【第16章】








〔16−1〕


酒場の前でエンジン音が止まった。
すぐに、ドンドンドン、と壊しそうな勢いで扉を叩く音がする。
ほとんどの人が寝静まっていたであろう夜更けの静寂が、突然破られた。

「開けてくれっ!!」

何事かと思ったマスターが顔を出すと、血だらけで衣服もボロボロの悟浄が店先に立っていた。
まだ扉を叩き続けようとしていたのか、握った拳が宙に浮いている。

「あんたは、この間の…?」

その酒場は、金閣や銀閣の情報を得ようと、悟浄が三蔵と共に立ち寄った場所だった。
マスターからは化け物の話を聞かせてもらい、ついでに、絡んできたチンピラを伸したのもそこだ。

「一体、どうしたんだ?」
「こんな時間に悪ぃんだけど、助けてもらえねーかな…」

悟浄が指差した後ろには、店の前に停めたジープに、これまた血塗れの三人が乗っていて、ぐったりと動かない。
その光景を見たマスターは改めて驚き息を呑んだが、すぐに扉を大きく開けた。

「もう店は閉めるところだから構わん、早く入りな」
「サンキュ……」

悟浄はどこかほっとした様子で礼を言うと、先に動き出したマスターの後を追ってジープへと近付いた。
一歩足を踏み出す度に、身体のあちこちが痛む。
だが、荒い息を吐きながらも、歩みは止めない。

手前から運ぼうと、マスターが後部座席の悟空の肩に手を掛けた。
すると、シートに蹲ってぜえぜえと苦しそうにしていた悟空が、ビクッと反応して目を開けた。

「大丈夫か?」

金色の瞳はどこか虚ろで、顔には表情らしいものが浮かんでいない。

「……」
「さあ、中で手当てを……おい!」

マスターの手を振り払ってジープを飛び降りると、悟空はそのまま走り去ってしまった。
建物の裏手へと廻り、もう姿は見えない。
悟浄は後ろ姿を目で追っていたが、諦めたように溜め息を吐いた。

「ったく、悟空のヤツ……。あー、あの猿はほっときゃいいんで、ソイツを頼むわ」
「わかった」
「…どうも、……すみません……」

話し声で意識を取り戻し、自分から立ち上がろうとした八戒が、手を伸ばしたマスターに恐縮して頭を下げた。

「いいから、とにかく中へ」
「はい……」

肩を貸してもらい、ふらつく足取りでジープを降りる。
顔は血の気が引いて青ざめ、立っているのもやっとという有り様だ。
一瞬、痛ましい顔をしたマスターは、八戒を支えつつ顔だけ悟浄へと振り返った。

「あんたも入って休んでなさい」
「ああ、コイツ運んだらな」

悟浄がジープの助手席を覗き込みながら答える。
まだ一番しっかりしている様子を見ると、マスターはそれ以上は何も言わずに店へと入って行った。

「っ!」

二人の姿が建物の中へと消えた後、悟浄の眉根がぎゅっと寄る。
もう、息をするだけでも辛いのだ。
だが、悟浄は懸命に三蔵の身体を抱き起こそうとした。

(三蔵……)

気を失っている三蔵は、ぴくりともしない。
早く治療を施さなければ危険な状態だろう。
焦る気持ちについて行かない身体を叱咤して、三蔵を横抱きにすると何とかジープから降ろした。

「ぐっ…!」

襲ってくる痛みに悟浄は顔をしかめる。
身体中が悲鳴を上げ、新たに血が流れ出た。
抱き上げた身体からも、法衣にまでじわりと滲み出してくるものがある。
妖怪の自分たちでさえ重傷なのだ。
生身の人間である三蔵ならば、命を失っていてもおかしくは無い。
だから、己のことには構わず、一刻も早く三蔵を助けたいとそれだけを考えて、悟浄は力を振り絞った。

「こっちだ」

苦労して中へ入ると、いくつか並んでいる客室のドアをマスターが開けているところだった。
この酒場は宿屋も兼ねていたらしい。
誘導してくれた部屋に運び込み、ベッドに三蔵を下ろして、ようやく一息つくことができた。

