〔19−1〕
ここ何日かは、ひたすら西を目指して走り続けるばかり。
妖怪も襲って来ず、新たな敵も現われない。
平和でいいとも言えるが、単調な日々の繰り返しだ。
しかしそのおかげで、カミサマとの戦いで傷付いた身体も、ようやく回復してきた。
「この調子なら、夜までには次の町に入れそうです」
「ああ」
ハンドルを握ったまま八戒が声を掛けると、三蔵は短く返事して、吸い込んだ煙を無造作に吐き出した。
後部座席では、喧嘩にも遊びにも飽きた悟浄と悟空が、ひたすら流れゆく景色をぼんやりと眺めている。
既に、半分の距離はこなしてきているのだ。
遥か遠くだと思っていた目的地も、そろそろ手の届く範囲に感じる。
だから、まだ傷が完治していない身体で無理をすることは無いと、一行は少々余裕のある行程を組んでいた。
「あれ?」
空を見上げた悟空の頬に当たった冷たい雫は、すぐに他の三人にも落ちてきた。
さっきまで明るかった周囲が、いつの間にか重苦しい鉛色に包まれている。
空気も湿り気を帯び、じっとりと肌に粘り付くようだ。
「本降りにならねーうちに、宿に着きたいぜ」
濡れた煙草を投げ捨てた悟浄が運転席に声を飛ばすと、八戒がアクセルを踏み込んだ。
「そうですね、少し飛ばしますっ」
◆
ジープが宿の軒下に停車したと同時に、激しく雨が降り出した。
「間一髪ってとこだな」
「ご苦労様でした、ジープ」
姿を変えたジープが、八戒の肩に飛び乗る。
すると、すぐに微笑みと共に大きな手が伸びてきて、身体や羽を撫でてくれた。
その手に小さな頭を摺り寄せ、キューと気持ち良さそうに鳴くと、八戒の笑みが更に優しいものとなった。
「早くメシ食いてー!」
「その前に風呂だろ、風呂」
悟浄と悟空が賑やかに声を上げながら宿へと入って行く。
「部屋が空いていればいいんですけどね」
「何とかなるだろ」
「楽観的ですね〜」
三蔵の言葉に苦笑しつつ玄関の扉を押し開けた八戒を、悟空の嬉しそうな顔が出迎えた。
「空いてるって!」
早く来いと急かす悟空の頭を叩きつつ、横から悟浄がうるさいと窘めている。
「何とかなっちゃいましたね」
「ふっ」
ジープに向けたものとはまた違う、穏やかな笑顔を見せている八戒に、三蔵は口端を僅かに上げるだけで応えた。
それだけで、辺りが神々しい雰囲気に包まれる。
黙って佇んでいれば誰もが目を奪われてしまう玄奘三蔵法師。
その稀有な美しさを、それぞれに想いを込めた三対の瞳が見つめていた。
〔19−2〕
辿り着いた宿では、運良く個室が四部屋取れた。
風呂は大浴場のみだが、温泉が引かれているらしく、傷を癒すには丁度いい。
この先は、まだまだ厳しい旅になるだろう。
一日じっくりと使っても体調を整える方が、後々の為には良策だと思える。
そう判断した結果、悪天候が続いているせいもあったので、四人はその宿でもう一泊することにした。
戦いも無く、移動もせず、久しぶりにのんびりとした時間が流れてゆく。
宿の食堂で出される料理はなかなかのものだったから、悟空は三度の食事が楽しみになっていた。
満腹になれば、熟睡。
目が覚めれば、次の食事。
何も考えず本能のままに生きているように見えるが、それは悟空なりのパワー充填の方法なのだろう。
今よりも、もっと強くある為に。
ずっと三蔵と共に居たいから。
一方……。
八戒はジープと共に何度も温泉に入り、身体を労わることに専念してるようだった。
しかし、部屋に戻ってから窓ガラスを流れる雫を見つめる深緑の瞳には、どこか暗い影が差している。
気持ちにゆとりが生まれると、そこへ忍び込んで来る過去の情景。
手の中に握り締めた懐中時計は、あの日からずっと時を刻まない。
己の心も、あの時一緒に死んでしまったと思っていた。
けれど、現実に今、八戒は生きている。
日々、新しい時を積み重ね、前へと進んでいる。
死者に未来は無い。
旅に出てから出くわした清一色にも、そう言った。
