〔18−1〕
いよいよカミサマとの最終戦の火蓋が切られようとしていた。
城の門の前に三蔵一行が並ぶ。
その表情は、それぞれに抱えた思いが滲み出ていて、とても険しい。
悟浄が足で門扉を蹴って開けた。
だが、何の反応も無い。
辺りは静まりかえっている。
一歩一歩、慎重に中へ入ってゆくと、目の前に立ち塞がった大きな扉の向こうから突然声が聞こえてきた。
侵入者に対するとは思えない明るい調子だが、四人の間に緊張が走る。
咄嗟に、二手に分かれて扉の脇の壁に一旦身を隠した。
この先には何が待ち構えているかわからない。
けれど、ここまで来ればあとは進むだけだ。
扉の片側には八戒と悟空が、そしてもう一方で様子を伺う三蔵の後ろには、悟浄がぴったりとくっ付いていた。
悟浄の鼻先で金糸の髪が揺れる。
自分よりも少し背の低い三蔵。
細い肢体は、抱き締めれば悟浄の腕の中に収まってしまう。
と言っても、決して弱々しいわけでは無い。
しなやかな筋肉が付いた身体は、数々の修羅場を生き抜いて来た結果だろう。
あちこちに刻まれた傷も、その過酷さを物語っていた。
そして、安息の時は許されず、今また修羅場を迎えつつある。
悟浄は、三蔵を背後から守るかのように身を寄せた。
「お入り下さいってか?」
三蔵の頭の上から声が降ってきた。
低音の囁きが耳から入り込み、剥き出しの肩が一瞬ぞくりと震える。
背中に密着している悟浄を意識してしまいそうになったが、今はカミサマを倒すことだけを考えなければならない。
三蔵はぎりっと奥歯を噛んで気を引き締め、取っ手に手を伸ばした。
扉を押すと、中に見えた小さな影。
四人を出迎えたのは、身体は一つなのに頭が二つという、奇妙な姿をした人形だった。
◆
人形の指示に翻弄されながらも、三蔵たちは城に施された様々な仕掛けを掻い潜ってゆく。
そして遂に、カミサマがいる場所まで辿り着いた。
対峙したカミサマは、遊び相手が来たことを無邪気に喜び、楽しそうでさえある。
が、すぐにその顔から笑みが消えた。
戦い自体をゲームとして楽しむつもりだったらしいけれど、四人の動きが前とは違っていたのだ。
思うように攻撃できない状況に苛立ったカミサマが、徐々に追い詰められていく。
「弱いくせに…、弱いくせにッ!!」
まるで子供の如くに喚き散らして術を繰り出すカミサマに悟空が突進すると、首に掛けた数珠がダメージを受けた。
「しつこいなぁッ!!」
怒り狂ったカミサマが四人に向かって力をぶつけた。
やはりその威力は圧倒的だ。
三蔵たちは立っていられず、地面に倒れ伏してしまった。
もうつまらない、降参しちゃえ、とカミサマが癇癪を起こしている。
その前で、三蔵がゆっくりと身を起こした。
「貴様にとっては生き死に自体がゲーム感覚のつもりなんだろうが、生憎俺達がやってんのは 『賭け事』 でな」
カミサマが、何を言っているのかわからないという表情になった。
「…賭けてるモンは命じゃねぇんだ」
だが、カミサマは三蔵の言葉を理解することも無く、ひたすら法力で四人をねじ伏せようとする。
その攻撃により身体を激しく傷付けられてゆく中で、三蔵は、初めてカミサマと顔を合わせた場面を思い出した。
三蔵もカミサマもまだ子供だった頃のこと。
その時、ひとりの男とも出会った。
当時最年少で 『三蔵』 となった、額に印を持たない異端の僧、烏哭三蔵法師。
それは、カミサマの先生でこの城を作った人物らしい。
先生が全部を自分に託して三蔵の任を降りたから、「僕は本物の三蔵法師だ」 とカミサマは主張する。
しかし、三蔵はカミサマが経文を所有していない事実を突き付けた。