「医者を呼んでくる」
「頼む……」
「戻ってくるまで、無理するんじゃないぞ」
「ああ、わかってる」

悟浄は外までマスターを見送ってから、ポツンと残されたジープに近寄った。

「悪かったなぁ汚しちまって…、おまえも洗ってやっから中に入れ」
「キュゥ〜ン」

姿を変えたジープが、羽ばたきながら悟浄の後について行く。
扉が閉まると、辺りは再び何事も無かったかのように静けさを取り戻した。







「ここで待ってろ」
「キュ……」

心配しているような鳴き声のジープを八戒の枕元に残してから、悟浄は三蔵が寝かされている部屋へと入った。
そこは八戒が運び込まれた部屋の隣だ。
入り口から見て向かって右の壁際のベッドに三蔵は横たわっている。

最初に運んだ時のまま、三蔵は身動きした様子が無い。
血に塗れていなければ人形のようにも見える端正な顔で、静かに存在している。
そんな三蔵を見下ろした悟浄の脳裏に、不意に浮かんだ光景があった。

それは、交わりの瞬間。
悟浄の下で、細い身体に熱く滾った物を埋め込まれて、眉根を寄せつつ達する三蔵。
カミサマからの攻撃で苦しんでいた時の表情が、淫らに乱れる姿とオーバーラップしそうになった。
汗と血と埃で汚れているのに、金糸の髪に覆われた蒼白の顔は、壮絶なまでに美しい。
この美しい生き物は、何としてでも助けなければならない。

「三蔵……」

そっと名を呼び、三蔵の身体に手を伸ばす。
血糊でべたべたする腰紐を解いて前を肌蹴させた。
三蔵が流した血で赤黒く染まっている法衣が、ずっしりと重く感じる。
苦労して片腕ずつ袖から引き抜いたが、三蔵はまだ気付く気配が無かった。

アンダーシャツは脱がせるのが無理そうだったので、破れ目から切り裂いた。
上半身を覆う物を取り除いてから、主人が出してくれていたタオルで生々しい傷口を押さえておく。
真っ白だったタオルは、どれもすぐに赤く染まった。
それを辛そうに見ながら、手甲も脱がせておこうと三蔵の二の腕を取る。
くるくると巻き取ると、掌に残った火傷の痕に目が止まった。

(こんなトコにこんなモンあったか?)

小さいが、まだ新しい痕のようだ。
爛れた部分から皮膚の下の肉が覗いている。

(俺が離れてた間に、何が……?)

三蔵が、悟浄の目視できる距離に、手の届く範囲にいたところで、怪我する時はするし、傷もどんどん増えていた。
終始、妖怪たちとの闘いをこなしているのだから、生傷は絶えない。
だが、自分が知らない間にできた新しい傷痕を、悟浄はどこか悔しい思いで見つめた。

(畜生……)

ベッドの脇に屈むと、無意識のうちに、その火傷痕に唇を寄せていた。
まるで、自分が付けた跡に変えてしまおうとするかのように、変色した部分を舌で丁寧に舐めてゆく。

「……!」

下半身に熱が溜まりそうになった。
離れてみて、余計に独占欲が強くなったのかもしれない。
三蔵を想う気持ちで胸が張り裂けそうだ。

掌から唇を離して、心臓の上に手を置いてみる。
伝わってくるのは、今にも止まりそうな微かな鼓動。

(三蔵……っ)

目を覚ませと揺さぶりたい。
気付いてくれと叫びながら、思いきり抱き締めたい。

けれど、その衝動はぐっと堪えた。
他にも怪我人がいるのだ。
今は、全員が助かることを先ず考えなければ…。

三蔵の身体は、相変わらず血塗れの状態だ。
シーツも血で汚れてしまったので、窓際にあるもうひとつのベッドに移してやろうかと考えた。
だが、それは医者たち他の者に任せることにした。
もう、自分ひとりでは無理だと判断を下した結果だ。

手が小刻みに震えている。
足はふらつき、視界も霞む。
それでも、まだ倒れるわけにはいかない。

悟浄は三蔵の部屋を出ると、隣へと急いだ。
カミサマから逃げる際に気功を使った為、八戒の余力は残っていないはず。
ジープから降りる時は自分の足で歩いていたが、やはりまた気を失っていた。

(無理しやがって……)

