外に出ると、強めの風のせいで、若干、肌寒さを感じた。
「俺の家、ここから四ブロック先なんだ。ちょっと歩かなきゃならないけど……酔い
覚ましに、ちょうどいいかな」
モーガンは冷気から首筋を守るように、丸首のセーターの襟ぐりを引っ張り上げる
と、歩き始めた。
人通りはほとんどなかった。街灯や、終業した店舗からの明かりが、控えめに二人
を照らしている。
モーガンは胡散臭い投資話に引っ掛かりそうになった失敗談や、知人のヨットでク
ルージングを楽しんだ話などを、先ほどのバーにいた時のように、面白おかしく披露
した。
しかし、やがてその饒舌は、途絶えがちになってきた。彼の話し声が消えると、た
ちまち夜陰の暗い衣が、ラウたちを覆って包んだ。
「こっち……ちょっと、来いよ」
ふいに、モーガンはラウの手首を掴んだ。
ラウは身を緊張させて、握られた腕を引き戻そうとした。だがモーガンは、ラウが
当然、自分に従うものだと確信しているような、強気な態度を崩さなかった。
彼が足を向けた先は、公園だった。通りに沿って設けられていて、かなりの面積が
ある。歩道との境に植えられた樹木のフェンスの奥に踏み込めば、街中よりも濃厚な
闇が広がっている。
昼間は、たくさんの人たちが行き来して、笑声を響かせ合っている空間だ。
しかし今は、淋しさと沈黙だけに支配されている。モーガンとラウ、二人の男だけ
が、その静謐な空気を乱している。
モーガンは噴水のある広場や、花壇に挟まれた小道を行き過ぎて、木々のシルエッ
トが並び立つ方へと足を運んだ。
芝生に入り込んで、一本の木の前で止まった。その場所は、同様の立ち木が何本もそ
びえていて、小さな林のようになっている。
モーガンはラウの身体を反転させると、背中を木の幹に押し付けた。堅い樹肌が背骨
を圧迫して、ラウはわずかに顔をしかめた。
「我慢……できないんだ。ここで……いいだろ?」
囁くように言うと、モーガンはラウの首筋に頭を寄せてきた。
「あまり同意は出来ないな。誰かに見られるかもしれないような所は、好きではな
い」
「こんな夜中に、誰も来やしないさ。心配性だな」
モーガンの唇が、ラウの首をはんだ。生温かく湿った感触が、這うようにそこをね
ぶる。
さざ波のような快感が首筋を駆け上がって、ラウは小さく息を吸った。
「ほら……気持ちいいだろう?
見られるかもしれないなんて不安は、すぐに忘れるさ。俺がそう……させてやる」
吐息混じりの声が、ラウの耳たぶをかすめた。
モーガンは手をラウの髪に差し入れた。梳くように、指の間に髪の房を滑らせて、
それを後頭部へと撫で付ける。
そして剥き出しになった形のいい耳に、彼は軽く歯を立てた。
「あっ……」
ラウはビクリと身を震わせて、眉根を寄せた。
モーガンの片手は、ラウの髪を愛撫している。そしてもう片方の手が、ラウの腕か
ら腰へと滑り降りて、脚の付け根へと移動した。
「ウッ……! これ以上は……」
息を詰めたラウは、反射的に、男の手首を握り締めていた。モーガンが意図してい
る行為を抑止する。
「本当にお堅いんだな。外でやるのは、そんなに厭かい?」
くつくつと喉の奥で笑って、モーガンはラウの顎のラインを唇と舌で辿った。相手
の意向など、まったく気にかけていなかった。
股間を狙う彼の手が、ラウの膨らみに触れた。
瞬間、その部分にラウの全神経が集まった。艶めいた短い声が、口からこぼれた。
モーガンは揉みしだくように、強く雄の象徴を弄んだ。
「ほら、だんだんその気になってきた……」
モーガンの手首を握ったラウの指は、次第に力が失せて、もはやそこに添えている
だけになっていた。
男の手が蠢くにつれて、腰が熱を帯びていく。その熱が全身に広がって、身体が溶け
てしまいそうだ。
ラウは無意識に、腰を揺らした。モーガンの手の動きと、腰の律動が同調した。
「あ、はぁ……くう……」
ラウの発する呷きは、口中と喉の奥とを、引っ掛かるように上っては駆け下りて、
洩れ出している。
その流れるような声が、ふいに吸い取られた。モーガンの唇がラウのそれを、挟
み、なぞり、ねぶる。
その愛撫は、次第に激しさを増してきた。柔軟な舌が侵入してきて、甘美な熱と唾液
