『死神』

パトリック・ザラ×クルーゼ
小説 恣音 様

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 その唇の柔らかさは、やはり女のものではない。



 弾力のある、硬いゼリーといったところか。それが吸いつくように首筋をはみ、歯を立てている。

いとしすぎて、執拗と言えるほどに、濃厚になっているような愛撫だ。

しかし、そこに情愛はない。あるのは肥大した征服欲と、歪んだ性欲だけだ。



ラウはかすかに眉根を寄せて、薄く口唇を開いていた。前歯が隠れ見えているその隙間からは、細く糸を引くような声が洩れ出している。



皮膚に強く、歯が喰い込んで来る度に、痛みが頭頂に駆け上がる。悦楽の園に迷い込んでいた意識を、ほの明るい寝室に引き戻す。ラウは息を止める。そしてまた、唇がいたぶるような優しさで、首をなぞり始める。



パトリック・ザラは上着の前をはだけた、半裸だった。それに対して、ラウはすべての衣服を剥ぎ取られている。

ラウとふた周り近く、歳の離れているこの男は、いつもそうだ。まずラウだけを全裸にして、無防備にさせる。



自分は支配する者で、ラウはされる者──その力関係を、はっきりと二人の間に顕示するためだ。ラウの身体が完全にパトリックに恭順させられた頃に、ようやく彼は服を脱ぐ。



ラウがこのベッドに横たえられるのは、今日で十数回目だ。独身のパトリック一人が寝るには、大きすぎるダブルベッド。その枕の厚みや、やや固いスプリングの感触も、もはやラウには馴染みになってしまった。



年齢を感じさせない、パトリックのしっかりとした筋骨の肉体が、ラウの上で蠢く度に、衣擦れが乾いた声で囁く。シーツは糊が効いていて、ほのかに爽やかな香りがする。ホテルのように、毎日、使用人に変えさせているのだろう。潔癖気味の彼らしい。

「脚を開くんだ」

 指をラウの太股の閉じ目に沿わせて、彼は命じた。ラウは従う。



 ずるりと、パトリックの片脚がねじ込まれた。ラウの敏感な部分がこすられて、彼は短く息を吸う。

 青年の反応を楽しむかのように、しばらくの間、スラックスの布地を押し当てて、軽く摩擦を加えた後、パトリックは脚をシーツに沈めた。



 それから再び、濃密な愛撫が始まった。

 男の唇が、ラウの乳首を転がした。ラウが甘い鳴き声を洩らし始めると、

パトリックは前歯で噛んだ。鋭い痛みに、ラウの快感は消し飛んだ。



 彼はラウの股間を弄った。欲望が膨らんで、その強いエネルギーをもっと昂ぶらせたいと願った途端に、彼は手を離した。

ラウは腰を揺らした。中途半端な欲求を抱えたまま、萎えていく局部の疼きは、耐え難いものだった。首を横に反らして、眉間に皺を作りながら、ラウは噛み締めた唇をわななかせた。



そんなラウの様子を、パトリックは実験動物を観察する研究者のような眼差しで見つめていた。



この部屋での支配者は彼だ。その厳然たるルールを、ラウは毎回、いやと言うほど思い知らされる。

ひどく屈辱的だった。ラウの高いプライドは、他人に従属するのを良しとしない。しかし、この男には逆らうことを許されていなかった。

ラウの心理的な苦痛を読み取っているが故に、パトリックの嗜虐心はいっそう煽られた。



彼の征服欲は強い。彼が愛人に迎えた青年は、図抜けて優秀で、ザフト軍のみならず、プラントの支配層からも一目置かれている。いつもこうべを高く上げているその青年が、ただ自分にのみ、服従してひざまずく。その様態が、彼に最上の満足感をもたらした。