モノクルを外そうと手を伸ばしたところで、悟浄の視界がぐらりと揺れる。
気付くと、膝からがっくりと崩れ落ちていた。

ジープが、現れて急に消えた悟浄の姿を探すように一瞬辺りを見廻したが、すぐに八戒の頬に頭を摺り寄せた。
いつもの優しい微笑みが浮かんでいない顔に向かって、 「キュゥン」 と不安そうな鳴き声を漏らす。

(クソッ……力が入んねーよ……)

悟浄だって傷付いている。
三蔵を運んだ時点で、本当はとうに力尽きていたのだ。
それに加えて、今は心も弱っているのだろう。
気力が無くなるに連れて、ついさっき聞いたカミサマの笑い声が甦ってきた。

『弱虫!! 弱虫―――!!』

打ちのめされたという事実が改めて現実感を伴って悟浄を襲う。

(負けた…のか、俺ら………)

少しだけ休もうと、悟浄は床に転がって瞼を閉じた。
意識を手放す寸前、「医者を連れてきたぞ」 というマスターの声が、どこか遠くで聞こえた気がした。




〔16−2〕


チャッ。
カシャ。
悟浄がライターを玩ぶ音だけが部屋に響いている。
煙草を吸おうと咥えたものの、それは手が勝手に動いただけで、本当は吸いたい気分では無かった。

じっと横になっていられなくて起き出してみたけれど、身体はまだ思うように動かない。
壁に凭れていたままずるずると滑り落ち、やがて床に座り込んでしまった。
その悟浄の頭の中では、さっきからずっと、これまでの場面がぐるぐると回っている。

カミサマの懐へひとりで乗り込んだが、簡単に倒せる相手では無かった。
悟浄は自分の手で殴らなければ気が済まなかったから武器は使わずに闘った。
けれど、そんなのは関係無かったのかもしれない。

とにかく、敵は圧倒的に強かった。
吐血するほどの攻撃を受けてしまうと、まともに反撃することもできなくなり、苦戦を強いられた。
数珠が首に巻き付き、そのまま身体を持ち上げられてしまった時、もう終わりかという思いが頭を過ぎった。
しかし突然、数珠から解放されると、そこには居るはずの無い三人が立っていたのだ。

――― あいつなりに、借りを返したつもりなのか…?

悟浄を苦しめていた数珠を断ち切ったのは、三蔵が撃った銃弾だ。

『ザマぁねーな、クソ河童』

いきなり、辺りに響き渡る低音の声で罵られた。
尊大な口調は、以前、悟浄に助けられた事実を、これで相殺できたとでも言いたいからなのか。

妖怪に抱きつかれて崖から落ちそうになった時。
金閣の攻撃で触手が身体に巻き付き、身動きできずに翻弄されていた時。
どちらも、悟浄が身を呈して三蔵を助けた。

悟浄としては、身体が自然と動いただけで、当たり前の行動を起こしたに過ぎない。
助けたからどうこう、などとは考えもしなかった。
ただ、三蔵を他人によって傷付けられたくないから、三蔵を失いたくないから、そうしたまでのこと。
だが、三蔵は悟浄に対して借りを作ったままのように思っていたのだろう。

久々に聞く三蔵の声が耳からじわりと身体に入り込むのを感じ、悟浄は思わず傷の痛みを忘れた。
そして、声の主に目を遣った。
ほんの数日しか離れていなかったのに、三蔵の姿がやけに眩しい。
怒っているらしいが、どこか皮肉を込めた顔付きは、逆に悟浄に安堵感をもたらしてもくれた。

怒りと言うならば、後ろにいた八戒と悟空の方が三蔵に負けず怒い顔をしていたかもしれない。
いきなり悟空に蹴りを入れられ、その後は三人がかりで足蹴にされた。
自分がそれほど怒りを買うような行動をしたとは思っていなかったので、悟浄は驚きが先に立った。
しかし、そうでは無かったと、八戒の言葉で気付かされたのだ。

『空き缶を灰皿にした罰じゃないですか?』

確かに、出て行った夜は手近にあった空き缶に吸殻を突っ込んでいた。
でも、本当に言いたかったのはそんなことでは無いだろうに。
つまりは、あの夜の悟浄の行動を怒っているのだと、そう言いたいのだ。
婉曲な表現が、かえって本質を的確に突いてくる。
そんな八戒のおかげで、悟浄の口からは素直に謝罪の言葉が出てきた。

