【第9章】






〔9−1〕


易者は清一色(チンイーソー)と名乗った。
それは、人の形はしていても、“人”では無かった。
元は百眼魔王の息子だった妖怪が、自分自身を式神にして実存し続けていたのだ。
一族を皆殺しにし、自分をも殺し、そして自分が見ている前で妖怪へと成り変わった 『猪悟能』 に会う為に。

「虫唾が走りますよ」

待ち望んだ再会を済ませると、三蔵たちに何の違和感も無く溶け込んでいる八戒を見て、そう吐き捨てた。
目の前の姿は、この男が望んでいたものとは違っていたから。

故に、直接八戒を狙うのではなく周りをいたぶろうとした。
『猪悟能』 の殺意と痴態で自分の心を満たす為に。
彼の狂気に歪む顔が見たくて。
悶え苦しむ声が聞きたくて。
全てを奪って、壊したくて。

この予期せぬ出会いは、思わぬ展開をも見せた。
悟浄が、生き別れていた兄との邂逅を果たしたのだ。
敵対する相手に仕える身ではあったが、本質は変わっていなかった。
再会を喜ぶような笑みは、昔の面影のままだ。
今回は別の敵を倒すために暫定的に協力し合ったが、次に会う時はそうもいかない。
悟浄は、しかしそれも面白い、と数奇な運命の糸の絡み具合を楽しんでいた。

その、力を合わせて倒した敵を操っていたのが清一色だった。
執拗に攻撃を仕掛けてくる中で、八戒は過去に引き摺られ、心も身体もみるみるうちに疲弊していった。
しかし、

「お前は俺を裏切らない、そうだな」

三蔵の言葉で己の存在意義を確認した八戒は、自分を取り戻した。
どんなに紅く染まろうと、血は洗い流せる。
清一色のような過去も未来も無い生き物じゃ無いから、自分たちはそうやって生きてゆく。
そして、前へと進んで行くのだ。
八戒は自らの手で清一色を倒すと、ようやく過去との決別を果たした。

その時、三蔵は…。

八戒に首を絞められて思った。
コイツは俺を殺すことはできない。
舌噛んで自分が死ぬような奴だから。

――― 本当に絞められたら、こんなモンじゃねぇ

六道にも首を絞められたが、潜在意識下で殺されるのを望んでいた者の手は、ただ力が入っていただけ。
三蔵の心まで掴んだりはしなかった。

――― 俺の命も心もその手にしたのは……

三蔵は、悟浄の手が自分の首に掛かった場面を思い出した。
あの時は内からも外からも圧迫され、頭がぼーっとして、何も考えられなくなっていた。
悟浄の分身が三蔵を穿っていたからだけではない。
紅い髪しか視界に入らず、その瞬間はその男のことだけでいっぱいだったのだ。
悟浄の全てがあまりに自分に向かってくるものだから、「求められている」 という、奇妙な快感さえ覚えた。

六道の時は違う。
「死んで魂ごと全て俺の物になれ」 と言いながらも、六道は三蔵を本当に手に入れようとはしなかった。
ただ、呪符による身の痛みを、己の狂わされた運命を、三蔵にぶつけているだけで。

だが悟浄は、三蔵を取り込み、また三蔵の身も心も “悟浄” で満たそうとした。
もちろん、三蔵は抵抗した。
けれど、その瞬間は、悟浄の狙い通りになってしまっていたのは否めない。
身体を支配され、瞳には悟浄しか映らず。
心も支配され、記憶までもが悟浄だけで溢れそうで……。

そんな感覚は初めてだった。
双方向のベクトルが作用する奇妙な感じ。
悟浄は、三蔵を追い詰める時、自分を見ろと言う。
存在を主張し、三蔵に自分の痕跡を刻み込もうとする。
三蔵は、悟浄に支配された時、憎しみの感情が湧き上がった。
殺したいという願望が生まれた。

お師匠様を失った時も同じ状態になった。
仇を取ろうと決めたことが、身体を動かす原動力でもあった。
しかし、戦う以前に自分の無力さに打ちひしがれ、逆に悪夢にうなされてばかりの夜が続いていたのは事実だ。

なかなか前へ進めない三蔵に、犯されていただけの悟浄との行為が何かをもたらした。
対象が目の前にいるからか、尚一層、“殺したい” という思いを強くぶつけられる。
それは必然的に、自分が生きていなければ持ち得ない、成し得ないものだ。
旅の間は思うだけに留めるが、終わった時には、即座に実行してやる。
だから、旅を途中で終わらせるわけにはいかない。
辛い目に遭っても、諦めるわけにはいかない。
任務を遂行し、目的も遂げ、何もかも片付いた後でようやく、自分だけの為に動く時がやってくるのだろう。