だが、自分は違う。
目の前に用意されている未来を受け止め、突き進んで行かねばならない。
「それが、生きるってことなんでしょうね」
忘れるなどできないが、元より忘れるつもりは無いが、振り返ってばかりもいられない。
懐中時計は鞄の底に仕舞っておこうと思いつつ、八戒はもう一度窓の外を見た。
自分と同じように、雨を苦手としていた人物の顔を思い浮かべながら。
膝の上で気持ち良さそうに目を閉じているジープの頭を、愛しげにゆっくりと撫でる手は休めずに。
その頃……。
悟浄は割り当てられた部屋のベッドに寝転び、天井を見上げてずっと考えていた。
心の中にあるのは、ただひとりのこと。
美しい容姿は容易に脳裏に描き出せる。
低音で張りの強い声も、耳の奥でこだましている。
手を伸ばせば、触れた肌の質感が指先に甦る。
唇に意識を集中させると、交わした熱さを再び感じる。
こんなにも身体に染み付いている三蔵の感触。
なのに、今、三蔵は悟浄のそばにはいない。
「三蔵……」
想いが声になって零れた。
名を呼ぶと、余計に切なくなる。
三蔵を抱きたい。
堪らないほどに想いが募る。
細くしなやかな身体を抱き締めたい。
その中に、自分自身を埋め込みたい。
今まで行ってきたその行為には、“三蔵の為” という名目があった。
そんなものは悟浄が勝手に考えていただけで、当人にとっては迷惑以外の何物でもなかっただろうが……。
しかし、実際に悟浄が三蔵を抱くことにより、何かが変わり、事態が動いた。
全く無意味では無かったのだ。
だが今は、三蔵の為では無く、悟浄が己の欲望を満たしたいが為だけに三蔵を求めている。
それは人を恋うる本来の姿のひとつだとも言えるのだが、三蔵と悟浄との間に甘い言葉は存在しない。
色恋に疎いわけでは無いのに、愛とやらがどんなものか、まだよくわからない。
だから、悟浄はどうすればいいのか悩んでいた。
三蔵を抱く理由、それがあれば行動に移せる。
その理由を、ずっと考えていた。
けれど…。
「ぐだぐだ考えるのは性に合わねぇな」
闇の中で、紅い瞳に強い光が宿った。
◆
「ん…?」
「何だ何だ?!」
夕食を摂ろうと食堂に向かっていた四人の耳に、騒々しい声が聞こえてきた。
宿の外が騒然としているようだ。
「どうかしたんですか?」
「近所の店が強盗に襲われたらしいんですよ」
八戒が問うと、玄関先で外を覗っていた宿の主人が即座に答えた。
金貸しの店で金目の物が奪われたが、それだけで無く、隣の医者の家も荒らされて薬なども盗まれたらしい。
「強盗が薬も…?」
悟浄の眉間に皺が寄る。
「ええ、それで……」
「それで?」
「たまたま居合わせた女性が乱暴を受けたらしく…」
言い淀んだ主人の口調から、その乱暴の種類が察せられた。
周囲が重苦しい雰囲気に包まれる。
理不尽な暴力を受けた者の痛みが伝わってくるようだ。
八戒もまた、知らず険しい表情になりながら、「で、その賊は?」 とその後の様子を尋ねた。
「まだ、逃走中とのことです。 お客さんたちも、不審者を見かけたら知らせてください」
「わかりました」
八戒が答えると、主人は仕事に戻る為に奥へと引っ込んだ。
皆の後ろでずっと黙って聞いていた三蔵は、いつもの如く気難しそうな顔をしている。
だがひとり、悟浄だけが、背後の三蔵の変化に気付いていた。
三蔵が、周囲には気付かれない程度の僅かな動揺の色を見せていることに。
「………」
三蔵の脳裏に、かつての、旅に出る前に自分を襲った事件の記憶が、一瞬にして甦った。
三仏神からの依頼で極秘に調査を進めていた時、強盗でもあった暴漢に襲われ、複数の男に犯された。
それはあまりに唐突に起こり、自分が思っているよりも深い傷が、身体にも心にも残った。
夢の中にまで出てきて己を捕らえたまま離さなかった、忌まわしい過去。
その傷を忘れていたことに、今、気付いた。
忘れる努力はしていたつもりだった。
