星 夜

 恣音 様







 彼は手元のスコッチに目を落としていた。

二人掛けの小さなテーブルの上には、グラスキャンドルが置かれている。



 満月色の炎が揺らめいて、艶光りのする卓上を、透明のウィスキーグラスを光らせ
る。

 濃厚な味わいの酒には、天井のライトが映り込んでいた。夜空から星の雫がこぼれ
落ちてくるように、そのライトは、金属棒の先端に小振りの丸い電球が付いていた。

そんな繊細な照明が、いくつも吊り下がって、客たちの頭上を飾っている。

 

彼より一回りぐらい上かと思われる男は、祝日に催されるパレードについて話し掛け
てきた。

隣りのテーブルの、向かいの席からだ。だがテーブルの間隔が狭いために、相席して
いるような錯覚がする。



男が彼に話題を振るのは、これで何度目になるだろう。彼には、時間の浪費に思え
て、応じる気になれない。

白人とアジア人の混血のような顔立ちの男は、話に乗ってもらいたい想い人の心を自
分に引き寄せるように、頭を低めて、彼の顔を覗き込んだ。おどけたような目の下
で、無意味な言葉を紡ぎ出す唇が動いている。



店内には、バイオリンが奏でるクラシックが流れていた。客たちの会話の邪魔になら
ない程度の、低い音量だ。

一人で店に入ってきた彼──ラウ・ル・クルーゼには、耳にそっととどまって、流れ
過ぎていくような、その控えめな音楽が心地よかった。

美酒で舌を楽しませながら、物想いに耽る……単調だが、贅沢なひと時。その供とし
て、この店のBGMは最良だった。

ところが、それが今では、ほとんどの旋律が聴き取れない。バイオリンを抑え付けて
いるのは、男の無遠慮なお喋りだ。



──忌々しい。私が思いどおりに、誘いに乗ると思っているのか。



 彼はついに、立ち上がった。すらりとした長身が、天井のライトと、卓上のキャン
ドルに照らし出される。

均整が取れていて、モデルのように見る者を魅了させる体躯だ。 

「すまないが、一人にしてくれないか」

 年長の男を見下ろすと、冷たい響きのする声で告げた。

男はポカンと口を開けて、横を歩き過ぎていくラウの姿を見送った。極上のデザート
を手に入れ損ねたというような、未練がましい目をしていたが、去った青年を追うこ
とはしなかった。



 ラウはカウンター席に移動した。ワインレッドに塗られた椅子の背を引いて、あま
り甘くないブランデーベースのカクテルを……と注文する。

 暗色のシャツにネクタイを締めた、年配のマスターは、軽く頷いて了承した。背後
の棚に手を伸ばす。



 プラントの裏通りに面している、このバーには、初めて入った。古いウィスキー樽
のような色をした重そうな木製のドアと、その横に掛かっている銅板の、葡萄を収穫
している娘たちの絵の看板が気を引いた。

小さな窓から洩れていた、壁面ランプの光も、心を誘っているようだった。それは静
かに燃える暖炉の火のような、優しいオレンジ色をしていた。



八席のカウンターと、同数のテーブル。こじんまりとした店だ。

客は、半分足らずの入りだった。多いと煩いし、少ないと自分が目立つ──これぐら
いが丁度いい。それでラウは、しばらくこのバーに腰を定めることにしたのだ。

カウンタートップは椅子と同じく、ワインレッドに塗装されている。ディスプレイさ
れているビールの小瓶や、ナッツの入ったミニボウルを見つめながら、ラウはマス
ターから差し出された淡い茶色のカクテルに指を添えた。