そう悟浄を意識している間は、不思議とその他の心を煩わせる事柄からは解放されている。
それに思い至ったのは、いつからだったか。

――― あの夜か……

宿屋で初めて悟浄と二人部屋になった夜、いきなりテーブルに引き倒された。
また抗えない力に翻弄される、と身構えたのに、悟浄は何故かそのまま何もせずに部屋を出て行ってしまった。
ひとりになってから、三蔵は自分の手を見てあることに気付いたのだ。

手首に、跡が無い。

悟浄が襲おうとしながらも動きを止めたのは、三蔵の手首に何も無かったからでは無いのか。
自分が付けたはずの痕跡が、跡形も無く消えている。
どこか呆然としていた様子からして、きっとそうだ。

呆気に取られたのは自分もだった。
ずっとそこにあるものだと思っていたのに、実際は何も無かった。
肩透かしを食らった気分だ。
と同時に、何とも言えない不安定な感覚にも襲われた。
拠り所を失うにも似た……、と思ったところで、三蔵は驚愕に目を見開いた。

――― 誰が、あんな奴をっ!

まるで悟浄に依存していたかのような思考を、自分の中から追い出そうとする。
しかし、それはやればやるほど、上手くはいかなかった。
三蔵はイライラとした仕草でまだ吸い掛けの煙草を足元に投げ捨てると、ブーツでぎゅっと踏み潰した。



〔9−2〕


シャワーで汗を流している時、胸の銃痕に触れながら悟浄は思った。

――― あン時は、ちーっとも怖く無かったってのによぉ……

変な人形から種を植え付けられた時。
その種を三蔵が小銃で撃ち抜こうとした時。
清一色の仕掛けに引っ掛かったのが悔しいだけで、不思議と怖さは感じなかったのだ。

三蔵が銃を自分に向けた瞬間、銃口の先から集中した三蔵の気が自分に流れ込んで来るように感じた。
ぴくりとも揺るがないのを見ると、不安も何も出てこない。
撃たれた直後は焼けるような熱さと痛みに耐え切れず気を失ったが、それでも嬉しかった。
あの瞬間、三蔵の瞳も意識も何もかもが自分に向いていたから。

それよりも、

――― あン時はマジでビビッたぜ……

三蔵が吐血して倒れていたのを見た時。
八戒が 「僕が殺した」 と言った時。
すぐに芝居だとわかり、むかつきながらも胸を撫で下ろしていたが、妙なしこりが残った。

いつ、三蔵を失うことになるかもしれない。
その時に後悔したくはない。
だが、今、三蔵に対して躊躇と遠慮がある。
途惑いと焦り、とも言えるのだろうか。

その肌を前にして、ふと止まってしまったのだ。
今まで散々汚(けが)してきたのに、真っさらのような白い肌を前にして。
残虐とも思える行為を強いてきたのに、すべてが夢だったような気がしてしまって。

三蔵の腕に、何も無かったから。
自分が残したはずの跡が、欠片も見当たらなかったから。

すぐに消えてしまっただけ、というのは頭で理解できるのに、感情が付いて来ない。
空しいのではない。
ただ、切ないのだ。
己の存在さえ否定されたような気になってしまったのだ。

だから、もうそんな思いをしないように。
三蔵に、ちゃんと自分を………。


悟浄はシャワーを冷水にして頭から浴び、ぐっと身体に気合いを入れた。







二部屋取れた今夜も、またこの組み合わせになってしまった。
清一色との戦いで骨折し、まだ日常生活に支障をきたしている悟空を、八戒が世話しているからだ。

悟浄がシャワーを終えて出てきた時、三蔵は既にベッドに横になり、布団に潜っていた。
じっと息を殺している様子からして、まだ眠ってはいないらしい。
足音をわざと立てて近寄ると、呼吸さえ止めたようだ。

