」
虚ろな目で瓏洸の頭に手を伸ばし、流れている血に触れた途端、三蔵の脳裏に何かが映った。
雨の夜……
血塗れの……あれは………
「嫌だ……嫌だーーーっ!!」
「胡蝶、落ち着け!」
絶叫している三蔵を力強く抱き締めるが、その身体は暴れるのを止めない。
「胡蝶っ!!」
咄嗟に瓏洸は三蔵の手首を掴み、わななく唇を自分の唇で塞いだ。
「!……」
動きを止めた三蔵の頭を瓏洸が自分の胸に抱き寄せた。
「大丈夫だから」
金糸の髪を優しく撫でながら耳元で囁くと、三蔵の身体から力が抜けていった。
「瓏…洸……」
顔を上げた三蔵が、今、初めて気付いたかのように頭部の傷を見た。
いくらか髪の雫に流されたが、まだ血が流れている。
「怪我したのか?」
「俺は大丈夫、飛んできた木が当たっただけだから」
「血が……」
「平気だ」
瓏洸は首に巻いていたタオルを引き出すと、痛みを感じる箇所に当て、心配させまいと笑顔を見せた。
「本当に…?」
「ああ、大丈夫 」
「良かった……」
しがみ付くようにして自分の胸に顔を埋める三蔵を、瓏洸は細い身体がきしむほど強く抱き寄せた。
その苦しみが何であれ、この腕の中の存在は守り続ける、と心の中で固く誓いながら。
* * *
深夜になって、雨は止んだ。
集中的な豪雨だったが二次災害は起きなかったようで、瓏洸は家の廻りを点検するとすぐに戻ってきた。
「問題無し」
「ああ…」
居間で待っていた三蔵の視線が額の包帯に注がれている。
「心配するな。 こんな怪我、山で暮らしていればいつものことだから」
「瓏洸……」
初めて見せる縋るような三蔵の表情に、瓏洸は吸い寄せられた。
「どうした?」
そっと頬に手を添えると、紫暗の瞳が潤んで揺れた。
「胡蝶……そんな顔、しないでくれ……」
「え…?」
瓏洸が僅かに眉根を寄せた。
どこか辛そうな表情を、三蔵は痛みのせいかと勘違いした。
「痛むのか?」
「違う…」
ただ心配して真っ直ぐに自分を見つめる三蔵に、瓏洸は苦笑を漏らした。
「そんな顔をされると……おまえが欲しくなる」
「!!」
思い詰めたような眼差しが居た堪れずに、その場を去ろうとした三蔵の身体を、瓏洸が後ろから抱き締めた。
「胡蝶…」
吐息が三蔵の首筋を撫でる。
三蔵の身体を、ぞくりと何かが駆け抜けた。
「すまん、少しでいいからこうさせてくれ……」
瓏洸から微かに震えが伝わってきた。
三蔵も、背中に感じる温もりからは離れ難く思っていた。
「俺は……おまえには応えられない」
「……ああ、わかっている」
「でも」
「ん?」
三蔵の手が、自分の胸に廻されている瓏洸の腕にそっと添えられた。
「今夜は一緒にいたい」
「胡蝶!」
驚いた瓏洸の腕から、するりと三蔵が抜け出した。
「ベッドの半分、空けておく」
背を向けたままそれだけ言うと、三蔵は逃げるように寝室へ飛び込んだ。