いつまでも囚われていても仕方が無いと思っていたから。
けれど、本当に忘れてしまっているとは思わなかった。
何故、自分はあの夜の事件に意識が向かなくなっていたのか。
凌辱された悔しさは今でも覚えている。
相手は撃ち殺したものの、抵抗しきれなかった己の弱さはずっと三蔵を苛んでいたのだ。
何をされたのかを思い返せば、当時の感覚がまざまざと身体に甦る。
だが……。
そうやって思い出していた賊の姿は、すぐにフィルターがかかったようにぼんやりしてしまった。
代わりに浮かんできたのは、ひとりの男の顔。
――― 悟浄………
三蔵は、目の前に見えている紅い髪を睨みつけた。
――― クソッ…
この男が、暴漢よりも深い傷を三蔵に刻み付けた。
だから、他のことは頭からも心からも追い出されたのだが、代わりに悟浄への憎しみだけが残った。
ただその憎しみも、最初から比べると形を変えているかもしれない……。
凝視したままでいると、その視線に気付いたのか、悟浄が振り向いた。
「メシ、行こうぜ」
いつものように咥え煙草で。
いつものような軽い調子で。
でも、瞳だけは真っ直ぐに三蔵を捉え……。
二人の目が合い、一瞬見つめ合ってしまった。
先に逸らしたのは三蔵だ。
「……ああ」
顔を背けながら低く答え、足早にその場を後にして食堂へと入って行く。
「三蔵、そんなに腹減ってたのかな?」
三蔵の姿を目で追っていた悟空が不思議そうに呟いた。
「早くビールが飲みたいだけじゃないですか?」
「そっか、んじゃ、俺も付き合うー!」
「コーラでね」
「うんっ!!」
笑いつつ答えた八戒に納得したような笑顔を見せて、悟空も食堂へと急いだ。
「元気だねぇ、小猿ちゃんは」
「ええ。………あの、悟浄……」
言い掛けた言葉は、それと気付かれないうちに胸の中に仕舞い込む。
さっきの場面で、三蔵からのベクトルが悟浄に向いていた。
そして、悟浄もそれを受け留めていた。
しかし、本来それらは本人達にしかわからない類のものだ。
過敏になることは避けようと決めたではないか。
二人の間にだけ存在する感情がどんなものであろうとも、気にしないよう努めなければ。
「ん?」
「……僕らも行きましょう」
「ああ、負けずに飲むとするか〜」
ふふ、と八戒が軽く声を漏らす。
八戒の微笑みの裏側は、悟浄でも見通せない。
◆
雨はまだ激しく降り続いていて、いつ止むともしれない。
だが、三蔵は翌日の出立を決め、料理が運ばれてくる前に三人にそう告げた。
「えー、もっとゆっくりしてぇよぉ!」
「おめーはここの食いモンが気に入ってるだけだろうが」
「なあなあ三蔵、あと一日くらい、いいだろ?」
「残りたいなら勝手に残れ」
「う……」
取り付く島もない三蔵の冷たさに、悟空はそれ以上食い下がれなかった。
この旅の目的を考えれば、本来は悠長にしている暇は無いのだ。
だから、三蔵の立てた予定に逆らう正当な理由は無い。
「出発前に、食堂の方にお弁当を作ってもらいましょう」
「うん! それならいい!」
「ったく、とことん食い意地の張った猿だな」
「猿って言うなー!!」
「猿に猿っつって何が悪ぃんだよ」
「うっせー! このゴキブリ河童!!」
「何だとコラ!」
「………」
いつもならこの辺りで 「煩い」 と怒り出す三蔵が、二人の言い合いも耳に入っていないのか、口も手も出さない。
そればかりか、余所事を考えているような、どこかうつろな表情でいる。
「まあまあ、二人ともそれくらいにして。 せっかくの料理が冷めてしまいますよ」
「そうだった! いっただ〜きまーす!」
八戒が間に入って、二人の喧嘩は一旦収まった。
悟空はあっという間に食事に集中し、次から次へと食べ物を胃袋に収めていく。
「ビール、追加しますか?」
「…ああ」
横に座っている八戒に訊かれると、三蔵は曖昧な返事だけを寄越した。
食事にはあまり手を付けず、ひたすらにビールを流し込んでいるのみだ。
「少しは何か食べてくださいね」