「ガマン大会でもやってんの? それとも、かくれんぼ?」

悟浄が声を掛けるが、反応は無い。
けれど、神経がぴりぴりしているのは伝わってくる。

「シカトしたらどうなるか、まだわかんねーみてぇだな。 エライ坊さんのくせして、よっ」

そう言いながら勢い良く布団を剥いでも、三蔵は全く動かなかった。
ただ、悟浄に背を向けて横たわったままの格好で一言、

「戻せ」

と低音で唸っただけで。

「コッチ向けよ。 俺を見てちゃんとお願いすれば、返してやらねーでもねぇ」

悟浄の挑発に、三蔵は首だけ僅かに動かした。
上半身は法衣を脱いでいるので、剥き出しの肩越しにじろりと睨んでくる。

「返せ」
「ったく、学習能力ねぇのかよ、てめぇは」

悟浄は、掴んでいた掛け布団を自分のベッドへと放り投げた。

「!」
「あ〜あ、飛んでっちまった」
「貴様っ」

見下ろす悟浄の胸座を咄嗟に掴んだ三蔵だったが、その腕はすぐに引き離された。

「痛くして欲しいんだ、そうだろ?」

逆に捕まえた手首が折れそうなほど、悟浄は握っている手に力を込める。
そのまま三蔵を押し倒し、掴んでいた手を頭上で一纏めにしてシーツに縫い付けた。

「っ…離せ……!」

馬乗りにされて動きを封じられた三蔵が、無闇に暴れ出す。

「離せと言われてホイホイ離すわけねーだろうが」

目を眇めて低い声で脅すと、三蔵は急に静かになった。
悟浄の声音が、それまでの軽い雰囲気とは一変したからだろう。
薄く開いた唇が微動したが、言葉が出ないまま吐息だけが漏れ続ける。

悟浄の顔が間近に迫った。
三蔵は思わず目を瞑る。
しかし……。
強い衝撃は、何も、どこにも起こらない。
変化といえば、紅い髪が頬や首筋に触れているだけ。

「っ…」

くすぐったいからなのか、それとも嫌悪感からか、いや、もっと艶めかしい感情からなのか。
三蔵は思わず声を漏らしてしまった。

「感度いいねぇ、相変わらず」
「!!」

悟浄の言葉を聞いて、三蔵が顔を真っ赤にして目の前の男を睨みつける。

「てめっ!……」

が、至近距離にある紅い瞳に一瞬怯んだ。
怯みながら逸らさないものの、紫暗の瞳に浮かぶのは動揺の色。
息を詰めて、悟浄の出方を待っている。

見詰め合ったまま悟浄が少しだけ顔を離すと、三蔵が緊張を解いたのか大きく息を吐いた。
上下する胸にまで欲情してしまいそうだ。
悟浄は、自分が組み敷いている細い身体を抱き締めたくなった。
しかし、手を離した途端に三蔵は暴れ出すだろう。
そうなるのは仕方が無いが、その前にやっておきたい行為があった。
この間はできなかったから……。

まだ不安気に揺れる瞳を見つめながら、悟浄は三蔵の手首を片手一本で押さえ付ける。
空いた右手は、片方の手甲の中へ滑らせた。

「なっ…!」

黒い布がするすると捲られて、白い肌が露わになる。
悟浄は素早く手甲を引き抜いた。

「何しやがるっ!!」

びくともしない相手に、無駄だとわかっていながら抗い続ける細い身体。
そんな三蔵を、悟浄は僅かに眉を顰めて見遣ると、いきなり覆い被さった。

辺りが暗い。
悟浄の胸がすぐ近くにある。
雄の体臭が鼻腔をくすぐる。

「…」

三蔵が気を逸らしている間に、悟浄の唇が三蔵の手首に触れた。

「っ!!」

同じ箇所を何度も何度も、皮膚が破れるのではないかと思うくらいの執拗さで唇と舌が攻める。
合間には肌を舐めまわし、また、きつく吸う。

以前、手首に付けられたキスマークは、二日と持たなかった。
悟浄が付けた瞬間は色鮮やかだったが、それほど強く吸われたのではなかったので、すぐに消えたのだ。
だが、今はより激しく強く、跡を残していく。

「くっ…!」

堪えていた声が漏れてしまった。
それを聞いて悟浄がようやく唇を離す。

「こっちもな」

押え付けていた手を反対側に変えると、左手を三蔵の右脇腹に這わせた。
アンダーを通して三蔵の体温が悟浄の掌に流れる。

「触…るなっ…!」
「慌てんなっつっただろ」

再び暴れようとした三蔵を眼下に見下ろしたまま、悟浄の手が蠢く。
剥き出しの脇を掠め手甲の中に潜り、殊更ゆっくりと捲っていった。
三蔵は髪を振り乱しながら抵抗している。
しかし、脱がされているのとは反対側へ顔を向けると、そのまま唇を噛んで動かなくなった。

