星 夜 3

 恣音 様


公園を後にした。



歩道を歩いて、夜風に吹かれていると、細胞の隅々にまで行き渡っていた興奮が、
徐々に醒めていくのがわかった。



ふと、空を見上げた。涼しい光の星々が、全天に散開している。

プラントの人工的に演出された、夜空の眺めだ。その漆黒の広がりの外には、本物の宇宙が存在している。



そこは絶対零度に近い、恐ろしく凍えた世界だ。有害な放射線が飛び交い、人体を守ってくれる空気もない。

生物には過酷すぎる空間である。



しかし、その苛烈な場所に無数の惑星が誕生し、地球では人類という知的生命体が生み出されたのだ。

そしてその人類は、高い知能を結集して、プラントという擬似の惑星を宇宙に浮かべ
た。



これから人は、どこに向かおうとしているのか。何を目指して、前進するのか。

彼らが未来において、手に入れたいものは、何なのか──。

ラウは星夜を仰ぎ続けた。



すると、かかとが大地から浮き上がったような感覚を覚えた。

(なんだ、これは……!)

身体が上空に、吸引されてしまいそうだ。まるで夜空が、それを望んでいるかのように……ラウは脚を踏ん張って、その力に抵抗した。



全身が柔らかな圧迫感に包まれている。頭上を覆っている無限の黒い衣が、自分を取り込もうしているようだ。

急に、口の中に、ひとつの味が現れた。

舌を刺すような刺激感と、生臭さが混ぜ合わされたような味──血液だ。



すぐにそれは、口腔をいっぱいに満たした。ラウは強く顔をしかめて、息を止めた。



公園で、モーガンに平手打ちを喰らわされた時に、唇が切れた。その傷口からの出血かと思った。

しかし、飲み物を口に含んでいるかのように、大量の血の味がする。それがどくどくと、口蓋や舌の根元から溢れ出してくる。極度に不快で、吐きそうだ。



サーッという、素早く動く物体が、頭をかすめ去っていくような音を、耳が捉えた。

ラウは身構えた。



次の瞬間、天空の星々が、一斉に降って来た。

大粒の驟雨のようだった。ダイヤモンドのような純粋な輝きを放ちながら、地表を貫こうとする。



ラウの総身も、容赦なく穿たれた。皮膚を食い破り、骨を砕き、えぐった肉片を路上に叩きつけた。

ラウは叫び出したいのを我慢して、きつくまぶたを閉じ、歯を食いしばった。



噛み締めた歯列の隙間から、口内にたまっている血が、幾筋もの流れとなって、顎に滴った。

流血の川は、シャツの胸も真紅に染めた。



時間が凝結した。



気がつくと、全ての苦痛が去っていた。ラウはゆっくりと、瞳を開けた。



彼は小さな溜め息をついた。自らを抱いてやるように、両の上腕を握り締める。

我知らず、小さく震えている身を、息を整えながら、鎮めていった。



これは……。彼はひっそりとまぶたを伏せた。



…………予感だ。



溢れ出る血の味……それは、殺戮の予兆。

やがて、おびただしい鮮血が宇宙に流れて、大地を濡らすことになるだろう。



無数の涙と悲痛な叫び、引き裂かれる魂と、やり場のない怨嗟と慟哭。

この世を影が包んで、光を駆逐する。



そこは弱肉強食の世界だ。平時には抑制されていた、人間の、獣の時代から持ち越された本能が牙を剥く。

おぞましく、荒涼とした気配が、狂気の哄笑を響かせながら、そこまで近づいてきている──。



そうか、だからなのか……。

ラウは冷風に耐えるように、肩をすくめた。肺の奥まで息を吸いながら、静かに喉を反らす。



モーガンの洒脱な喋り方や、軽快な物腰。明るく若々しい容姿と、人好きのする雰囲気……私はそれらに惹き付けられた。あの男の全てが魅力的に感じられて、奴の誘いに乗った。



行きずりの相手との、一夜限りの関係。浅薄な情交だと分かっていても、肉の欲求を止めることが出来なかった。私らしくもない。



たぶん、私は……温もりが欲しかったのだと思う。私を穏やかに温めてくれる、人肌が。

戦禍は必ずやって来る。暗色の予感を受け止った心が、私にモーガンを求めさせたのだ。



……否。

私が追っていたのは、モーガンに重なって、見え隠れしていた、あいつの影かもしれないな──。



ラウは細く整った眉を寄せて、夜空に見入った。全天を飾る星々が、涼やかに瞬きながら見つめ返してくる。

彼はいま一度、上腕に指を食い込ませると、再び歩き出した。

暗い街に、靴音が硬質の音を立てる。



人と人とが武器を手に取り、戦いを始めたとき……一陣の風がシャツの背をはらませて、物悲しい口笛を吹きながら、去って行った。



ラウの思考は、一人の人物を思い描いていた。口の中に、消えたはずの血液の生臭さが滲み出してくる。



戦場の惨禍の味、人類の業のにおい。



私は……おそらく、そこで彼と再会することになるだろう。私の過去の記憶の一角に、くっきりとした残像を刻印している、あの男と。

そして私と彼は、情けを切り捨てて、命を賭した刃を切り交わすだろう。



「望むは、互いの抹殺……。

さあ、心ゆくまで、殺し合おうか……ムウ」



吹きつける風よりも、冷たく冴えた声に、かすかな忍び笑いが漂った。



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