を送り込んだ。舌と舌とが絡まって、互いを貪り合った。ラウは耳の奥で、頭の中を
いっぱいに満たしそうな、その淫靡な湿った音を聞いていた。
モーガンの手は、ラウの雄を弄び続けている。上と下の性感帯を攻められて、ラウは
総身が溶けてしまいそうな気がした。
そうだ、ただ感じればいい。わずかに残されている理性を捨て去って、情熱的な本能
で自分を覆い尽くそうとするこの男に、全てを委ねるのだ。
脳裏にしまわれた過去の記憶から、あの青年の影を引き出してくる、この男に──。
(……いや、いけない。やはり、このまま流されては……)
ラウは意を強くすると、男の胸に手を当てて、モーガンの身体を押し戻した。
まだ充足していないように、ラウの口唇を求めながら、彼の唇が離れた。
「……なに?」
モーガンは不審そうな声で訊いた。
暗くてよく見えないが、その眉間には、はっきりと皺が刻まれているに違いない。
「ここでは、だめだ。続きは、あんたの家で……」
引き離したモーガンが再び戻ってこないように、ラウはモーガンを押しやる腕の力
をゆるめずに答えた。
「いいじゃないか。誰も来ない、って言っただろう? 君だって、充分にその気に
なってるくせに……」
口調に薄笑いを滲ませながら、モーガンはラウに顔を寄せようとした。
ラウは顎を引いて、その顔を避ける。
「いや、だめだ。ここでは、意識が集中できない」
「何を今さら……思いきり感じて、喘いでたじゃないか。とても意識が集中してない
ようには、見えなかったぜ」
「私は、ここでは、楽しめないと言ってるんだ」
「……そうかい。じゃあ、仕方がない。
強情なのも、面白いかもな」
モーガンはいきなり、ラウの両肩を掴んで、全体重をのし掛からせた。
ラウは地面に倒れ込んだ。モーガンが馬乗りになる。
ラウは急襲とはいえ、防御できなかった自分に、舌打ちをした。
「何をする!」
「わめくなよ、大人しくしてりゃ、また喘がせてやる。おまえの方から尻突き出し
て、俺を求めるようにさせてやるさ!」
モーガンはラウのシャツの襟に手をかけると、引きちぎるように、それを大きく開
いた。
ラウはモーガンの前腕を握って抗った。すると、モーガンはラウの手首を芝生に押さ
え付けようとした。
ラウは驚愕と怒りで、視界がぼやけそうだった。沸いた血で、頭が膨張しているよう
に感じられる。こめかみが痛い。
「やめろ、卑怯な真似はよせ!」
「おまえの硬い殻を破ってやるんだ! 怖がるなよ、すぐに腰振って、俺にしがみつ
いてくるさ」
相手の抵抗は、モーガンにはむしろ、さらに興奮を高める刺激になるようだった。
組み敷いたラウの姿、そして睨み上げるその秀麗な顔を、モーガンは口元を歪めなが
ら見下ろしていた。
「やめろ……二度とは言わせるな」
ラウは静かな脅しを含んだ声音で、再び告げた。
モーガンは、ヘラッと笑った。
と、素早く右手を滑らせて、ラウのズボンのジッパーを引き下ろそうとした。
ラウは肩をよじった。自由になった片手で、暴行者の襟ぐりを掴んだ。
次の瞬間、右頬に鋭い平手が飛んできた。
ラウの首が、衝撃で横に跳ねた。焼けつくような痛みが、頬全体に広がった。
「オレは、外でヤリたい気分なんだよ!」
口中に、鉄の味が現れた。唇のはたから、細く血の筋が流れ込んできている。
ラウは激しい憤りが沸き起こって、理性という膜の下に吹き溜まっているのを感じ
た。その猛ったエネルギーは今にも、もろい膜を破って噴出しそうだ。
こいつは、クズだ。自分の要求を通すことしか知らない。
この男は、私がかつて、深く馴染んだあいつの面影を、私に運んできた。
その懐かしさは、私の警戒心を解いた。この男と話していると、あいつのそばにいる
ような錯覚を覚えた。それが、私には心地よかった。
そして、ひそかに……人肌に触れたいと欲した。初めて会ったばかりの人間との、
刹那的な情交……だが、そんな軽はずみな行動をしたことは、今まで一度もなかっ
た。しかし、こいつは私に慎重さを捨てさせた。
そう、確かに、私は酒に酔っていた。アルコールが正常な思考を麻痺させて、私を普
段より開放的にした。
あいつを思わせる……あいつに似ている、だと!?