「!!…………いい子だ」

悟浄は少しだけ辛そうに微笑んでから、もう片方の手甲も脱がせると、手首に唇を寄せた。
少し吸って付いた綺麗な赤い色には満足せず、貪るように食い付き、しっかりと跡を残していく。

――― ああ…まただ……

三蔵は、雨の中で起こったのと同じ自分の身体の変化に気付いた。
襲われているというのに、何故感じてしまうのか。
悟浄に押し倒された時から鼓動は早くなり、身体が熱を帯び始めていたのだ。

――― いや、違う……

この部屋で二人っきりになった時から、全身で悟浄を意識していた。
何か起こるかもしれない、そうなったら抵抗するまで。
そんな風に思っていたが、そう思うこと自体が “悟浄との何か” を心の片隅で期待していたのでは無いのか。

今も分身が質量を増し、それは悟浄にも伝わってしまっているだろう。
いくら拒絶の言葉を吐いても、身体は求めている。
そう取られても仕方が無い状態だ。
つまり、このまま犯されても、一方的に悟浄だけを責められない。

――― どうしちまったってんだ……

三蔵は、半ば諦めの境地に陥っていた。
自分でコントロールできないこんな身体、欲しいのならいくらでもくれてやる。
そんな自暴自棄にも取れる考えをそのまま口にしようとした時、ふっと視界が明るくなった。
気付くと、いつの間にか悟浄が自分の上から退いていた。

「え……」

今夜もまた、悟浄の思いのままに蹂躙されるのかと思っていたのに、いきなり解放されて途惑っている。

「どした? 物足りねぇってか?」

口調は軽いが、紅い瞳は笑っていない。

「俺はなんか飲み足りねーから、ちょっと引っ掛けてくるわ。 八戒にはチクんなよ」
「………」

何も言えず、少しも動けずにいる三蔵をひとり残して、悟浄はひらひらと手を振ると部屋を出て行った。







――― 三蔵………三蔵…………

心の中で何度も名前を呼ぶ。
最後の三蔵の表情が目に焼き付いている。
あれは、殺したいと思う相手に見せる顔じゃない。

――― ヤッちまえば良かったってのか?

三蔵の身体も反応を示したのに気付いてはいた。
しかし、頭をぶるぶると振って、その考えはすぐに打ち消す。

――― いや、これで良かったんだ……

無理に身体を開かせなくとも、己の痕跡さえ残せたら、それで…。
キスマークなんて、すぐに消えてしまうのはわかっている。
けれど、それを付けるという行為は止められない。
消えたっていい。
何度でも付ければいいことだ。
ただ、手首を見た時、もしもそこに跡が無くても、そこにあるはずのものだという認識を植え付けられれば。
それが、過去に引き摺り込まれそうになった時に、現実世界を思い出すキッカケにでもなれば。

殺さなければいけない相手がまだ居た。
ソイツを残したままではてめぇの気が晴れねえ。
そう、心のどこかで思っていてくれるなら…。

そんなモンでいいんだ。
痛みだけ覚えてくれていれば、それで。

悟浄は酒場に繰り出す気にもなれず、宿の横に停めていたジープに乗り込むと、後部座席で身体を丸めた。







しっかりと残っている、悟浄が付けた赤い跡。
こんなものはすぐに消えてしまう。
何にもなりはしない、儚いモノ。
しかし、目の前には現に事実として今ここに在る。

悟浄がいなくなった部屋では、三蔵が寝転んだままの姿勢で自分の両手首を頭上にかざし、じっと見つめていた。
跡を付けただけでは終わらないと思っていたのに、あっさりと身を引いた悟浄。
残されたのは、熱を孕んだままの己の分身。

疼く。
解放してくれと訴えている。

三蔵はゆるゆるとそこに手を伸ばした。
取り出して手首だけで挟むと、悟浄に触れられたような気分になった。
まだじんじんと痺れるように感じてしまう痕跡が、悟浄を意識させるのだ。

脳裡に、ついさっきの光景を思い浮かべる。
圧し掛かられた時の身体の重み。
掴んでくる腕の力強さ。
手首にかかる吐息の熱さ。
離れていった時の、寂しさ……。

いつしか三蔵は、しっかりと握って自分自身を扱き続けていた。
息が上がる。
つま先が突っ張る。
瞼の裏で光が弾ける。
その光の奥に、誰か居たような…。

放出したその瞬間、声に出さないまでも、三蔵は確かにその名前を呼んでいた。
自分を翻弄して止まない、紅い髪の男の名を。




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