つまり、
「 『三蔵』 だけは与えられなかった」
その瞬間、カミサマの口から出たのは辺りに響き渡る絶叫。
と同時に、床を埋め尽くしていた人形たちが一斉に四人に襲い掛かってきた。
身動きが取れない中で、三蔵の唇が真言を唱える。
「魔戒天浄!!!」
三蔵の声でカミサマの肩に乗っていた経文が発動し、人形たちを消し去った。
そして、経文は役目を終えると、三蔵の手の中にするりと戻ってきた。
「てめぇにくれてやるモンなんざねぇんだよ、何ひとつな」
「…返せよッ、返せぇぇ!!」
再び術を使おうとしたカミサマの腕を悟浄が掴む。
「…長ぇ 『鬼ごっこ』 だったな、つかまえたぜ」
しかし、カミサマは攻撃の手を緩めない。
数珠を腹部に受けた悟浄が倒れると、後ろには悟空がいた。
壁まで投げ飛ばされながらも、その悟空も倒したカミサマの前に、次は八戒が立っていた。
気功を繰り出すようなポーズをしたのを見て、カミサマも法力を使う。
だが、放たれたのはカミサマの数珠だけ。
八戒は突然手を広げてすっくと立つと、抵抗もせずにカミサマの攻撃を正面で受けた。
「――何で?!」
「…いいんです。 もう済みましたから」
「え……」
カミサマがふっと視線を下げる。
目に飛び込んで来たのは、血に染まっている自分の身体。
痛みは遅れて襲ってきた。
予想外の事態に驚くカミサマの前で八戒が倒れると、その後ろには銃を撃ち終わった三蔵の姿があった。
「…仲間を盾に……?」
叫び声を上げて崩れ落ちたカミサマのそばへ、三蔵が近寄る。
「俺には俺の生き方が、玄奘三蔵の称える 『無一物』 がある」
三蔵の声に、迷いは一切無かった。
『…賭けてるモンは命じゃねぇんだ』
命があることは大前提。
その上で、どう生きるかが勝負なのだ。
賭けた物は、己の生き様。
前を向いていられたか。
自分らしくあれたかどうか。
勝つか負けるか、日々そのものが賭け事で。
結果が出るのは、終わりの時。
それは多分、まだまだ先のこと。
「俺にはなんにもないのにッ、君は色んな物、持ってるじゃんか」
カミサマが 「わかんないよ」 と言って泣き出した。
小さな頃、自分を拾ってくれた先生は多くの物を与えてくれた。
けれど、それらは本当に自分の物とは言えなかったように思うし、また、世界の全てでは無かったのだ。
三蔵一行と出会ったせいで、持っていない物の存在に気付いてしまった。
人が持っているのを見てしまったから欲しいと思ったのか。
それとも、それこそが、本当に欲しいモノだったのか。
「…ねぇ、俺に頂戴?」
「やらねぇよ」
三蔵の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
コレらは全部、俺のモンだ。
どれも簡単に遣り取りできるような物では無いし、何より、己自身で手に入れなければ意味が無い。
「…ケチ」
三蔵に向けてカミサマが微かに呟くと、瞬く間に城が崩れ始めた。
地震かと思うような轟音が身体に響く。
「……ああ、そっか」
ゲームはもうおしまいなんだ、とカミサマが仰向けになったまま諦めにも似た表情を浮かべた。
一緒に逃げるべく悟浄が引っ張り上げたが、カミサマはその手を振り払い、弱々しく笑っている。
「ここで待ってるんだ」
「え?」
消え入りそうな声は、悟浄の耳にはっきりとは届かなかった。
もう時間が無い。
懸命に四人が走る。
その姿が遠くに去った後、カミサマの前にひとりの男が現われたことを、三蔵たちは知る由も無い。
◆
「あ――…、終わりましたねぇ…ひとまず」
「…だな」
門の外まで逃げ切った四人は、崩壊が鎮まったのを確認すると、そのまま地面に倒れ込んだ。