「……」
返事をする気が無い時、三蔵はきっぱりと無視する。
その我が道を貫く姿勢に八戒は苦笑すると、正面の席に座っている悟浄と共に、やれやれといった表情を浮かべた。
◆
「では、僕は明日の運転に備えて早めに休ませてもらいます」
食後、一番に席を立った八戒は、横で満腹になって眠りこけている悟空を軽く揺すった。
「悟空、寝るなら部屋に戻りましょう」
「う…ん……」
返事はしたものの、目は開かない。
それでも、半ば引き摺られるようにしながら、悟空も食堂を出て行った。
「俺は、もう一っ風呂浴びてくるかな」
ガタッと椅子を揺らせて悟浄が立ち上がる。
そして、三蔵とは視線を合わせないまま、大浴場へと向かって行った。
そこそこ広い食堂が、いきなり静けさに包まれる。
調理場で片付けをしている音が僅かに聞こえてくるのみだ。
三蔵たちの食事時間が長かったのか、他に客はいない。
「………」
残された三蔵は、食後の煙草をふかしつつ、ぼんやりと辺りに視線を漂わせた。
その瞳が無意識のうちに悟浄の背中を追っていた事実に、自分で気付くことも無く。
〔19−3〕
少し時間をずらせてから大浴場へ行った三蔵は、そこに誰もいないのを見て安堵と軽い落胆を感じた。
別に、悟浄の姿を期待していたのでは無い。
もしもまだ中に居たら、出直そうと思っていた。
それは、他の客でも同じこと。
ひとりで使いたかったから無人の状態は歓迎すべきだ。
なのに、どこか寂しく思ってしまうのは何故なのか。
「……チッ」
せっかくの温泉を楽しみもせず、三蔵はさっさと上がって部屋へ戻ろうとした。
が、廊下に出たところで、宿の売店の袋を抱えている悟浄と出くわした。
先に風呂を済ませてから買い物に出ていたようだ。
「風呂上り?」
「ああ…」
「なら、丁度いいや。 一緒に飲まね?」
これ、と袋の中からビールを取り出して見せる。
「何故、貴様と一緒に飲まねばならん」
「いーじゃねぇかよ。 ま、いらねーんなら無理には勧めねぇけど」
喉は渇いている。
それは、ビールを見つめる眼差しに表れていた。
「いいから来い。 俺のオゴリにしといてやっからよ」
返事も聞かずにさっさと歩き出した悟浄の後ろを、三蔵は躊躇しつつも付いて行った。
ただ、ビールを飲むだけだ。
飲めばすぐに部屋に戻ればいい。
「……」
誰も聞いていないのに、心の中で己に対して今の行動の説明をしている。
そんな自分に気付き、三蔵は小さく舌打ちした。
この宿は三階建てで、階段を上がると左右に三部屋ずつ並んでいる。
二階で左に折れ、二部屋とばした角部屋が三蔵の部屋。
右に行けば順に、八戒、悟空、一番奥の端が悟浄という部屋割りだ。
階段を上りきり、分かれ道で一瞬止まったものの、三蔵の足は右へと踏み出した。
歩いているものの、まだためらいが捨て切れないでいる。
数歩前を行く悟浄の足元を見ながら歩くと、自然と歩調が合っていた。
音だけなら、一人の足音にしか聞こえない。
悟浄は自分の部屋に辿り着いてドアを開けると、そこで初めてちらりと後ろを確認した。
三蔵の姿を確かめてから、消えるように部屋の中へ入ってゆく。
引き返すなら今だ。
しかし、三蔵の足は止まらなかった。
一歩一歩、奥の部屋に近付く。
八戒の部屋を過ぎ、悟空の部屋も通り過ぎて、三蔵は開けっ放しのドアの手前で一旦立ち止まった。
ここに入れば、悟浄と二人きり。
若干、鼓動が早くなった。
無意識のうちに手首を掴んでいた自分に気付き、バッと手を離す。
何を意識しているのか。
何も特別なことでは無いのに。
三蔵はできるだけ心を平静に保つと、ドアを押し開けて中を覗いた。
手前には、テーブルと椅子が一脚。
奥にはベッドがひとつと、ベッドサイドに灯りが乗っている小さな台。
窓は、突き当りと横の壁にひとつずつあった。
悟浄は袋から取り出したビールをテーブルに広げているところだった。