そのひんやりとした感触が、肌を伝って、脳に染み込んだ。中身を口に含むと、舌先
にも冷たさが走る。しかし、喉を過ぎる頃には、熱く甘美な液体に変わる。

マスターが、いかがですか? という風に、一見(いちげん)の客を眺めていた。ラ
ウはわずかにグラスを上げて、口許をゆるめた。



入口の扉が開いて、新しい客が入って来た。どの席につこうかと迷うことなく、まっ
すぐカウンターに足を運ぶ。

ひとつ向こうの椅子を選んだ。細長いL字型にカーブしているカウンターには、カー
ブの突き当たりに一人と、中央寄りにラウしかいない。

 空席はあるのだから、もう少し、離れて座ってくれ……独りの空間を求めていたラ
ウは、心の中で、新参の客に苦言した。



「今日は風があるな。強めに吹くように、調整したのかな。天気情報で何か、言って
た?」

 片腕をカウンターに乗せて、腰をもぞもぞさせながら、その男は座る姿勢を整え
た。

「この前のムール貝、美味かったよ。今日も入ってる?」

 マスターは、ええ、と答えて、「それなら、白ワインにしますか?」と訊いた。

男は「シャブリね」と、軽快な口調で頼んだ。

 ラウは横目で短く、彼の姿を捉えた。



 三十代前半……自分より五、六才、年上に見えるが、表情や仕草が快活で、とても
若々しい雰囲気を持っている。

 髪は暗めの金髪。横分けにして、ラフに後ろに撫で付けているが、前髪を幾房か、
垂らしている。目の色は見取れないが、表情豊かに動く瞳だ。



体格は胸板の厚い、スポーツマンタイプだ。だが筋肉の硬さと同時に、機敏に次の行
動に移れる敏捷性や、しなやかさも想像させる体つきだ。

こんな感じの男を、昔、知っていたな……ラウは手元のグラスに、視線を戻し
た。……もう随分、昔のような気もするが。

色褪せた写真に閉じ込められたかのように感じられる、古い記憶。しかし、一度呼び
起こせば、その想い出はたちまち、鮮やかな色をまとう。そして、胸が痛くなるよう
な郷愁を運んでくるのだ……。



男とマスターは、親しそうに会話を始めた。ひいきのサッカーチームの成績、有名な
ギタリストのコンサートの感想、共通の知人の笑い話、新しく購入した家具の使い心
地──明るい笑声が、カウンターの上を転がった。

ラウはゆっくり、まぶたを閉じた。彼らの声が、二重奏の音楽のように聞こえた。騒
がしいのは嫌いだが、その小川の流れのような滑らかな響きは、不思議に受容でき
た。



ふと、何者かの関心を感じ取った。

頭を起こすと、金髪の男がこちらに顔を向けていた。

彼はふわりと微笑んだ。

「つまみは、ナシかい? 胃に良くないな。

 ムール貝は、どう? うまいよ、これ」

 たっぷりと縦長の貝が盛られた皿を、ラウに押しやる。



 ラウはどう対応していいのか、すぐには反応を返せなかった。

 すると男は、カウンターに手を付いて立ち上がった。次にその手は、ラウの隣りの
椅子の背に下ろされる。



「生ハム、要らないかい? 一人で食べるより、誰かと一緒の方が、美味いからね」

 彼はラウの返答も待たず、追加のひと皿を注文した。

 ラウは当惑していた。横に腰を据えた男の存在が、重く神経を押さえ付けてくるよ
うだった。



 席を立って、店を出ることを考えた。

そこで、上目遣いをしているマスターと、視線がぶつかった。

彼はすぐさま目をそらすと、俯いて、生ハムをスライスする作業を再開した。

ラウはすでに一回、好意を示してきた相手から離れるために、カウンター席に移動し
ている。そのことを知っているので、この二回目のケースはどうするのか、マスター
が大いに興味を引かれているのは、明らかだった。



(同性に二度も言い寄られて、すごすごと逃げ出すのか……情けない姿だ。

いや……この男は、単に話し相手がほしいだけかもしれない。お喋りなようだしな)



話し好きな人間に付き合わされるのは、うんざりする。だが、少しも相手にならない
で、構わないでくれと追い払うのも、大人気ない。

ラウが迷っている間に、男はすっかり、隣りの座席に馴染んでいた。半身を年下の青
年に開くと、頬杖をついて、くつろいだ笑みを見せる。



「俺は、モーガン。君は?」



 答えて当然、といった口調だ。ラウはもはや、彼のペースに引き込まれたことを
悟った。

 仕方ない……少しだけ、雑談に興じてやるか。しつこいようなら、切り上げればい
い。

 ラウはそう決めると、ひそかに身構えていた身体の緊張を解いた。



「私は……ラウ・ル」



 偽名を使おうかと考えたが、どうせこの男とは、二度と会うことはないと思い直し
た。しかし、「ラウ」というファーストネームのみの名は教えなかった。

「ラウル、か……いい名だ。知的そうだ」

 モーガンと名乗った男は、目尻に温かそうな皺を刻んだ。

 ゆっくりと酒を味わって、オードブルをつまみながら、他愛のない雑談が始まっ
た。



モーガンは快活に笑う男だった。時々、ややオーバーアクションになるが、それがさ
らに、その場の雰囲気を盛り上げる。ねえ、マスター、と気軽に呼びかけて、店主も
話に入らせたりする。