ラウは彼にとって、肉欲を満たすばかりではなく、大きな力を有している己というものを再認識させてくれる、便利な道具だった。



パトリックはラウの辛い疼きが消えるのを待ってから、再び手をうごめかせた。片膝を立てさせると、指を彼の内部に差し入れた。

ラウの蕾が指を締めた。下腹の筋肉を緊張させている。わずかに胸を反らせて、ラウは囁くような呷きをこぼした。

白金の長めの髪が、白い枕をなぞって、かすかに揺れた。その妖美な様は、静かに横たわった夜気の向こうで、しんと冴えて揺らぐ月光のようだった。



パトリックは根元まで、人差し指を押し込めた。しばらく、内壁を弄ぶ。

そこの緊張がさらに高まって、震えるように締め付ける度合いを強めてくると、侵入物を二本に増やした。ウッ、とラウが声をくぐもらせた。



青年は甘い吐息を洩らしながら、顎を上向かせ、顔を横に転がした。女と見まごう秀麗なかんばせが、ベッドの横からの明かりに照らされた。白磁の肌を包むように、クリーム色の光が広がった。

ベッドの右横には、三段引き出しのナイトテーブルがある。柔らかな光は、その上に置かれたシェードランプからやって来る。



同様のランプは、ベッドから少し離れた左手にもある。そこにはどっしりとしたデスクが配置されていて、ランプは机上のコンピューターや書類、資料らしき本に光を落としながら、小さな煙突のように突き出している。



ラウの頭上にも、明かりはある。ベッドのヘッドボードを照らすように、ボックス型の壁面ライトが取り付けられている。

そこだけではなく、同じ型のライトは、広い部屋の四面の壁を、ゆったりとした間隔で一巡していた。



ベッドの足の向こうには、ソファとテーブルがある。パトリックの性格を表しているように、余計な装飾のない、機能的なフォルムだ。その傍らには、やはりシンプルな造りのフロアスタンドが置かれている。

デスクの横手の窓辺や、壁に飾られた絵画の下方、入口のドアの脇──他にも、スタンドは色々な場所で点灯している。



そういった幾つもの間接照明によって、パトリックの部屋は優美な光で満たされていた。

そして、その夢幻的な明かりを四方から受けて、白いシーツに裸身を浮かび上がらせているラウがいる。



パトリックは情事の際に、照明は落とさない。ラウの痴態をじっくりと鑑賞するためだ。

類い稀なる美貌と妖艶さを併せ持つ青年が、自分に溺れて、嬌声を上げ、快感や、時には苦痛に身を震わせる。その眺めには、世界的に有名な美術品や工芸品ですら、その美しさをかすませるほどの、究極の美と官能がある。



「女……のようだな」

 ラウの内部を弄ぶ手は休めずに、パトリックが呟くように洩らした。



 彼の眼下では、純白の枕に繊細な金の髪を散らして、ラウが甘い呷きをこぼしている。細い顎を上げて、与えられ続ける快楽に耐えるように、わずかに首を揺らしている。

半眼になったその瞳は、室内の明かりを反射させながら濡れている。頬には初々しい乙女のような紅が差し、唇は薄いルージュを引いたように赤く、みずみずしい。



そして、顔を上向かせたことで、もとより白い彼の肌は、ライトを受けて、光の中に溶け込んでいきそうな透明感を醸し出していた。



「君には愉快な言葉ではないだろうが……とても男には見えんな。

 君はまるで……あの絵から抜け出してきたようだ。いや、君の方がなまめかしい。実在の人間である君は、汗をかき、甘い声を響かせるからな」



 パトリックはベッドの横にある重厚なデスクを越えた、窓側の壁に視線を流した。彼にならって、ラウも首を回す。



 間接照明の明かりによく映える、落ち着いたマホガニー色の壁に、一枚の絵が掛かっている。横長で、のどかな田園をバックに、数名の男女が描かれている。

「ギリシャ神話を題材にしている。中央にいるのが美の女神、アフロディテ……ビーナスとも呼ばれているな。こちらはローマ人の呼び名らしいが」



 乳房が透けて見える、薄衣だけを身にまとっている女神は、腰をくねって佇み、艶然と微笑んでいる。彼女の周りには、その絶対的な美を讃えるように、うっとりと見上げる少女や、寝転んで酒杯を掲げる青年がいる。