頭を寄せ合う形で、四方に四つの身体が投げ出される。
「気ィ抜けたら急に痛みが来やがった」
そう言いながら、悟浄がごろりと身体を横に向ける。
と、手に何かが触れた。
それは、横に寝転んでいた三蔵の法衣だった。
血と埃で汚れたその布に、そっと触れてみる。
もう少し手を伸ばせば、三蔵の肌に届くだろう。
だが、悟浄は法衣の袖を確かめるだけに留めた。
三蔵と自分との関係をどうするか、考えるのはもう少し後でも構わない。
今は暫し、戦いを無事に終えた後の余韻に浸っていたい。
四人の頬を、柔らかな風が撫でて行った。
ここですべき用は終わったけれど、それは次の行程の始まりにしか過ぎない。
旅は、まだまだ続くのだ。
◆
珍しいこともあるもので、三蔵がジープを運転すると言い出した。
自分よりも傷付いている下僕三人を見て、三蔵なりに思うところがあったのだろう。
しかし、運転の経験など、あろうはずもない。
それを三人が知ったのは、ジープが唸りをあげて発進した後だった。
〔18−2〕
「休憩だ」
途中、見付けた小屋の前で荒っぽくジープを停車させると、三蔵はふうっとひとつ大きく息を吐いた。
一拍遅れて、安堵の溜め息が後部座席からも漏れる。
「かーーーっ、もう死ぬかと思ったぜ」
「こ…怖かった……」
「僕は平気でしたよ」
生きている喜びを分かち合っている悟浄と悟空に、助手席の八戒は前を向いたまま涼しげな声で加わった。
「なかなかスリリングで、むしろ楽しかったです」
「おめーは神経質なのか図太いのかわかんねぇ時があるな…」
「うんうん」
「何か言いました?」
「いえっ、何でも無いでーす!」
振り向いた八戒の顔に乾いた笑みが浮かんでいるのを見た二人は、声を揃えて慌てて否定した。
三蔵は既に運転席を離れ、ジープのボンネットに凭れて黙々と煙草を吸っている。
「ここ、空き家なのかな?」
悟空が飛び降りて駆け出したのに続いて、悟浄ものんびりと小屋に近付き中を覗いた。
それほど広くは無い一間だけの建物だった為、すぐに隅々まで見渡せる。
「誰かいますか〜? いませんね〜っと」
無人だと報告しようとした時、ジープを降りた八戒の顔が痛みで僅かに歪んだのを、悟浄は目の端に入れてしまった。
カミサマの攻撃をまともに受けたのだから、大丈夫なはずが無い。
しかし、本人がすぐに平気そうに振舞ったので、声は掛けずにいた。
ただ、荷物を探る振りをしてジープに戻り、わざとらしくならない程度に八戒のそばまで近寄った。
「井戸もあるみたいですから、ここで手当てをしておきましょうか。 三蔵、中に入ってください」
八戒がジープに掴まって立ったまま、普段と同じく穏やかな声で三蔵を促す。
「寝惚けたこと言ってんじゃねぇよ。 貴様の方が重傷だろうが」
「でも、少しでも気功で傷口を―――」
「俺に構うな」
三蔵は吸殻を指で弾いて捨てると、三人を残してその場を離れた。
「あのクソ坊主は一番元気なんだから、後回しでいいんだよ。 それより八戒」
いつもの軽い口調が途中から変化して、トーンも一段下がったように聞こえた。
名前を呼ばれて振り向くと、悟浄の眉間に皺が寄っている。
「自分の身体を心配してやれ」
どこか怒っているとも取れる表情を見て、八戒は素直に従うことにした。
「…はい」
差し出された悟浄の肩を借り、痛む身体を引き摺りつつ歩き出す。
もう強がらず、素直に自分も怪我人だと認めた途端、張っていた弦が切れたかの如くガクンと力が抜けた。
「猿っ! おめーも手伝え」
「う、うん」
三蔵の後ろ姿を目で追っていた悟空が、反対側に廻って悟浄と共に八戒を支えた。
