■4-1


「あ…ああっ……」

どこか途惑いを含みながらも、与えられる快感を逃すまいとしているような嬌声。
吐息と共に吐き出されるその声は、強く発せられれば艶を帯び、掠れた中に色気さえ滲ませている。

――― これは…俺の声か……?

聞き覚えはあるものの、この状況が信じられず、まだ疑わしい。
だが、突きとめようとする思考は新たな刺激により中断を余儀なくされた。

「やっ、そこは……あっ!……」

次に訪れたのは確かな感触。

――― 何……?

肌の上を何かが這い回っている
はっきりとした意思を持って動いているもの。
時には滑らかに表面を摩り。
時にはしっとりと皮膚に吸い付く。
どこまでも淫らで、あくまでも優しい。

数箇所で同時に蠢くそれは、隅々まで容赦無く攻め立てる。
感じやすい部分がわかるのだろうか。
無駄な動きはひとつも無く、的確に快楽の渦へと導いてゆく。

「駄目っ! ああっ!!」

局部を握られ、叫び声が上がる。
圧し掛かる身体に思わずしがみ付くと、それは細身だが引き締まっており、無駄の無い筋肉に覆われていた。

――― 綺麗な身体……

この体付きには覚えがある。
初めて間近で目にした時、羨ましく思ったのだ。
けれど、それが誰だったのか………思い出せない。

「…さん、駄目です、もう……」

――― 誰かの名を呼んでいる……?

誰だろう。
自分は誰に組み敷かれているのだろう。

「もう……我慢できない………」

切なげな息が漏れる。
追い上げられた身体が爆発しそうだ。

――― 熱い……

身体が灼けるように熱い。
けれど、まだ許してもらえそうにない。

「…シさん、……もっとっ!」

――― 俺は……誰に抱かれているんだ……?

「ああっ!!!!!」

……………………。



 ◆



(あれ…、俺、どうしたんだ……?)

イルカは寝床の中で上半身を起こしたまま、しばらく呆然としていた。
先ほどまで何かの夢を見ていたようなのだが、起きた瞬間に忘れてしまったのだ。

「何の……夢……?」

覚えているのは 「熱さ」 だった。
何かに包まれていたのだろうか。
何かを求めていたのだろうか。
熱い衝動、熱い切望、ただその感触だけが残っている。

「誰かが出てきた気がするんだけどな……」

記憶を辿ろうにも、見通しの悪い霧の中を手探りで歩くかの如く、掴み所が無い。

「あ……」

起き上がろうとした時、下着を汚してしまっているのに気付き、イルカは苦笑した。
うなされる夢はよく見たが、性的に興奮する夢は久しく見ていない。

「勿体無いこと……したのかな………」

現実の世界では恋愛事から遠退いている。
ならば夢の中だけでも、とも思ったが、すぐに空しさを感じ、溜め息をついた。

「洗っておかなきゃな……っ!」

立ちあがろうとすると、身体がふらついた。
まるで高熱が出た時のような奇妙な浮遊感に包まれているのだ。

「風邪でも引いたか?」

しかし、咳も出なければ喉の痛みも無い。
鼻も通っているし、今までの風邪の症状とは明らかに違っている。
いつもよりも鼓動が早く、少し身体が熱いのは、何のせいなのだろうか。

「とにかく、用意を……」

食欲の無い自分も珍しいと思いつつ、イルかは緩慢な動作で出勤の支度に取り掛かった。




■4-2


午後の受付に出るべく控え室までやったきたイルカを、同僚が見咎めた。

「おいイルカ、具合でも悪いんじゃないのか?」

赤い顔をしてぼーっとしているイルカは、どう見てもいつもと違う。

「いや、大丈…夫」
「大丈夫じゃないって、おまえ」
「……」

午前の授業は何とかこなしたのだが、どこか気力が入らなかったのは確かだ。

「今日はもう上がれよ」
「え、でも……」
「イルカは働き過ぎなんだよ」
「…それは……」
「この間は後片付けをやってもらったから、今日は俺が代わりにやっておく。 後のことは心配するな」