「あのアフロディテが、君を思わせる。君は男なのに、おかしなことだがな」



 女神はきれいな卵形の顔を持っていた。

切れ長で、穏やかな表情の瞳と、筋の通っている鼻梁。唇はふっくらとしていて、かすかに両端が上がっている。背中に垂れている髪は金褐色で、ゆるやかにウェーブしている。



「前からお聞きしたいと思ってましたが……閣下はああいう絵が、お好きなのですか」

 アフロディテの微笑を見上げながら、ラウは尋ねた。

 現実主義で、空想の世界とは無縁に感じられるこの男が、ギリシャ神話とは……初めて部屋に通されて、壁の絵を目にした時から、ずっと疑問だった。



 パトリックは少し眉をしかめて、考えるそぶりをした。

「好きというほどはないが……嫌いではないな。

 あれは、私が国防委員長に就任した時に、議員から贈られたものだ。高名な画家の作品らしいが……あの壁に丁度いい大きさだったからな。飾ることにした」

 やはり、自ら望んで、入手した絵ではなかったか……ラウは納得した。



 それにしても、彼にアフロディテの絵を贈るとは、その議員はどういう了見なのだろう。権力欲の強いパトリックなら、同じギリシャ神話のモチーフにしても、最高神であるゼウスの絵画を選んだ方が、喜ばれただろうに。



(だが……この部屋に飾るなら、アフロディテの方がふさわしい。

あらゆる神々の中で、もっとも美しいとされている美神。彼女は愛欲を司る女神でもある。私とこの男との行為は、さしずめ彼女への捧げものということか。……いや、我らの間に、愛はない。ならば、欲だけの営みは、彼女に嫌悪をもたらすだけか)



ラウは快楽に酔って、悩ましげに潤み始めた瞳を、自嘲気味に細めた。

彼はパトリックを心底、嫌っている。そばに寄られただけで、一斉に細かい棘が屹立するように、神経がささくれ立つほどだが、彼に取り入るために、肉体を供し続けている。



その汚らしい唇と指が肌を這いまわり、おぞましい一物で身を貫かれる。しかし、耐え難い苦行である筈なのに、ラウは嬌声をわななかせる。

そんな自分を、彼は嘲笑っていた。私の肉欲は、こうも業が深いものなのか、と──。



パトリックがラウの中に押し込んでいた指を引き抜いた。青年のそこが、まだ内部への圧迫を求めているように、収縮する。

男は膝立ちになって、上着を脱ぎ始めた。彼自身の興奮が高まってきて、さらに熱い
前戯を施そうとしている。



所詮、ヒトは動物だ、とラウは思う。万物の霊長と誇っているが、本能の部分は獣と変わらない。食し、眠り、戦い、性交する。



コーディネーターの中でも、優秀な人物と目されているパトリックとて、同じこと。自らの権威を拡大するために戦い続けて、原始的な性の衝動に突き動かされる。

彼は私をなぶり、私の身体は彼に絡みつく。我らは醜くもつれ合う、ただの獣だ──。



パトリックの体温が、ラウの肌に近づいてきた。ヘアトニックの香が強いのに、その下に樹木の枯れたようなにおいを隠している体臭が、鼻腔に流れてくる。

ラウの背筋に、嫌悪が走った。しかし、すぐにその抵抗感は、男の硬い肌に封殺された。



密着した二人の肌は、ラウの触感を刺激する。パトリックの肉の弾力や筋肉の張り、こすりつけられる体毛が、ラウにこれから与えられるであろう悦びを想像させた。彼は無意識に、ひそかな吐息を洩らした。