あいつは他人の意思を尊重する。暴力で意のままにならぬ相手を屈服させることな
ど、絶対に行わない。
それなのに、いくら酔っていたとはいえ、この卑劣漢に、あいつの姿を重ねたという
のか。
この男は、最低の下司だ。だが、それが見抜けなかった私のふがいなさにも、己を罵
倒したくなるほど、腹が立つ。
ラウはゆっくりと、殴られて逸らした顔を、モーガンに回した。
「貴様……」
低い声で呟くと、両眼を細めた。
いきなり、片脚を曲げて、膝頭をモーガンの股間に叩きつけた。ゲッ、とモーガン
が呻き声を洩らした。
ラウの怒りが噴き出した。股を押さえて、前のめりに半腰になったモーガンの腹
に、下から靴の裏をめり込ませた。そのまま反動をつけるように、立ち上がった。
モーガンは宙に身を踊らせ、尻餅をついた。
苦悶の声を絞り出しながら、ラウを見上げる。
「この……野郎。やりやがったな……」
肩で荒い息をして、猛獣が獲物に狙いを定めた時のように、頭を低めて睨め付け
た。
「ほえ面、かくなよ……」
モーガンが突進した。硬い拳が、ラウの顔面に繰り出された。
難なく、ラウはそれをよけた。耳元で、拳が風を切る音が過ぎていった。
モーガンは脚を蹴り上げた。ラウは瞬時に上体を落とすと、その脚の下にもぐった。
モーガンの背後に回って、その無防備な脇腹に後ろ蹴りを見舞った。モーガンは芝
生に転がった。
横ざまに、ラウを仰いだ彼の表情は、信じられないと言いたげに、瞳が見開かれて
いた。
無理もない。モーガンはラウより、明らかに体格がいい。鍛えられた筋肉質の体つき
から、スポーツの経験があり、運動神経には自信があると思われる。腕っぷしにも、
覚えがあるのかもしれない。
その上、ラウの佇まいは、容姿を売り物にする職業に就いている者のように、端正
だ。モーガンにしてみれば、ラウが自分に逆らえるわけがなく、簡単に蹂躙できると
踏んだのだろう。
「くそ……調子に乗りやがって」
呪いの文句を唱えるように、憎々しげに吐き出すと、モーガンは両手で身を支えな
がら、身体を起こした。
ラウは口許に、うっすらとした微笑を浮かべた。
腹の底からの唸り声と共に、モーガンは殴りかかってきた。拳と脚が、相手の頬と
ボディーを狙った。
ラウはそれらの攻撃の全てを、見切っていた。しばらくは、瞬時の差で、パンチや
キックをかわしていた。
その様子は、乱暴な遊びを仕掛けてくる年長の仲間と、戯れているようだった。
「てめえ、逃げるなっ!」
モーガンが怒鳴った。ラウは鋭く息を吸った。
右手を固めると、男の顎を突き上げた。モーガンの上体が浮いた。その右頬に、左
の拳をめり込ませた。唾液と血の飛沫が、ラウの顔に飛んできた。
腹を蹴った。声帯を踏まれたような呻きが、宙に放たれた。中腰になって、今にも
地面に倒れ込みそうなモーガンの右頬を、さらに横殴りした。膝頭で、顎にもう一
発。
ラウの体内には、興奮がみなぎっていた。モーガンが苦痛の声を発するたびに、そ
の身体がバランスを失うごとに、細かくさざめくような喜悦が、背筋を駆け上ってい
く。
敵手の流す血、深い怨恨、苦悶の叫び、絶望の念。
いつからだろう、そういった負の事物に、快感を覚えるようになったのは。
幾多の戦場での記憶がある。
そこでは、人間の命など、あっけなく飛び散っていく。血塗られた場所に、滂沱の涙
が流される。決して元に戻すことは出来ない、正視に耐えない、残虐な行為の数々。
それでも、人という生命体は、争うことを止められない。その、業の深さ。
全身を蛮行の渦に浸して、己の無力さを嘲笑いながら、人類の愚かさを見つめ続け
た。
そして、奈落でもがきあがいた魂は、戦いに伴なう苦しみの感情を、快感に変える術
を知った。
モーガンが仰向けに転倒した。両手で頭を抱え込んで、首を傾け、唸り続けている。
ラウは最後に、肘鉄をみぞおちに落とした。
短く呷いて、モーガンは黙った。ラウは立ち上がると、乱れた服装を整えた。
叩きのめした男には、一片の憐れみも感じなかった。