強く早退を勧められ、自分でもその方がいいかと思ったイルカは遠慮がちに肯いた。

「悪い…、そうさせてもらう」
「気にすんな、お互い様だろ。 ちゃんと帰って休めよ」
「ああ、じゃお先に……」

早退届けを書いて同僚に預け、イルカはアカデミーを出た。
帰り道をのろのろと歩きながら、今朝からの様子について思い返してみる。

(俺、どうしちまったんだ………)

自分でも仕事をし過ぎているとは思ったが、身体が不調を訴えていたわけでは無い。
ただ、今日は知らない間に動悸が激しくなり、集中力が途切れがちではあった。

こんな状態は今まで経験したことが無く、どう対処すればいいのか自分でわからないのだ。
しかし、病院で診てもらうほどでもあるまい。
とにかく、帰ってゆっくり休めば何とかなるだろう。
そう思って家を目指していたイルカだったが、道の真ん中で急に立ち止まった。

「今日の合同演習、無事に終わったかな…」

ふと、思い浮かんだ演習場。
そして。
ふと、何かが脳裏を過った。
起きる直前に見ていたはずの夢を思い出そうとしていた朝が甦る。

誰かの顔が浮かびかけたが、像は結ばなかった。
一体、誰だったのだろう。
すぐに消えてしまったそれは、掴もうにも掴めず、再び霧の中へと姿を隠す。
その向こうにいたのが誰なのか、判明しないまま…。

「そうだ、第三……」

独り言のように呟くと、イルカの足は家とは逆方向へと進んでいた。
不意に、カカシも演習場を使っていたことを思い出したのだ。

「もう終わってるかな………」

会いたいというのでは無い。
それなのに、どうしたことか無意識のうちに足が動いてしまう。
イルカは、熱っぽい頭で思考するのは止めにして、何かに引き寄せられるがままに演習場へと向かった。




■4-3


「誰もいない、か……」

カカシが予約していた演習場は、すぐ目の前に広がっている。
だが、人の気配は無く、忍具も見当たらない。
使用者は既に鍛錬を終えて、この場を後にしたのだろう。

「見てみたかったな……」

上忍がどんな鍛錬を積んでいるのか。
あのカカシが、どんな風に己を鍛えているのか。

「帰ろう……」

そう呟いて踵を返す。
と…。

「うわっ!!」

イルカの目の前に、カカシが立っていた。

「スミマセン、驚かせるつもりじゃ無かったんですけど…」
「あ、こちらこそすみません、勝手に入り込んで……」
「……」
「……」
「ぷっ」
「あはは」

恐縮して頭を下げ合っているのに気付き、二人して思わず吹き出した。

「近くまで来たもので、よければ少々見学させてもらえないかと立ち寄ったのですが」

上手く誤魔化せた、とイルカは思った。
これなら、怪しまれることも無いだろう。

「そうでしたか、生憎、もう帰ろうとしていたところでして」
「いえ、お邪魔して申し訳ありませんでした。 では」

深く頭を下げてその場を去ろうとしたイルカを、カカシが 「あの〜」 と呼び止めた。

「はい?」
「イルカ先生、もしかして具合が悪いのでは?」
「え、どうしてです……か……?」
「ほらっ!」

ぐらりと地面が揺れた気がしたのは、実際は自分がバランスを崩したせいらしい。
倒れ掛けたイルカの身体を、カカシの腕が支えている。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい…すみません……自分で立てますから、もう……」
「無理しない方がいいです、取り敢えず、あの木陰まで移動しましょう」
「……すみません……」



 ◆



「ここに腰掛けてください」
「……はい」

カカシは、抱えていた身体をゆっくりと下ろし、大木の根元に座らせた。
幹に背を預けたイルカは、肩で大きく息をしている。

「すみません、……でした」
「謝ってばかりですね」
「…すみま……あっ……」
「ふふふ、いいんですよ、楽にしていてください」

声音からも、弓なりになった右目からも、カカシが笑みを浮かべているのだろうということがわかる。
迷惑を掛けたと思ったが、本人が甲斐甲斐しく世話をしてくれるので、イルカはその厚意に甘えようと思った。
言葉で返すのはやめにして、感謝の意を表わそうと同じく微笑んで見せる。
それを目にしたカカシの微笑みが、僅かに変化を見せた。