 パトリックは勿体をつけるように、頭をゆっくりと、青年の首筋に近寄せた。そして舌を伸ばすと、筋肉に沿って舐め下ろした。

 鎖骨の窪みでしばらく留どまり、白磁の肌を紅く染めてから、さらに胸へと滑っていった。それと同時に、筋張った彼の長い指も、肩から脇腹へ移動する。



ラウの全感覚は、刺激を受ける場所に集中した。今は皮膚が生殖器だ。触れられれば、そこが熱を帯び、脈打つのがわかる。

やがて、熱く吸い付く唇は、臍の周囲をなぶって、そのまま降下した。

パトリックの手が、膝を立たせているラウの片脚を握った。ゆっくりと力を加えて、外に押しやる。



ラウの中心で、感覚が弾け飛んだ。まるで、小さな爆弾が破裂したようだ。彼はシーツを握り込んで、奥歯を噛んだ。

パトリックが先端を咥えていた。膝を立たせた片方の脚に手をやって、それを広げさせたまま、もう片脚の側から、斜めに頭を差し入れている。



根元を掴み、口に含んだモノの味を確かめるように、舌をざわめかせた後、全体を舐め始めた。

ラウは首の反りを大きくさせた。中心がどんどん膨らんでいく。声を立てそうになっ
たが、唇を引き結んで我慢した。



ねっとりと絡み付いてくる舌と唇は、たまらない快感をもたらした。それは時折、快楽を通り越して、痛いと感じられるほどだった。



「……くっ……あッ」

「声を殺すことはない。君の艶めかしい声は、嫌いではない」



 横からねぶりながら、パトリックはラウを喘がせている状況を楽しむような調子で言った。

「アァ……っ」

 さらに大きな快感が押し寄せてきて、ラウは枕の上で、頭を左右に転がした。



 うなじを引きつらせながら、苦行に耐えるように、首を横に引き伸ばした。

 霞む視界に、多色使いの色彩が飛び込んできた。

それはぼやけている周りの風景の中で、その箇所だけ、他より実感のある色を有していた。



(あの部分だけが、立ち上がっているように見える。まるで霧の中から現れた、小さな街のように……)



「……あれは?」

 それが何かと見極めようとする前に、ラウはパトリックに質問していた。

 寒色が多く、決して派手ではないが、その色の固まりは、なぜかラウの心を惹き付けた。



「鎌のようなものがありますね……そして、月……ですか? かぶっているのは、フード……でしょうか」



 パトリックは視線を上げた。

急に気を散らしたラウをいぶかしんだが、彼が何について質問しているのか、見当をつけようと、唇を肉棒から離した。



 舌攻めが中断されて、下半身は無念さを訴えた。しかしラウの頭は、新しく見出した、関心を引いたものへの興味を失わなかった。

「……ああ、あれか。古い絵だ」

 解答を得たパトリックは、普段の厳格そうな顔つきのままで答えた。



「私が子供の頃に、手に入れた。今日、ファイルキャビネットを整理していたら、奥の方から出てきた」



 パトリックが「絵」と告げたものは、ベッドから少し離れて、横に置かれている重厚なデスクの上にある。

 書類や本が広げられているそこに、半ば埋もれるように、木枠の額が覗いている。大きさは、大判の雑誌程度だろうか。



「紛失したと思っていたが、まさかキャビネットの中から出てくるとはな。なぜそんな所にしまったのか、わからんな。飾るような絵ではないからな、ずっと放り込んでいたようだが」

 しばし、絵を見つめると、パトリックは再び行為に戻ろうとした。



だがラウの瞳は、机から離れない。パトリックは肩から短く息を吐くと、ベッドを降りた。

 デスクに寄って、木製の額縁に指をかけた。それをつまみ上げて、ラウの傍らに持ってくる。



「陰気な絵だろう。だが私は、結構こいつが気に入っていてね」

 細部まで見えるようになったそれに、ラウの目は吸い寄せられた。



 修道士の長衣のように、漆黒の衣をまとった人物が、画面の中央に立っていた。

 背景は夜闇。遠くに荒地の山並みが連なっている。空に星はないが、ナイフのように鋭く尖った三日月がかかっている。

 長身の人物は、胸の前で右腕を曲げている。その手に握られているのは、鋭利な光を宿している、柄の長い大鎌だ。



 その者の足元には、中世風の服を着た、複数の人間が伏していた。長衣の人物より、かなり小さく描き込まれている。

 傷だらけで倒れている恰幅のいい男。放心したように膝立ちになっている女。胎児のように身体を丸めている幼子もいる。その他にも、うつ伏せの状態や、顔や衣類を鮮血で染めながら、仰向けで折り重なっている屍たち──まるで、無残な戦場のような光景だ。