「八戒、大丈夫か?」
「ええ、少し休めば平気です。 次はまた僕が運転しますから」
見上げてくる金色の瞳に、優しげに笑みを返す。
「無理すんじゃねぇよ。 運転くらい、俺でもできるっつーの」
悟浄が窘めるように言うと、八戒は 「スミマセン」 と小さく謝った。
「…では、お任せしましょうか……」
仲間の傷の手当てもジープの運転も自分の役割だというのに、今は役に立っているとは言えない状況だ。
ふと過った空しさに、八戒はまた支配されそうになっていた。
時折、どうしようもなく落ち込むのは八戒の悪い癖でもある。
既に答えが出ている事柄であっても、ついネガティブな方向に思考が働いてしまうのだ。
再び論理的に気持ちを立て直せば浮上できるのだが、何かの切っ掛けでゼロからの遣り直しになってしまう。
酷い場合はマイナスからだ。
堂々巡りを繰り返しているだけにも受け取れるが、その時々で心をコントロールするのはなかなか難しい。
今がまさしくそうだった。
悟浄や悟空が素早く動いたのを見た時、つい比べてしまった。
自分は三蔵に対して何ができているのだろうか、と。
それぞれに役割分担があるのだから、己のできる範囲で頑張ればいいとは思う。
そう思える間はまだいい。
動けない時が、一番辛い。
必要とされていないのかも、と考えてしまい、余計に自分を落ち込ませてしまうから。
八戒の視線が次第に下へ行き、やがてがっくりと俯いてしまった。
その暗い表情をそっと盗み見た悟浄が、
「おらっ、ここに座れっ」
と、木で作られた長椅子のような台に抱えていた身体を投げ出した。
「もっと丁寧に扱ってくださいよ…」
怪我人に対するとは思えない乱暴な素振りに、八戒が苦笑を漏らす。
「はいはい、文句言わない。 次がつかえてんだからさっさとやるっ。 俺は猿の手当ては受けねーからな」
「…悟浄」
そうだ、まだ自分にもできる仕事が、やらなければならないことがあるじゃないか。
仲間は三蔵だけでは無いのだ。
悟浄と悟空の手当ては自分がしてあげたいと思った瞬間から、八戒の思考回路は活発に動き出した。
二人の傷の具合を目で確かめつつ、治療の手順を頭の中で描く。
そのうちに、八戒は少し前の落ち込みを暫し忘れた。
浮上の切っ掛けなど、どこにでも散らばっているものだ。
「悟空、水汲んできてくれ」
「わかった!」
悟浄と八戒が話している間に救急セットを取って来た悟空は、小屋にあったバケツを手にして井戸へと向かった。
空き家なので、井戸もどのくらい使われていなかったかわからない。
枯れ井戸ならば、どこかで水を調達しなければいけないだろう。
そんなことを思い巡らしていた八戒の耳に、勢い良く水が送り出される音が聞こえてきた。
あれなら、十分に使えそうだ。
ならば、他にも簡単な洗い物くらいはやっておこうか。
八戒が井戸の方を見遣って、いつものように段取りを組み立ててゆく。
その横で、悟浄が消毒薬や傷薬などを取り出しながら呟いた。
「四人だからこそ、か…」
「え…?」
「いや、さっきのコト、改めて思い返してんだけどよ、なかなかすげェ作戦だったなあ、と」
「成功して良かったですよね」
最初は無謀にも思えた戦いに再び挑めたのは、四人いたからだ。
ひとりでは勝てなかった相手であっても、この四人だったから何とかなった。
「最初、聞いた時はビックリしたけどなー」
「そうですか?」
「てめぇの身体を盾にできるか? 普通…」
「俺なら、倒しに行っちまう!」
バケツいっぱいに水を汲んできた悟空が戻ってきて、横から会話に割り込んだ。
「でも、あの場合はそれが一番確実な方法に思えたので…」