ラウのカクテルが空になりかけているのを見ると、グラスワインを頼もうか、と訊い
てきた。「もちろん、俺の奢りで」と付け加えた。

彼はさりげない気配りを、楽しい気配の中から、さらりと取り出してくる。



 ラウは慣れない人物には、かなり警戒心が強い。だがモーガンの持つ独特の親しみ
やすさに、ラウはいつの間にか、笑顔をこぼしていた。

それは彼が社会生活において、儀礼的に浮かべるのが癖になっているような、表層的
な微笑ではなかった。



「ムール貝は、冷たい海を好むんだ。地球なら、ヨーロッパ近海が本場かな。欧州で
は、一番食べられている貝らしい。カキやホタテより、人気がある」

「秋が旬……と、聞きましたが」

「へえ、そうなんだ。注文すると、大きな鍋に、山盛りで出てくるそうだよ。それを
ビールで流し込む。ヨーロッパ人のお楽しみだね」

「プラントに季節はないからな。養殖すれば、いつでも口に出来る。旬というものは
ないな」

「好きな時に食べれるってのは、嬉しいけどね。でも、その時期しか味わえない食べ
物、っていうのは、何か新鮮な気持ちがするね。

知ってる? 貝はね、卵で生まれて、しばらく水中を漂ってるんだ。赤ちゃんの時
は、ぷよぷよ丸くて、ぜんぜん貝っぽくない。そのうちに、だんだん貝殻が作られて
いって、親の形に似てくると、ようやく水の底に下りていく……」



 モーガンの話術に引き込まれながら、ラウは再び感じていた。ああ、やはり、この
男はあいつに似ている……。

 親しみやすく、自然に他者と馴染んで、いつの間にかグループの中心的存在となっ
ている。だが彼には、リーダーにありがちな威圧感はなく、周囲の者たちが和やかに
まとまるように、ムードメーカーで有り続けようとする。



 さらに、適度にテンポが良く、少し茶目っ気をふり掛けた話し方と、語尾にほのか
な甘さが残る声の調子……それらも、ラウが昔、親しんだ男の面影を想起させた。

 ラウは一時的に酒席の話し相手を務めてやったら、店を出ようと思っていた。しか
し、日付が変わる時刻を迎えても、席を立つ気になれなかった。



「かわいいよ、あいつらは。分けてくれた友達が、すぐに増えるよ、って言ったけ
ど、本当だった。

 最初は、熱帯魚が飼いたかったんだ。ほら、エンゼルフィッシュ、っての? 尾っ
ぽとか胸ビレが、大きくてヒラヒラしてるやつ。きれいで、見栄えがいいからさ」



 偶然で、知り合ったばかりのモーガンという男。その隣りに、もっと座っていたい
と感じた。

 もちろん、ラウの記憶の一隅を占めている、あの青年と、今、横にいるモーガンは
別人だ。理性的に考えれば、いつまでもモーガンに付き合っているのは、時間の無駄
だ。



 ラウは日頃から、無分別な感情というものを軽蔑している。それは彼が何よりも重
視している、冷静な判断力を鈍らせる。

 その自分が、今はくだらない感情に乗っ取られて、この場に居座り続けている。愚
かな事だ。

 もし、店に入る前の、もう一人の私がいて、それが今の私の状態を見たならば、思
いきり侮蔑の言葉を投げかけただろう。愚劣な感情に支配された己など、見たくもな
い。寒気さえ覚える。

それなのに、この体たらくは、情けない姿は何だろう……酒のせいだろうか。



「生き物ってさ、飼い始めると、なんでも愛着が湧いてくるよな。ちょっとずつ、で
かくなってるのが、嬉しくってさ。

……なあ、ちょっと、見に来ないか?」

 ラウの耳に、艶のある甘い声が潜み込んできた。



「……え?」

「グッピーだよ。たくさん、赤ちゃんが生まれたから……俺の話、ちゃんと聞いてた


 水槽はライトアップしてるんだ。部屋の電気を消して、眺めたら、とてもきれいだ
よ。幻想的でさ。本当に、水中にいるみたいな気分になる……」

 ラウはモーガンを見つめ返した。



そして、彼の瞳に見入られた時、自分はこの男の思惑どおりに動くことになるのだろ
う、と直感した。

 モーガンが席を立った。眼差しで、ラウを促す。

グッピーという、見え透いた口実に、ラウは乗った。

カウンターの中から、年配のマスターが、残された皿やグラスに手を伸ばしながら、
二人を見送った。

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