 中央で大鎌を構えている黒衣の者は、フードをかぶっていた。その顔面は真っ白で、肉がなかった。ぽっかりとあいている眼窩は、あらゆる光を吸い込む洞穴のようだ。



彼は……骸骨だった。



「不思議な絵ですね。おっしゃるとおり、陰気ですが……私は嫌いではありません」



 剥き出しの歯列に、ひそかな微笑みを漂わせているような骸骨に魅せられて、ラウは感想を伝えた。

 パトリックはラウの反応に気を良くしたのか、さらにその絵を青年の目に近寄せて、いつもは厳しい声音を和らげた。



「鎌を持っているのは何者なのか、わかるだろう?」



 絵画に関して、同じ嗜好の持ち主と会話を交わしている美術ファンのように、彼は楽しそうな表情をしていた。

 ラウは食い入るように、骸骨の顔面を見つめた。



「死神……でしょう。

その足元に倒れている大勢の人々は、死神が命を奪った者たちですか」

「そうだろうな。死があるところに、彼はいる……ということだな。

これは、タロットカードをイメージして描いた絵らしい」

「タロットカード……? 占いのタロットですか?」



 タロットとは、地球の古代に起源を持つとされている、歴史ある占いである。中世の半ばにはヨーロッパ中に広まって、年代がコズミック・イラに変わった現在でも、数多くの愛好者がいる。

 占いには、美麗なカードを用いる。庶民や王族、聖職者といった人間や、獅子や鷲などの動物、月や星など自然界の風景、空想の産物である天使や悪魔に至るまで、様々な図柄が寓意的に描き込まれている。



 それぞれのカードには、その描かれている題材や、カードが意味するところによって、「魔術師」「力」「太陽」など、名称が付けられている。「死神」のカードもあったはずだ。

 パトリックの口から、現実派である彼とはほど遠い、「占い」の一様式であるタロットという言葉が出てきたので、ラウは意外に感じた。



 その思いが伝わったのか、パトリックはラウがその疑問を問う前に、先手を打つごとく、返答した。



「私は全く、占いには興味がないのだがな。もちろん、タロットなど、占わせたことはない。だが、この絵には、なぜだか惹き付けられた。

 私がまだ、十歳ぐらいの頃だったと思う。よく歩いた通りの裏手に、タロット占いの店があった。そこのウィンドーケースに、これが飾られていた。他にも、絵は色々あったがな。そこの占い師は、タロットカードをモチーフにした絵を描いていたんだ。それらを、店で売っていた。何回か、この絵を眺めているうちに、私はどうしても、これが欲しくなって……小遣いをはたいた」



 当時を思い出したのか、彼はフッと笑った。

「十歳の子供には、随分と高価な買い物だったよ。しかし、親にねだることは出来なかった……この絵ではな。彼らには、黙って買った」



 ラウは彼が両親にせがまなかったのは、賢明だったと思った。

「死神の絵……では、まずかったからですか」



「そうだ。健全に育っている少年が、そのような不健全な絵を欲しがる筈がない……彼らの考えは、そういうものだった。

 私は両親が私に抱いていた期待を裏切りたくなかったし、彼らを混乱させたくもなかった。彼らの中では、私は常に完璧であらねばならなかったのだよ」

 失敗を許さぬ彼の厳格な性格は、同様の親の下で培われたのか……ラウはパトリックの家庭環境を想像した。もっとも、それには生まれ持ったパトリック自身の性質も関与していただろうが。