「そーいうのをさ、当然のように思いついて、事も無げにやっちまうってのがすげェよな〜」
「うん、八戒ってすげェ!」
「…え?」
悟浄の言葉通り、八戒は当たり前の行動をとっただけだと考えていた。
先制攻撃は二人に任せて、自分は防御を兼ねて応戦すると見せかけ、敵の攻撃を全て受けとめる。
どう考えても、それは八戒が適任だ。
だから、そんな風に改めて賞賛されるとは思わなかった。
「そこまでできるのって…」
「……」
水で濡らした布で血や汚れを拭き取ると、傷口を消毒。
その手は止めずに、悟浄が静かに問う。
「三蔵の為?」
作戦の最終目的は、三蔵に銃を撃たせることにあった。
「ええ」
三蔵に救われたこの命、使うのならば三蔵の為に。
自分が今あるのは三蔵のおかげなのだから、これくらいは当然なのだ。
答えた八戒の口元に微笑みが浮かんでいる。
しっかりとしたその声に込められた想いを、悟浄も悟空も感じ取った。
「でも、お二人もでしょ?」
悟浄と悟空の、それぞれの目を見つめて八戒が問い返す。
「だな」
「ん!」
悟浄の返事に、悟空もしっかりと肯いた。
己の身体を張れるのは、そこにいるのが三蔵だから。
想いの種類は微妙に違っても、三蔵が大切な存在なのは三人とも変わらない。
「一応、“三蔵様御一行” だからな〜。 アイツがいなくなっちまえば、チーム名を変えなきゃなんねぇし」
「その前に、三蔵が不在では旅をするそもそもの理由が無くなるでしょ」
その通り、三蔵の旅の同行者として自分たちは選ばれた。
三人は最初から、三蔵の為に集まっていたのだ。
悟空はふと、三蔵と出会ってからの日々を思い出した。
キラキラと輝いていた金色の人間。
ひとりぼっちだった自分を、広い世界に連れ出してくれた。
三蔵は、何者にも替え難い存在だ。
三蔵に対する想いは、悟空にとって何よりも優先される食欲をも超えてしまうくらいなのだ。
傷薬を塗られ、テープや包帯で覆われながら、八戒もまた考えていた。
カミサマと戦うにあたって初めて行った連携プレー。
あれが成功したのは四人が力を合わせた結果だ。
そう、自分もちゃんと一翼を担っているではないか。
“無一物” という言葉に 『囚われていた』 と三蔵は言っていた。
自分もそうなのかもしれない。
“己の役目” という枷を自分自身で作ってしまって、そればかりに気を取られていた。
その遂行にやっきになっていた。
だが、そんな “役目” など、誰がやっても構わないのだ。
怪我の手当ても、ジープの運転も、その時にできる者や手が空いている者がやればいい。
そう思うと、肩の力がすうっと抜けていくような感じになった。
必要以上に寄り掛かったりはしないけれど、いざという時の協力は惜しまない。
それが、仲間というものだろう。
(でも、できる限りそのポジションは僕が頑張らせてもらいますけどね)
やることは同じでも、気構えが違うだけで負担の度合いも変わってくる。
この先はまだ長いけれど、明るい道程に思えた。
「ほいっ、完了」
「ありがとうございました。 じゃあ、次はどちらを…」
「悟空、水替えてこい」
「またかよ! 人使いが荒いんだよっ!」
「悟浄が先、ってことですね」
「小猿ちゃんは一番若ぇんだから、後あと〜」
笑いつつ手当ての準備を始めた八戒に、悟浄がさも当然といった声で返した。
「年寄り河童ーーーッ!」
悪態を吐き、悟空が再び井戸へと向かう。
「あれだけ文句言う元気があるんだしな」
悟空の挑発には乗らず、悟浄は服を脱いで傷口を晒した。
そこへ、八戒がてきぱきと治療を施してゆく。
暫し、無言のまま時が過ぎたが、ふと悟浄が遠くを見るような眼差しになった。