「まだ勤務中ですか?」

問われた内容に含まれた意図が掴めなかったが、イルカは素直に首を横に振った。

「いえ、今日はもう上がらせてもらいましたので」
「それなら」

カカシが徐にイルカのベストのジッパーを下げ、前を寛げさせる。
あまりに自然な仕草と早業に、抵抗する間も無い。

「え……?」
「窮屈だと余計に疲れますからネ」
「はあ……」

これは、病人に対する処置だ。
そう判断して、イルカは大人しく身を任せた。
しかし、正面に中腰になっていたカカシがイルカの顔へと手を伸ばした時は流石に驚いた。

「あのっ……何を?……」
「コレ、外しましょう」
「えっ?!」

近付いて来る両手に、何をされるのかと驚いたイルカが身を固くする。

「じっとしてて」

穏やかなのに支配力を含んでいる声がイルカを包む。
身動きできず、声も立てられないまま、上忍の命令に従うかの如く、言われた通りに身体を静止させた。

「……」

イルカの緊張を見て取ったカカシの表情がどこか曇っている。
怖がらせたいのでも、無理に従わせたいわけでも無かったのだが、相手はそうとは受け取っていないようだ。

「すぐに済みますから」

そう言って、カカシはイルカの額当てを外した。

「あ……」
「この方が楽になるかな、と思ったので。 あと、コレも」

再びカカシの両手がイルカの後頭部へと回される。

「え?………!!」

一括りにしていた髪がばさりと下ろされた。

「!」

カカシの瞳が、イルカを凝視している。

(また、別人が現われた…………)

途惑いを滲ませ、どこか不安げな顔付きのイルカは、髪を下ろすと余計に、いつもと印象が違った。
女々しいわけではないのに、どことなく色気が滲んでいるようにも見える顔つき。
カカシは、胸の奥がちくりと痛んだのを自覚した。

「ここでしばらく風に当たっていれば、気分も楽になるでしょう」
「…ありがとうございます」

カカシから額当てと髪を括っていた紐を受け取りつつ、イルカは先ほどの緊張を解いて身体を弛緩させた。
朝よりも今の方が頬の火照りを強く感じる。
横に並んでカカシが座っているというこの状況も手伝っているのだろう。
けれど、心の方は不思議と次第に落ち着いてきた。

「いい気持ちです」

目を閉じ、そよそよと吹く風を感じていたイルカが、深呼吸の延長のように喋る。
すると、腹の虫がくうーと鳴った。

「っ!」

この場にそぐわない音に、つい赤面する。

「実は、朝から何も食べてませんで…」
「それはいけない。 食欲が無かったんですか?」
「食欲は…ありませんでしたね。 それよりも胸がいっぱい、という感じで……」

朝の出来事を思い出したイルカの瞳が、目の前の景色を映さずに遠くを眺めた。
すぐそばにいる人物の存在など忘れてしまったかの如く、一人の世界に入り込んでいる。
その表情を見て、カカシは鳩尾の辺りがざわつくような感覚に襲われた。

(誰かいるんですか…? その胸の中に……)

何故、そんなことが気になるのか。
本来、関わりなど無いこの中忍の想い人など、自分にとって必要な情報では無いはずなのに。

「誰かを……思い浮かべているんですか?」

つい、訊いてしまった。

「えっ?」
「まるで、恋煩いのようだ」

そう言った後に、己の心がキシキシと軋んでいるのに気付く。
何故だ……。

「ええっ?!」

突然カカシが口にした単語はあまりに思い掛けなかったが、イルカの頬は薄っすらと染まっていた。

(そう……なのか……?)