戸口に三蔵が立っているのに気付くと、無言のまま首を軽く振って中へと誘う。
三蔵もまた無言で、部屋に足を踏み入れると後ろ手にドアを引き寄せた。
このドアには、ドアノブのボタン式の鍵の他に、やや上部に横に差し込む形の鍵が付いている。
それは内部からのみ使用可能な内鍵だ。
三蔵は、自分の部屋の構造と同じなのを確認してから、ドアは完全に閉めずに少しだけ開けておいた。
もし問われれば、すぐに腰を上げるつもりだから、と答えは用意してある。
本当は、密室になるのを避けて、という理由の方が大きいのだが、それは敢えて自分でも考えないようにしていた。
◆
軽く缶を持ち上げて悟浄がひとりだけ乾杯の真似事をする。
椅子に腰掛けていた三蔵はそれには付き合わず、先にごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。
一気に流し込んだ後、ふうっと息を吐いて呼吸を整える。
と、その時、ベッドに腰を下ろした悟浄が口を開いた。
「買い出しに行った時、店員から聞いたんだけどよ」
「何だ」
「さっき逃げたって言ってた強盗、ちょっと前に捕まったって」
「……」
ちらりと視線を寄越しただけで、三蔵は手にしていた缶を口に持って行き、またごくっと一口飲んだ。
「良かったよな」
「何がだ。 例え金品や薬が元に戻ったとしても、強盗に押し入られたという事実は消えやしねぇ」
「そりゃそうだけど、まだどっかにうろうろしてんじゃねぇかと怯えてるよりはいいじゃねーか」
「………」
三蔵は無意識のうちに、自分の場合に置き換えて考えていた。
例え暴漢が生き残っていたとしても、その存在に怯えて暮らすことなどしない。
いつでも立ち向かう用意はしておくつもりだ。
だが、もうその相手もこの世にいない。
だから、己を縛るものは何もないはず。
そのはずなのに……。
飲み干した缶を力任せにぐしゃりと握り潰す。
すると、代わりのビールが三蔵の目の前に差し出された。
「まだまだあっからよ、遠慮すんな」
「てめぇの奢りだからな……」
心の内を悟られないように敢えて軽口を叩く三蔵を、悟浄は何も言わずに見守っている。
そう、悟浄はずっと三蔵の様子を気にしていた。
強盗騒ぎを耳にしてから、三蔵がそれまでと違ってどこかぴりぴりした雰囲気を漂わせていたから。
それは、余程注意していなければ気付かないくらいの微かな気配ではあったが、悟浄にはわかってしまった。
――― 自分と重なったのか……
悟浄だけが知っている、三蔵の秘密。
痛ましい姿の三蔵に直面した時は、三蔵を汚した男どもの存在が悟浄にも纏わりついていた。
しかし、自分が三蔵を求めていると自覚してからは、他のヤツのことなどは気にならなくなった。
いつも三蔵しか目に入らなくなっていたから。
二人の関係だけに意識が向いたから。
三蔵のあるがままを受け入れる覚悟があるかどうかと問われれば、即答はできないかもしれない。
元より、三蔵の人生を引き受けようなどとは考えていないのだ。
ただ、自分と接している時に、三蔵が他の煩わしさから開放されれば。
生きているという実感を、肌で感じさせることができれば、それで……。
もちろん、そこに己の欲望が絡んでいるのは承知している。
三蔵の瞳に、自分の姿だけを映したい。
その肢体に、滾った分身を埋め込みたい。
自分も生きているのだと、三蔵の中で感じたい……………。
悟浄はふと、会話が途切れ静かになっているのに気付いた。
それで気まずくなっているわけでも無いが、ただ黙々と飲むだけというのも芸が無い。
「なあ」
特に何を話すか決めかねているうちに、するっと口から声が出てしまった。
「何だ?」
面倒臭そうに返事をされ、眇めた紫暗の瞳に見据えられて、悟浄はその先を続ける努力を強いられた。
「あー、あのよ… “三蔵” ってのは役職名みたいなもんだろ?」
「そうだが」
「おまえだけの名前ってあったよな?」
「それがどうした」