「終わったら、三蔵を探しに行ってくンな。 一応、アイツも手当てしとかねぇと」
「ええ、お願いします」
口ではそう頼みながらも、胸の奥がチクリと痛む。
三蔵と悟浄が二人だけになると、どこか嫉妬している自分がいる…。
今までは努めて気にしないようにしてきた。
けれど、八戒はその感情を自分が内包している事実を、もう素直に認めることにした。
徹夜麻雀を終えて一眠りした後、食事の用意ができたのに姿を見せない三蔵と悟浄を呼びに行った時。
ドアの前まで来ると、開けるのを躊躇した。
結局、声を掛けるだけで済ませてしまったが、その為にかえって遅くなった理由が気になって仕方が無かった。
ただ、しばらくはそんな自分は無視して、二人に敢えて聞こうともしなかった。
三蔵と悟浄は、部屋で一服していただけだ。
寝起きの煙草をゆっくりと味わっていたから遅くなったのだろう。
…と、そう思うことにして。
でも、無理に感情を抑えてしまうと、もやもやが残って消えてくれない。
そんな精神状態では、任務にも支障が出かねない。
だから、自分の想いを押し殺さず、抱えている醜い感情ともきちんと向き合おうと思った。
辛さが増すことになっても、認めてしまえばある程度はスッキリするのだ。
それにより、意識外に追い出していた部分も受け止められるようになるだろう。
三蔵と悟浄が時折作り出す、自分が入れない二人だけの空間。
喫煙者同士、というだけでは無い、もっと違う何かを感じたのはいつからなのか。
特に接点は無かったはずなのに、いつの間にか他の者には見えない関係が生じているように思えた。
絆とは違う、もっと別の…。
「ん? どした?」
視線を感じた悟浄が振り向くと、八戒の手が止まっていた。
「あ…いえ、何でも……」
取り繕うように言った八戒が、手当ての続きを開始する。
「考えるより先に行動、ってのも大事だぜ」
「え……?」
考えていた内容が顔に出ていたのだろうか。
しかし、「何のことか」 と問い返す前に、悟空が戻ってきた。
「ほい、水っ」
新しい水で満たされたバケツを八戒の足元に置く。
「ご苦労様でした、悟空。 ちょっと待っていてくださいね」
「なあ、やっぱ三蔵も手当てしないとダメだよな」
悟浄に続き、悟空も同じ台詞を口にした。
三人とも、常に三蔵のことが頭にある。
(愛されてますね、三蔵)
悟空に対しては、三蔵と二人になっても特に嫉妬心は湧かなかった。
むしろ、微笑ましく感じるほどだ。
「そうですね、一応、人間ですから」
「呼んでこようか?」
「いや、俺が行ってくる」
「けど…」
「おまえは先に八戒に看てもらっとけ。 あの短気坊主はてめぇの用事が済めばさっさと出発だとかぬかすだろうからよ」
「悟浄……」
自分の傷なんてどうでもいい。
三蔵がちゃんと八戒の手当てを受けてくれるなら、その方が嬉しい。
悟空はそう言い掛けたが、口に出す前に飲み込んだ。
悟浄の真剣な眼差しとぶつかったからだ。
今まで何度か、三蔵を迎えに行く悟浄の背中を見送ったことがある。
一緒に行きたいのに、いつも待っているばかり。
何故、悟浄なのか。
何故、自分では駄目なのか。
悟浄は三蔵にどう接しているのか。
三蔵は悟浄をどう思っているのか…。
気になり始めてからというもの、二人が一緒にいる姿を見ると、胸の奥が重いような痛いような感じになる。
だが、その正体が何なのか、悟空にはまだわからない。
「終わりました」
八戒が手を下ろすと、悟浄は立ち上がって衣服を整えながら悟空の近くまでやって来た。
「すぐに連れ戻してくっからよ」