『…ワリ』

悟浄の言葉に仕方が無いといった笑みを浮かべた八戒は、今、目の前のベッドに痛々しい姿で眠っている。

――― 吸うなら、コイツがまた小言を垂れる前に灰皿用意しとかねーとな……

そう思っても、身体は動かない。
けれど…。

チャッ。
カシャ。
意思とは別に、手は動き続けている。

『このバカを殺すのは俺達だ、手を引いてもらおうか』

あの時の三蔵の言葉が再び聞こえてくる気がした。

――― 俺を殺したいヤツが増えちまったよ

くっ、と思わず苦笑が漏れた。
“俺達” とは言っていたが、本当に殺したいと思っているのは自分だけのくせして。
“俺が殺す” と言ってしまうと、特別な意味があるようにも聞こえるだろう。
それを回避する為に、咄嗟に複数形にしたわけでは無いのはわかる。
勝手なことをした悟浄をただでは済まさないと思っていたのは、三人ともだろうから。
けれど、悟浄に対する報復に一番執着していたのは三蔵のはずだ。

三蔵には自ら踏み込んだ。
身体の中まで、心の奥まで、痕跡を留めようとした。
だが、どれだけ三蔵に触れても、いつも後から空しさが襲ってくるのだ。
三蔵そのものを己の中に取り込んでしまいたいと思うようになった時、悟浄は自分が怖くなった。
だから、距離を置こうとした。

ひとりでこっそりと出て行った直後は、いつかどこかでもう一度一行に会えれば、くらいにしか思っていなかった。
金閣の最後の姿が、ずっと脳裏から離れなかったからだろう。
しかしすぐに三蔵の姿ばかりが頭の中を占め、三蔵を求める気持ちが今まで以上に膨れ上がってしまった。

カミサマを倒した後は、何としてでも三蔵に合流する。
俺は、あいつに殺されると決めたのだから。
それは、どこか甘美な匂いを漂わせる幻想でもあった。

愛情が殺意に変わる場面がどれだけ修羅場か、身をもって体験している。
子供の頃は、そこにはただ怖れ以上の感情は生まれなかった。
それなのに、三蔵と出会い、深く繋がってからは少々違ってきた。

『殺してやる』

その言葉に、その声に、悟浄は何度身震いしたことか。
紫暗の瞳に睨まれると、ゾクゾクと背筋を這い上がる快感。
交わる時とはまた違うその感覚は、悟浄がそれまで経験していない種類のものだった。

言葉だけで、視線だけで、身体の芯が疼くほどに感じてしまうのだ。
ならば、実際にその瞬間が訪れた時は、一体どれほどの陶酔に包まれるのか。

危ない橋を渡って 「殺される」 と思ったことも何度かあるが、最近では逆に殺す側に立っていた方が多いかもしれない。
この手は多くの妖怪を殺し、血に染まってきている。
それは目前の障害を排除するという行為にしか過ぎず、そこには何の感情も篭らなかった。

なのに、殺意に彩られた幻想を甘く感じてしまうのは、相手が他の誰でも無い、三蔵だから……。
三蔵の為に自分が勝手に死ねないように、三蔵にも生きていてもらわねばならない。

「ふーっ………」

溜め息が零れた。
思い出すのは、四人の前に立ちはだかったカミサマの姿。

――― 強いとかってモンじゃ無かったよな……

四人で立ち向かったのに、一撃で倒されてしまった。
突然、自分たちを目掛けて飛んできた数珠が、身体を傷付け、貫いてゆく。
避ける間も無い。
一瞬、何が起こったのかわからなかったほどだ。
がはっ、と口から赤い物が吐き出された。
身体のあちこちから噴き出す血飛沫。
四人ともその攻撃に薙ぎ倒され、手足を動かすことすらできない。

叩きつけられた衝撃で、耳の中がうわんうわんと響く。
音がよく聞き取れないが、カミサマが三蔵に何か喋っているのはわかった。
三蔵の経文が奪われてしまったらしいものの、その時は手も足も出せずにいた。
だが、霞む視界の向こうで、三蔵が踏みつけられそうになっているのが見えた、その瞬間。
悟浄の錫杖がカミサマの足を掬い、三蔵から遠ざけた。
自分の大切なモノを守りたいという想いが、動かないはずの身体を動かしたのだ。