 パトリックは絵をラウから離した。胸の前で少し鑑賞してから、デスクに戻した。

机上のレターケースに、こちら向けに立てかけて、ベッドからよく見えるようにする。

傍らにあるシェードランプの卵色の灯りを受けて、死神は月光に照らし出されているように、ほのかに浮かび上がっていた。



パトリックはラウの裸身に引き返した。肌を重ね、ひそかな吐息と共に、肩口にキスを落とす。

ラウの関心は、まだ死神の暗い翳りに捕縛されていた。



「タロットでは……確か、死神は十三枚目のカードでしたね」



 カードには、各々、番号が振られている。「死神」は、ナンバー13に相当する。魂の簒奪者にふさわしい、不吉な数字だ。



「ほう、知っていたのか。君がタロットに詳しいとは、意外だな。案外、占いが好きなのかね」

 パトリックは顔を上げると、面白そうに口のはたを歪めた。



「単なる知識です。私も閣下同様、占いなどという雲を掴むような戯言を、信じる気にはなれません。

未来は占ってもらうものではありません。自らが行動し、切り拓いていくものです。望む未来を手に入れたいと願うなら、実現すべく、動き続けるのみです」

「同感だな。やはり、君とは意見が合う」

 パトリッは端的に応えた。



ラウは曖昧に微笑んだ。占いに関しては考えが一致するが、この嫌悪する男と同思考の人間とは見なされたくなかった。

内心で、侮蔑のせせら笑いを投げつけながら、顔をそらした。



ふと、見上げると、窓側の壁に掛かっている、ギリシャ神話の美の女神・アフロディテの絵画が目に入った。

死神の暗鬱な絵を鑑賞した後では、それは何と穏やかで、優麗に映ることか。



しかし、だからこそ、退屈なのだ……ラウは春風のような彼女の微笑みに対して、冷ややかな視線を返した。



生ぬるい安寧はいらない。私の心を捉えるのは、氷点下の世界で、凍てつくような雪風に逆らいながら、肩を怒らせて歩み続けるような峻厳さだ──。



「閣下は、あのアフロディテよりも、死神の絵を飾りたいのではないですか?」

 美神の心に突き立てるような冷笑を浮かべたままで、ラウは訊いた。



「ん……?」

パトリックはラウの視線を辿った。さやかな苦笑を洩らす。



「ああ……そうかもしれんな」彼は双眼を細めた。「だが、飾れないだろう。アフロディテは一般的な題材だからな。誰の目から見ても、美しい絵だと思える」



 ラウは嘲りで、鼻を鳴らしそうになった。傲慢で、不遜きわまりないこの男でも、他人の視線は気になるのだ。

「かまわないではありませんか。この部屋は、閣下のプライベートルームです。客人を招き入れることはないのでしょう?」



 愉快になったラウは、珍しく、自らパトリックに手を回した。彼の瞳を覗き込むと、短く切り揃えている銀灰色 の髪を、頭頂からうなじへと、撫で梳いていく。

「……それとも、誰かを入らせているのですか? 私以外に……」



 ククク、と喉元で笑った。

 男を手玉に取る妖婦のような態度だった。決して自分より前へ出ようとしない──出させない──愛人の、茶化すような振る舞いを、しかしパトリックは怒らなかった。



「君だけで手一杯だ」

 小悪魔風なラウを眺めるのは、彼は満更でもないようだった。その二つの目は、冷静だが、その奥に濃い欲情をたまらせている。

 彼は唇を、ラウのそれに落とすと、口許で静かに囁いた。



「君はアフロディテと死神と、どちらの絵が好みかね」

「……閣下と同意見かと」

「そう答えると思った。我々には、優雅な美しさだけの絵は似合わんな」



 彼は冥府で闇の住人がこぼすような、低い含み笑いを洩らした。

それから、下に身体をずらすと、点々と紅い花を咲かせている青年の胸に顔を伏せた。両手は細い腰を挟んで、太股へと滑らせる。



その少しざらついている手の感触が、ラウの後退していた悦楽の波を、再び引き戻さ
せた。




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