はっきりとは思い出せない姿に心を奪われていたような今日は、思い返せば恋をしていた時に似ている。
しかし、この場でそうだと認めるわけにもいかない。
カカシとはまだ、気軽に会話を交わせる間柄では無いのだ。
夢の内容を話すのは無理だし、かと言ってぼんやりとした人物の説明などできるはずもない。

「そんなことは……無いです」

迷う心のままに答えたせいで曖昧になりつつも、一応否定した。
その答えが出るまでの表情の変化を見ていたカカシは、自分の言った内容が当たっていると思い込んだ。

(いるんだ……)

胸の奥がちくりと痛む。
物理的な攻撃など受けてはいないのに、痛いのは何故だろう。

「そうですか」
「…はい」

さっきまで心底リラックスしていたイルカが、急に落ち着きを無くした。
居心地が悪そうに視線もあちこちを行ったり来たりしている。

(そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだけどね……)

カカシは、せっかくの休息のひとときを自分が邪魔してしまった気がして、挽回を試みることにした。

「あの〜」
「はい!」

次は何を言われるのかと身構えたイルカに、カカシが竹皮の包みを取り出す。

「実は、俺も飯がまだなんですよ。 良ければ一緒にどうですか?」
「えっ、いや、それは……」

包みを開くと、大き目の握り飯が二つ現われた。

「ただの塩むすびで海苔を巻いているだけなんですが」
「でも、今日の鍛錬の為に用意されたお弁当ですよね。 それを頂くわけには…」
「遠慮ならば無用です」

上忍の微笑は、ある種の恐怖を感じさせる場合がある。
しかし、カカシの笑みは見ているこちらを安心させてくれた。

「さ、さ! 半分コしまショ♪」

鍛錬の途中でも摘めるようにと、綺麗に洗った大きな葉でひとつずつ包(くる)んでおいた。
それが幸いしたのか、イルカは 「では…」 と遠慮がちに手を伸ばした。

「どうぞどうぞ」

イルカが勧めに応じて握り飯を取ると、カカシも残りのひとつを掴んだ。

「味は保証しかねますが」

どこか照れ臭そうに笑いつつ、口布を下ろす。
と、

「!!」

イルカの視線がカカシの顔に釘付けになった。

「ん? どうかしましたか?」
「あっ、いえ! あの…その……見せてもいいんですか?」

遠慮している様子だが視線が離れない。
カカシは、さっきよりも紅潮しているイルカを穏やかな眼差しで見返した。

「あ〜、構いませんよ。 イルカ先生でしたら何の問題もありません」

まだ額当ては斜めに付けられたままだが、晒された素顔は美しいの一言だった。
初めて見るその美貌に、イルカは胸の高鳴りを止められないでいる。

「どうして、いつもは隠してらっしゃるんですか?」
「うーん、子供の頃からこうしていたので…。 まあ、コレも俺の忍び装束の一部、というコトで」
「はあ……」
「今はプライベートな時間ですから、外してもいいんです」

はっきりとした理由は明かされないままだが、カカシがイルカに対して警戒心を抱いていないのはわかった。
自分に向けられる微笑みにも裏は感じられない。
若干高揚感は残りつつも、イルカは再び穏やかな心地になれた。

「では、ご馳走になります」
「はい、どうぞ」

イルカがカカシの作った握り飯にかぶりつく。
具は無くとも、ほんのり効いた塩味と海苔だけでかなり美味しく感じる。

「美味いです!」
「それは良かった。 あ、水もどうぞ。 ひとつだけなので回し飲みですが」

丁度、水分が欲しいと思っていたところだ。
タイミングの良さに、イルカは遠慮することも忘れた。

「頂きます」

袖で口を拭ってから、竹の水筒に口を付ける。
もしかして汲んできたばかりなのだろうか、と思うほど、冷たくて美味しい。

「食欲が出てきたなら、もう大丈夫ですね」

水筒を受け取りながら、カカシがイルカを見遣った。

「カカシさ…あ、いや、はたけ上忍のおかげです。 ありがとうございました」

その呼び方に距離を感じたが、カカシは敢えて聞き流したフリをして水筒の水を飲んだ。

「まだありますから、どうぞ」
「あ、どうも」

二人とも食べ終わってから、再び水筒が手渡される。
カカシが飲んだのと同じ場所に、自分が口を付けている。
そう思った瞬間、イルカは急に顔が熱くなったのを感じた。
一口目の時は何とも思わなかったのに、意識し出すともう止まらない。

「大分、飲んじゃいましたね…」

そう呟いて返そうとした時、見合ったカカシの唇に、つい注目してしまった。

(いつもは隠されている唇……誰かに触れたりするのかな……)

成人の男なのだから、キスや性交の経験があってもおかしくは無い。
自分だって…………

(!!)