その後、ジープが現われてからは、とにかく逃げることしか考えていなかった。
片腕に八戒を抱え、片手で悟空を引き摺ってゆく。

――― 火事場の馬鹿力ってか

あの状態でよくやれたものだと、自分でも今更ながらに感心する。
本当は、起き上がるのもやっとだったのだから。
二人をジープに放り込むと、次は三蔵。
経文も気にはなったが、あの時は三蔵自身を助けることが何よりも優先されるべきだと思った。

床にうつ伏せの状態で気を失っている三蔵を仰向けにする。
首の下から手を廻して経文が載っていない肩を掴んで上半身を起こさせ、立膝で支える。
もう片手は血に染まった法衣を掻き分け膝裏に潜らせて、そのまま一気に抱き上げた。
あの時は、身体の痛みなどはどこかへ吹き飛んでいたかもしれない。
ただ、三蔵を死なせたくないと、悟浄はそれだけを思っていた。

(俺を殺すんだろうがっ! てめぇが先にくたばってんじゃねーよ!)

心の中で、そう叫んでいた気がする。
とにかく、無我夢中だった。

――― 前より、軽かったっけ…? いや、重くなってたっけか……

意識を失った三蔵を抱きかかえるのは何度目だろう。
最後に抱き締めたのは、いつだっただろう…。

三蔵はいつも、ギリギリまで己を酷使している。
身体を傷付けられても、心が壊れそうになっても、気丈に振舞い、限界まで助けを求めない。
いや、限界に達したところで、意識があれば人が差し出した手は拒み続ける。
そんな奴だと三蔵の本能はわかっているのか、ギリギリになる手前でその意識を遮断させていた。
そうでもしないと、生命を維持できないのだ。
それは身体と心を守る為に必要な、三蔵自身は知らない、生物レベルの措置とも言える。

本人がそんなだから、周りが気をつけないといけない部分も多々あった。
三蔵は、人並み以上の体力と気力を持ち合わせている。
とはいえ、回復力が早い妖怪に比べれば、人間である三蔵の傷は治りが遅いのは仕方が無い。
でも、もう四日も目覚めないのは……。

チャッ。
カシャ。
手だけが、まだ勝手に動いていた。

チャッ。
カシャ。

チャッ。
カシャ。

チャッ。

「……」

パチン。

ギリッ、とライターを握り締める。
今の自分には、待つことしかできないのか……。

「体調はどうかね」

八戒と悟浄が使っている部屋にマスターが顔を出した。
起きている悟浄を 「駄目じゃないか、寝てなきゃ」 と軽く叱るが、シーツを取り替えたりとこまめに世話してくれる。
二人で三蔵がかなり危険だと話していると、八戒が目を開けて会話に加わってきた。

「僕がこんな状態じゃなければ、もう少し早く手が施せたのに……」

八戒は、三蔵の傷を治すのは誰にも譲れない役目だと思っていた。
だからこそ、大事な時に役に立たなかった自分が不甲斐無い。
悟浄が慰めに聞こえる言葉をかけたが、胸の内では己自身を責め続けていた。
しかし、それが知られると余計に周りに気を遣わせてしまう、と思った八戒は、ふと気になったことを口にした。

「――― 悟空はどうしてます?」

触ろうとすると怯えて暴れる為に治療も受けられない。
何も食べず、一言も喋らないらしいと聞き、八戒はジープの頭を撫でながら 「手負いの獣ですか…」 と呟いた。
味わったのは、絶対的な敗北。
負けた、と淡々と話す八戒の口調には、悔しさとやり切れなさを通り越した虚無感らしきものが漂っている。

と、そこへ突然、どこかで壁を蹴ったような音が響いてきた。
慌てて隣の部屋へ掛け込んでみると、今まで反応の無かった三蔵が呻き声を上げているではないか。

「三蔵!? どうした三蔵!!」
「ぐぁ…あ……うあああ……ッ…が……」

指先が白くなるくらいにシーツを握り締め、脂汗を浮かべ涙を流している三蔵がベッドの上で暴れていた。
まだ意識を取り戻したわけでは無く、悪夢にでもうなされているらしい。