訝しむ三蔵には構わず、悟浄は先を続ける。
「えーと……あ、玄奘だ!」
「………」
「玄奘三蔵法師」
「………」
「あれ? 何、怖い顔してんの、玄奘〜?」
「……貴様がその名を呼ぶな」
全くの他人にそう呼ばれても別に何とも思わない。
だが、今この場所で、改めて悟浄の口からその名が出ると、身体中の毛穴が開くような感じになった。
ぞわぞわと落ち着かず、脈も速くなっているのがわかる。
あの方が付けてくれた唯一の名前を、あの方よりも心を占領してしまっている男が呼ぶ。
唇を奪われても、身体を開かされても、心は渡さないでいるつもりだった。
しかし、名を呼ばれただけで、大事にしていた最後の砦に侵入されている気分になってしまう。
――― 何故だ…何故、この男はいつも………
意識し過ぎているのだとわかっていても、過剰反応を止められない。
それに、この部屋には自分で入ってきた。
この状況を招いたのは自分自身なのだ……。
「何で、いいじゃねぇかよ、減るモンじゃ無し」
やや青褪めている三蔵には構わず、悟浄がまだ拘りを見せている。
――― もう、これ以上ここにはいられない……
三蔵は手にしていた飲みかけの缶をテーブルに叩き付けると、椅子を乱暴に引いて席を立った。
「戻る」
そう言って悟浄に背を向け、ドアへと近付きノブに手を掛けた。
その時。
「!!」
突然、背後からぬっと手が伸びてきた。
驚いた三蔵が一瞬身を硬くする。
早鐘のように打つ心臓の音が煩いほどに耳まで響く。
見開かれた紫暗の瞳が凝視している前で、その手はドアを押して閉めると、上部の鍵を横にスライドさせた。
さっきまで確保してあった退路が絶たれてしまっている。
「何のつもりだ……」
「ごちそうさま、は?」
三蔵のすぐ後ろから、悟浄のどこかからかうような口調が聞こえた。
「……その手をどけろ」
内鍵を解きたくても、悟浄の大きな掌が鍵の部分を覆ってしまっていたのでできない。
実力行使で無理にどかせることもできただろうが、その手に触れるのを三蔵は躊躇った。
「聞こえなかった?」
三蔵の命令には従わずに、悟浄が吐息だけで言う。
「ふざけんなっ!」
耳元で囁かれ、ぞくりと身震いした三蔵が、振り向き様に悟浄に小銃を突き付けた。
しかし、悟浄は腹部に押し当てられている銃には見向きもせず、ただ三蔵の瞳だけを真っ直ぐに見つめている。
「っ……?!」
身体で押し返すようにしながら、悟浄が距離を詰めてきた。
優勢なはずの三蔵が、思いがけない反撃を食らって困惑している。
ほとんど密着する寸前の二人の身体の間で、小銃が行き場を無くしていた。
「!」
悟浄が、内鍵を押さえていたのとは反対の手を、三蔵の頭部のすぐ横に付く。
下から睨み上げても紅い瞳は怯まず、更に身体を押し進めてくる。
三蔵の背中がドアに張り付く形になった。
これ以上、後ろへ下がれない。
逞しい腕に囲まれ、逃げ道も無い。
直接にはどこも接していないのに、三蔵は悟浄に絡め取られている気分になっていた。
「三蔵」
「!」
低い囁きに、トクンッと胸が高鳴った。
そんな自分に途惑いを覚え、頭が混乱する。
「この呼び方ならいいんだろ? 三蔵…」
悟浄の顔が、三蔵に接近してくる。
額の印に悟浄の唇が触れた瞬間、びくっ、と反応して三蔵が目を瞑った。
ちゅっと音を出した唇は鼻先でも同じ音を立て、瞼、頬、耳の付け根、顎、と辿ってゆく。
あくまでも優しい動作で悟浄の唇が三蔵に触れる。
二人の身体の接点は、小銃の他はこの唇だけだ。
なのに、三蔵は身体全体を悟浄に拘束されているような感覚に陥り、抵抗もままならなくなっていた。
三蔵の空いている片手が縋るものを求めるかの如く、ドアに張り付く。
コツ、と爪が木の板を引っ掻く音がした。
身動きが取れない中で、顔を背けながらも、三蔵は逃げ切れずにそのくちづけを受け続けている。
悟浄の唇が三蔵の耳朶を這い、舌先が穴の奥へ差し込まれた。
