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それは突然だった。侵食はひっそりと、だが確実に、俺の全てをすでに蝕んでいた。
脈が大きな音をたてて、軋み、歪み、まるで破け弾け散ったかのような。赤に染まったような。
それまで気味の悪いほどに平坦だったグラフが、突如として跳ね上がった。
何て居心地が悪い。三半規管に異常をきたす。急迫性。俺は誰だ。塗り替えられる。
居心地が悪い。悪い・・・。
「不安そうな顔をしてるな」
俺はその言葉で現実に引き戻された。
限りなく透明な顔があった。俺は悟られまいと・・・バカバカしいと、その言葉だけを。かろうじて。
日を追うごとに強まり、持て余す感情に、俺はそれでも振り回されないようにと、それだけ考えた。
自分から自分を分離する作業。
どんどん増えていくスローガン。
心を揺さぶられてはならない。約束をしてはならない。・・・・してはならない。
積み重ねられていく禁止事項。
何かを守ろうと必死なその姿は目も当てられないほど滑稽だということは自覚していた。
それでも。
実体のはっきりしない何かに、俺は決して負けてはならなかった。
最後まで、否定しなければならなかった。
・・・最後まで。俺がこの世界からきれいさっぱり消滅する日まで。
俺はお前に負けるわけにはいかない。
思考の果て。
泥のような世界といつも通りの、くちづけ。
「憎しみのくちづけ?」
唇が離れた後、奴は囁くようにそう言った。
ああ、そうだよ。
俺のこれはきっと憎しみと同義だろう。
「歪んでますねえ」
同居人は、呆れ半分でため息を洩らす。
歪みきっている男に、しみじみそう言われるほど歪んではいないと思う。
・・・歪んでいることは認めるにしても、ここは相対的な問題として。
「まあ、正しいかたちがどんなものであるか、僕には分かりませんが」
苦笑と共にそう付け足した男は、食べ終えた食器を重ねると、台所へと運んでいった。
俺は、そのままそれらの食器を洗い始めた背中を何となしに見つめながら、ひとつふたつくだらないことを考えた。
それから、正しいかたちとやらを考えてみたが。
それこそ俺は。
そうなったら、俺は。
いくつかのシーンが目前でフラッシュバックした。
「・・・・・・欲しいんだよな」
たまらなく。
確かに、そう思うんだ。
でも、俺はきっとこれを捨てられる。
求めすぎはベターじゃない。等価交換な世界こそ平和だろ。
「あなたは潔癖だから」
ふと奴が洩らした言葉に、俺は思考を奪われる。
「潔癖?」
「・・・愛情という言葉に対して」
振り向いてそう言った。。
その言葉に俺は思わず眉を顰める。
俺のその露骨な表情に気づいた奴は、瞬間驚いた後で、何故か穏やかな微笑を浮かべた。
・・・こういう所が癇に障る奴だ。
それからは、洗い物をする水音が辺りに響き渡る。
俺は奴の言葉に何も言わず、奴もその後に言葉を繋げなかった。
身体をソファーに横たえる。
浮かぶのは、モノクロに染まった稚拙なストーリー。
切り出しは、あいつの声。”むかしむかしある所に、愛を理解できない可哀想なかっぱがいました。”
・・・その可哀想なかっぱは、けれどそれを求めて止まなかったので、
知らぬ間に、それを大事に大事に磨き上げたあげく、
さて、これは自分には似合わないなと、ぽいっとゴミ箱へ捨ててしまいましたとさ。
「めでたし・・・めでたし」
ああ。俺の苦悩の何て安易なことか。
そんな事を考えていたら天井が降って来るみたいに見えたから、鬱陶しくて目を閉じた。
けれど、自分が思っている以上にこびり付いている面影が、そこにはあって。
浮かんでは消えるいくつもの表情は色彩を有しひどく鮮やかだ。
「コーヒー飲みますか」
不意に耳に入ったその言葉に目を開ける。
いつのまにか洗い物を終えた奴が、コーヒーを両手に二人分持ってダイニングテーブルへと向かっている姿が見えた。
ああ、と軽く返事をして俺は立ち上がり、ダイニングの席につく。差し出されたコーヒーを息で軽く冷まし、流し込んだ。
向かいの席に付いた奴は、そのまましばらく俺を見、俺がその視線に気づき顔を上げた。そのタイミングで。
「僕は三蔵を愛していますよ」
・・・含んだコーヒーを噴出すかと思った。まともに視線がかち合った。
奴の表情は極めて曖昧で、いまいち真意が読めない。
突然何を言い出したのか。大して驚くほどの内容でもなかったが。
俺が表情に不可解をたっぷり込めても、奴はまるで表情を崩さない。
「愛してるんです。慈しむとか大事に思うとか、それらとイコールではない」
淀みの無い翠の瞳。気味の悪い程澄んだそれは、どこかあいつに似ている。
「時々、僕なしで彼が呼吸をしていることが不合理なことのように思える。僕を見ない彼の目を潰したくなる」
「・・・・・」
「彼の負担を取り除いてやりたいとも思う。安らいで欲しい。できれば僕の前で。・・・いや僕の前でなくてもいいとさえ、思う時もある」
そう言い切った後で、奴は自嘲するように目を伏せた。
「でも、僕の前だけでないなら、殺してしまいたい。無理矢理に抱いて、全て引き裂いてしまいたいとも」
奴の言葉には抑揚がなかった。
客観的事実を述べるように、ただひたすら淡々と語る。
「そういうものです。全て壊してしまうんです。恐るべき悪です。それが愛情だと僕は思います」
再び、顔を上げた。
そして、少しの静寂と、窓の外で不意に吹いた風の音。
「・・・そうだよ」
俺は肯定した。
思い出したくも無い過去。凄惨とも言える場面が間近に迫る気配。
「吐き気がする」
自分でも驚くほど嫌悪をありありと示す口調でそう吐き捨てた。
そして、俺は画策し始める。
終わらせる術。断ち切るその手段。
要は逃げ出すのだ。脱兎のごとく。無様この上ないだろう。
触れなければ消えるか。刻まれた存在感。あれを。どうやって。だがどうしても。
消す。消す。
そう唱えれば唱えるほどに、より深く刻まれるというのに。
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