悟浄が懸命になって包帯だらけの身体を押さえ付ける。
全身で圧し掛からないと、強い抵抗に弾き飛ばされてしまいそうなのだ。

「暴れんなって!!」

すぐ近くで叫ぶ悟浄の声も、その耳には届いていない。
三蔵は荒く苦しそうに息継ぎをしながら、ひたすら悟浄の下でもがき続ける。

「鎮痛剤を持ってくる!!」

そう言って部屋を飛び出した主人と入れ替わりに、八戒が姿を見せた。

「大丈夫ですか?」
「八戒…いいからおまえは寝てろって!!」

自分も怪我人なのだが、悟浄は八戒を怪我人扱いして追い返すように言い放つ。
その背中を、八戒は哀しそうな瞳で見つめた。

「…痛むのはキズじゃないかもしれませんね。 三蔵のことですから……」

三蔵の苦しみの元が怪我だけでは無いことは、雨を嫌っていた様子からも窺える。
それはまだ八戒しか気付いていないが、だからと言って三蔵を救う手立てがあるわけでも無い。
いつも、見ているしかできないのだ。
三蔵を助けられるのは、自分では無い。
今は、悟浄に任せるしか……。

「三蔵を……、頼みます」

まだ大人しくならない三蔵と格闘している悟浄にそう言い残すと、八戒は静かに部屋に戻った。

「…っ、くそっ、じっとしてろって! …三蔵っ!!」

八戒の言葉は悟浄の耳を通り過ぎていた。
聞こえてはいたが、それに返事をする余裕は無かった。
悟浄の意識の全ては、三蔵だけに向けられていたから。




〔16−3〕


鎮痛剤が効いたのか、三蔵は先ほどの暴れ具合が嘘のように静かになった。

「おまえさんも休みな。 これでしばらくは落ち着いてるだろうから」
「もうちょっと様子を見てからな」

悟浄はじっと三蔵を見つめたまま、壁際の床に座り込んで動こうとしない。
やれやれといった表情を浮かべると、主人は静かに戸を閉めた。

――― 余計なモン増やしちまって……

力尽くで押さえ付けたせいで、三蔵の手首にはくっきりと指の跡が残ってしまった。
既に傷だらけの身体なのだから、少々新しい傷痕が増えたところで大したことでは無い。
だが、悟浄にはずっと感じている空しさがあった。

ここへ運び込んだあの怒涛の夜、アンダーシャツや手甲を脱がせた時に気付いてしまったのだ。
嘗て自分が残したはずの跡は、もう無くなっていると。

何日も経っているのだから当然なのだが、それでも遣り切れない思いが拭えない。
行動を共にしていた頃、あんなに執拗に唇を寄せたのは何だったのか。
三蔵に己の存在を刻み付け、生への執着を捨てさせないようにする為だったのでは無かったのか。

自ら離れて跡の上書きをしなくなれば、すぐに消えてしまうのはわかっていたのだ。
事実を突き付けられた結果はっきりしたのは、あの行為は自分の為でもあったということ。

“悟浄” という存在が三蔵の意識外に置かれるのが怖くて。
あの美しい紫の瞳が、自分を見なくなるのが嫌で。
低音で響くあの声が、自分の名前を呼ばなくなるのが辛くて・・・。

そうだ、俺はこんなにも三蔵を欲していたのだ。
離れるなど、できるわけが無い。
いや、離れたからこそ余計に、想いが募ってしまったのか。

――― 三蔵は………?

ふと、三蔵はどうなのだろう、と考えた。
以前、跡はすぐに無くなると、寂しがるような怖れるような台詞を言っていたことがあった。
もう何日も跡の残っていない手首を見て、三蔵はどう思っていたのだろう…。

「う……あ……ああっ……!!」

また、三蔵がうなされ始めた。
悟浄が弾かれたように顔を上げる。
だが、声はすぐに聞こえなくなり、静かになった。

「…三蔵…?」
「…………」

悟浄が固唾を飲んで見守る前で、三蔵が無言のままむくりと起き上がる。
頬を流れているのは、汗なのか涙なのか…。

(三蔵…良かった、気が付いた……)

悟浄は浮かせかけた腰を元の位置に静かに下ろした。
膝の上で組んだ腕に顔を埋めて、心の中で安堵の声を漏らす。
だが、ほっとしたのも束の間、ギシと音がしたのに気付くと、悟浄の眉が顰められた。
三蔵がベッドを下りようとしているのだ。