ぴちゃり、という大きな音が頭の中で聞こえた気がして、三蔵は耐え切れずにかぶりを振った。
すると、首を竦めて逃げ場所を探している三蔵の唇に、悟浄のそれが触れた。
「!!」
電流が流れたような感覚。
一瞬、三蔵の動きが止まる。
その隙を逃さず、悟浄は三蔵の唇を自分の口で覆った。
逃れようとすればするほど、悟浄の舌が割って入る結果となった。
んっ、と息を詰めた三蔵が悟浄に取り込まれてゆく。
逃れるのは不可能では無いはずだった。
けれど、悟浄に巧みに誘導されるままに、三蔵の顎は上がり、唇は開き、舌の侵入を許してしまっていた。
悟浄が与えるくちづけが、更に深くなる。
小銃を構えていた手も重力には逆らえずだらりと伸びて、ドアにぶつかった拍子にコンと音がした。
しかし二人ともそれに構わず、ただひたすらに相手の唇を貪り続けている。
そのうちに、三蔵の足元が危うくなってきた。
ガクッと揺れて立っていられなくなった身体を、悟浄が自分の下半身を押し付けて支える。
密着している局部を感じて、悟浄のくちづけが激しさを増した。
息もできないほどに絡み合う。
三蔵の頭の中が真っ白になる。
ただ求められるままに応えることだけに夢中で、悟浄の手が下りてきていたのには気付かなかった。
「ふうっ……」
ようやく、長い長いくちづけから解放された。
悟浄がゆっくりと三蔵から身体を離す。
三蔵は酸素を求めて喘ぐように荒い呼吸を繰り返している。
その時、三蔵がかろうじて握っていた小銃が、悟浄に奪われてしまった。
「はっ!!」
慌てて手を伸ばしたが、悟浄は一歩下がって不敵な笑みを浮かべるだけだ。
「隙あり」
「返しやがれっ」
まだ肩で息をしながらの三蔵に睨まれても、悟浄はその表情を変えない。
「自分で取り戻せば?」
「てめぇっ!!」
三蔵が一歩踏み出すと、悟浄はくるりと背を向けて、挑発するように銃をひらひらと頭の上で振って見せた。
「ンの野郎っ!」
その背に飛び掛り、腕を引き寄せるべく三蔵の手が伸びる。
が、悟浄の方が上背がある為、簡単には銃に届かない。
揉み合っているうちに勢い余ってよろけ、その拍子に、共にベッドに縺れ込んで倒れてしまった。
気付くと、悟浄の上に三蔵が跨る格好になっている。
「返せ」
ベッドに沈んだ悟浄の喉元を締め付けつつ、三蔵が低く唸る。
「コレは、ここに」
悟浄が腕を伸ばして、ベッドサイドの台に銃を置いた。
それを見た三蔵が、悟浄から離れて取りに行こうとする。
しかしその動きよりも一瞬早く、悟浄が自分の胸倉を掴んでいた三蔵の手首を握り込んだ。
「なあ、このままシようぜ」
「!」
突然の悟浄の台詞に、三蔵が固まった。
悟浄の舌や手の淫らな動き、高ぶる分身の熱さ、強さ、逞しさ……、それらの感覚が瞬時に三蔵の身を包んだのだ。
手首を握られているだけなのに、まだ形勢は自分に有利なはずなのに、身体が動かない。
顔が火照る。
息が上がる。
下半身が、疼きそうになる……。
だが、三蔵の脳裏に悟浄が放ったある言葉が甦った。
「男に乗られんのは、………趣味じゃねぇんだろ……」
求められていたと感じたのは錯覚だったのかもしれない。
そんな風に思った為に、興奮が鎮まりかけた。
けれど、
「えっ!! そんなこと気にしてたのかよ」
と、悟浄が目を見開いて驚いているのを見て、胸の奥が再びざわめきだした。
「誰がっ!……」
「おまえは別」
「っ……」
低音で響く悟浄の声が、三蔵の身体の隅々にまで染み渡る。
酔いのせいだけでは無い赤味が頬に差した。
「……んじゃ」
悟浄は掴んだ腕を引き寄せた拍子に身体を反転させて、三蔵を自分の下に抱き込んだ。
「これならいいだろ?」
紅い瞳に見下ろされ、三蔵が息を呑む。
悟浄の唇が近付いてくる。
それに釣られるようにして、三蔵の瞼がゆっくりと下りてゆく。
窓の外で眩しいくらいの稲光が走った。
映し出された二つの影は、ひとつに重なろうとしていた。
次へ→