悟空はもどかしそうにしていたが、悟浄にくしゃりと髪を掻き回された途端、その手を払い除けて八戒の前に座った。
「さっさと行けっ」
つっけんどんに言って、顔を背ける。
視界の外に追い遣られた悟浄は片手をポケットに突っ込み、もう片方は顔の横でヒラヒラと振ると小屋を出て行った。
「さあ、では三蔵が戻る前に済ませてしまいましょうか」
「うん……」
悟空は返事しながらも、どこか上の空のままで服を脱ぎ始めた。
目の前にいるのは八戒なのだが、頭の中は三蔵のことでいっぱいなのだろう。
いつも、自分よりも先に三蔵を第一に考えてきた悟空。
強くなりたいと願うのは、三蔵の為でもあるのだ。
三蔵と離れるなどとは考えもしない。
共に居るという状態が、もう当たり前になっているから。
八戒から見ると、悟空と三蔵の間にあるのは、揺るぎの無いもののように思える。
それは、しっかりと結び付いた絆。
(僕と三蔵の間にあるものは…)
その時、八戒の耳にかつての三蔵の言葉が甦った。
『お前は俺を裏切らない、そうだな』
(ああ…、そうだった……)
何を迷うことがあったのか。
三蔵はちゃんと、自分を仲間として認めてくれていたではないか。
信頼を得ているという事実は、何よりも喜ばしい。
それもまた、絆だと思いたい。
悟浄と三蔵の関係については、不必要に過敏になることだけは避けよう、と考えた。
自分と三蔵との信頼関係が誰にも揺るがされず侵されないものであるように、あの二人にも何かあるのなら…。
それを邪魔する権利は誰にも無いのだから。
この先も、また落ち込んだり迷ったりする場合があるだろうが、その時は三蔵の言葉を思い出そう。
そして、三蔵に選ばれた “猪八戒” という存在を、自分こそが認めてあげよう。
悟空の手当てをする八戒の口元には、仄かに笑みが浮かんでいた。
〔18−3〕
ひとりになった三蔵は、水音に導かれて少し離れた場所まで歩き、辿り着いた川辺に佇んでいた。
揚子江ほどの大河では無いが、向こう岸までかなりの距離がありそうで、大きな川だ。
川面を見るとは無しに見ていると、何かが流れてくるのに気付いた。
赤子くらいの大きさか…。
目を凝らすと、その物体は木切れにぼろ布が巻き付いているだけだと確認できた。
「チッ………」
三蔵は、知らずに入っていた肩の力を抜いた。
赤ん坊の頃の記憶など無いはずなのに、一瞬、自分の姿を重ねてしまっていたのだ。
三蔵の脳裏に、在りし日の光明三蔵法師の姿が浮かぶ。
川を流れていた自分を拾い上げ、育ててくれた恩人。
師である前に、幼子に対してはずっと父として接してくれたのだろう。
三蔵にとっては、この上なく大切な存在。
(俺の心を占めているのは、あの方への想いだけだ……)
双肩の経文にそっと触れる。
他には何もいらない。
そのはずだった。
(なのに、何故…)
「よっ」
(俺は…)
「こんなトコにいたのか」
胸元にあった手は、いつしかもう片方の手首を掴んでいた。
跡が残っているはずの一点に神経が集中する。
(この男を…)
「いつまで休憩してんだ〜」
(こんなにも……)
「初めての運転で疲れたか?」
悟浄が三蔵を見付けて近寄ってきた。
パキッ、と小枝を踏んだ音が三蔵の耳にも届く。
やけに近くで響いたように感じた瞬間、後ろ姿だけでもわかるほどに、三蔵の身体が強張った。
「三蔵……」
実際は、まだそれほど近付いていたわけでは無かった。
なのに、伝わってくる三蔵の緊張。
それは、拒絶なのか、怖れなのか、それとも……。
少し距離を置いて足を止めた悟浄は、「戻ろうぜ」 と声を掛けただけで踵を返した。
今度は足音が次第に遠ざかる。
(え……?)