「……おい、何やってんだ」
「行く」

ぜえぜえと息を切らしながら、三蔵が床に足を付いて立ち上がった。

「あれは俺の物だ」

カミサマに取られた経文を指しているのだろう。
あの時、自分が取り返しておいたなら…、と悟浄の胸の奥が少しだけちりりと痛んだ。
けれど、それは余計なことだと思い直した。
自分がケリを付けにひとりで乗り込んだように、三蔵も自分の始末は自分で付けないと気が済まないだろうから。

だが、この状態では取り返しになど行けるはずが無い。
などと言ったとしても、今の三蔵では耳を貸そうとしないのは目に見えている。

「…じゃ、行けば? 行けるモンならな」

悟浄はぼそりと告げると、それ以上は手も口も出さないことにした。
何を言っても聞かない場合は、自分が納得するまでやって、動けない現実を自身で認めるしか無いのだ。

「ッ!!」

ぐらっと三蔵の身体が傾く。
案の定、一歩を踏み出すことさえできず、三蔵はその場にドサッと倒れてしまった。
しかし、まだ屈しない。
そのまま、全身を使って床を這いだした。

「く……」

三蔵が這っているのは悟浄の目の前なのだから、当然視界には入ってしまう。
それを、敢えて見ようとはせず、悟浄はその向こうの窓辺に目を遣ると、咥えていた煙草をゆっくりとふかした。

「はあっ、ぜぇっ……」

三蔵の荒い息遣いが部屋に充満してゆく。
ズッ…ズッ…と身体が床を這う音が重く後を引く。
懸命に動いてはいるが、距離はほとんど稼げていない。
ベッドからドアまでの歩けばほんの数歩が、遥か遠い道程に感じる。

「―――― ……」

ふっと三蔵の意識が途切れ、ずるっと崩れると床に突っ伏した。

「……」

悟浄の目が一瞬眇められる。
煙草の火を灰皿で揉み消し、徐に立ち上がると、三蔵の肘をぐいっと掴んだ。
そして、片腕を自分の肩に廻して三蔵の身体を支えた途端、

「――― ッ」

悟浄の身体にズキンと痛みが走った。
だが、それを無視して三蔵を抱えたままベッドへと連れて行くと、力の抜けた痩身をどさっと放り投げた。

「ふーっ……」

詰めていた息を吐き出しつつ、三蔵が横たわるベッドの側面を滑るようにして腰を下ろす。
身体が鉛のように重く、床に沈み込みそうだ。
もう一度溜め息を吐くと、悟浄はじっと天井を見上げた。

きっと、三蔵は目覚めればまた出て行こうとするだろう。
六道の時も、傷がまだ治っていない身体を引き摺ってひとりで出掛けて行った。
あれはわざと見過ごして送り出したとも言えるが、今回は事情が違う。

四人で立ち向かって勝てなかった相手なのだ。
傷付いた身体で闘ったところで、敵うはずも無い。
そんなことはわかっているだろうに、それでも 「行く」 という気持ちを止められないのが三蔵だ。

ならば、気が済むまでやりたいようにやらせて、放っておけばいいではないか。
そうは思うが、悔しいのは悟浄も同じだ。
もちろん、八戒や悟空も感じているに違いない。

無闇に飛び込んで行って勝てるものなら、とっくにそうしている。
だが、今度の相手はそうはいかない。
己の弱さを認めるのは辛い作業だけれど、それが現実。
そして、今はできることが何も無い。
身体の傷を治す他は、何も……。

動けない自分が歯痒い。
動けないくせに動こうとする三蔵が、……見ていて痛い。
口を出しても手を貸しても無駄だとわかっているのに、見ているだけしかできないのがもどかしい。

今は、三蔵には安静にして治療に専念して欲しい。
ただそれだけのことを、何故これほど困難に思い、どうすればいいかと考えなければならないのか。

這い出したならば、いくらでもベッドへ強制送還させてやる。
それをやるくらいはどうってこと無いのだが、あれこれと考えるのはもう面倒臭くなってきた。

「…あ―――、も―――」

三蔵、辛いのはおまえだけじゃねぇんだよ。
だから……、

「頼むよ……」

頼むから、今は何も考えずに眠ってくれ………。


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