また “悟浄という激流” に呑まれてしまうかもしれない、と身構えていた三蔵が、思わず振り向いた。
単に、呼びに来ただけなのか?
自分を求めに来たのでは無かったのか?
肩透かしを食らったかの如く、その場に立ち竦んだまま動けない。
ゆっくりと離れてゆく悟浄の背中を、三蔵は呆然とした様子で見ていた。
うまく思考がまとまらない。
声も出ない。
けれど、心の中で、一度だけ名を呼んだ。
(悟浄)
すると、そのタイミングで悟浄が振り返った。
「ん、どした?」
その顔は、四人でいる時と同じものだ。
二人きりの時に三蔵にぶつけられた熱さは欠片も見当たらない。
ただ、三蔵が付いて来ないのに気付いただけなのだろう。
(フッ……)
三蔵は、空しさを感じていた自分を責めるように自嘲の笑みを漏らした。
これでは、俺が何かを期待していたみたいではないか。
馬鹿な……、そんなことは有り得ないのに………。
悟浄は、両手をポケットに入れたままだった。
立ち尽くしている三蔵を見ていた瞳が僅かに揺らいだが、「行こうぜ」 と素っ気無くにも聞こえる声を出す。
その表情からは、何も読み取れない。
促された三蔵が足を踏み出したのを見て、悟浄は再び小屋を目指して歩き出し、そして思った。
前にも一度、こんな風に自分が先に立って歩いていた場面があったな、と。
あの時も、ひとりになった三蔵を自分が迎えに行き、そして…、
(三蔵に触れた…)
その少し前、妖怪との闘いで組み敷かれ首を絞められていた三蔵を見て、悟浄は理性が吹っ飛んだのだ。
白い肌に赤い跡を付け、三蔵自身を口に含んだ。
他の誰も、三蔵に触れさせたくなかった。
自分のものにしてしまいたくなった。
だが、三蔵の熱を開放させてやっただけで、自分自身は抑え込んだ。
あの時は、それ以上三蔵に触れてしまわないようにと、自制の意味でポケットに手を入れた。
そして、今は……。
この間の、酒場の宿で交わした三蔵とのくちづけ。
決して、一方的なものでは無かったと思う。
三蔵も悟浄に応えていた。
あれを、どう解釈すればいいのか……。
…迷っている。
ここで、三蔵を抱き締めてしまうのは簡単だ。
けれど、何故か身体が動かない。
散々好き勝手に貪っておいて今更何を、と言われるだろうが、もう無理強いはしたくなかった。
三蔵を抱きたい、それは今も変わらない。
ただ、奪うのでは無く、互いに熱を感じたい。
それが無理なら、せめて、拒まないで欲しい。
そんな風に先に三蔵の気持ちを考えてしまい、悟浄はそこから動けないのだった。
だから、今はただ暴走しないように手を隠している。
まだ、カミサマとの戦いが終わったばかりなのだ。
じっくり自分の気持ちと向かい合ってからでも遅くは無い。
刹那的感情で行動を起こしても、後悔することになるだけかもしれないのだから。
衝動的な想いとやらが、本質だったという場合もあるかもしれないが。
『考えるより先に行動、ってのも大事』
それは、ついさっき自分が八戒に向けた言葉だ。
どうすればいいのか、どうなるのか、その時がやってくれば、自然と事態は動くのだろうか。
取り敢えずは、
「次、俺が運転すっから」
「……」
返事は無いが、三蔵の視線が背中に突き刺さるのを、悟浄は痛いほど感じた。
今は、それだけで良かった。
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