不意に、戦場での場面が思い出された。
欲求の捌け口としてのみ存在していたあの日々。
時たま、口付けを強要されて思うがままに嬲られた。
そんな自分の唇が卑しいものに思え、咄嗟にカカシから目を逸らし、心の中で詫びた。

(貴方の水筒を汚してしまった……っ! やはり、自分は誰とも関わってはいけないんだ……)

それまでの和やかな雰囲気が急に薄れた気がして、カカシは黙り込んだイルカの様子を覗った。
自分の作った握り飯を全部食べ、元気が出た様子だったのに、今はどことなく沈んでいる。
どうしたのかと問うてみたいが、見た目以上に繊細らしいこの青年を、傷付けるような真似はしたくない。
カカシは水筒や竹皮を仕舞いながら、「ところで〜」 と、のんびりした口調で話し掛けた。

「アカデミーの仕事は、忙しいですか?」
「まだ不慣れな部分もあったり、要領が悪かったりするので、いつもバタバタしています」

イルカは胸の内に抱えたままの闇を見せまいとしつつ、平常心を自分に言い聞かせてカカシの問いに答えた。

「授業と受付とじゃ、大変でしょう?」
「それを言えば、上忍である貴方の方が大変なんじゃないですか? いつも激務で……」
「帰ってきて、報告書を出しに行った時に労ってもらえると、疲れも吹っ飛びます」
「……そんなもんですか?」

いつも受付で自分がしている努力が認められたのだと思い、イルカは心の内で喜んだ。

「貴方の笑顔が一番のご褒美かな」
「えっ……」

受付でカカシを出迎えたのはまだ一度だけだ。
あの夜は緊張の方が勝っていて、上手に笑えたかどうかわからない。
カカシに対する若干の畏怖もあり、他の忍に接しているのと同じには、心の底からは労えなかったように思う。

それでも、カカシは自分の精一杯の笑顔を喜んでくれた。
あの場では素っ気無かったが、それは向こうにも気まずさがあったからだろう。
関わらなくてもよかった場面に遭遇してしまったせいで…。

「最近はどうですか?」
「どう、とは…?」
「んー、理不尽な目に遭ってない?」
「!!」

まさに今、それについて考えていたところだ。
浅慮が招いた暗い闇。
何度も引き摺りこまれそうになったが、懸命に堪えていた。
しかし、今度ばかりは無理かもしれないと覚悟を決めて臨んだあの夜。
上忍に呼び出されて出向いたのだが、予期せぬカカシの出現によって結果的には事無きを得られた。
そして、その後、無理を言う輩とは出くわしていない。

(そうだ……!!)

問われて初めて、そのことに気付いた。

「もしかして、あなたが何か…?」
「俺にそんな力はありませんよ」

飄々と掴み所の無い佇まいだが、木ノ葉きっての忍といえども一介の上忍だ。
他の忍をどうこうする力は持っていないだろう。

(では、何故…? 他の誰かが? 他って……はっ!!)

唯一、その権限を持っている人物に思い至ったが、口には出さなかった。
きっと、その人物とカカシが関わっているのは間違い無い。
どちらもイルカを取り巻いていた状況を把握していたのか、…と思うと顔から火が出そうだが、はたと気付いた。
知っていて……それでいて影で力を貸してくれ、ずっと見守ってくれていたのだろうか。

(火影様……カカシさん……)

熱い物が込み上げそうになったが、ぐっと堪えた。
本人が否定している以上、それについての礼を言うことはできないが、感謝の気持ちは伝えたい。

「ありがとうございました。 お握りと水、ご馳走様でした」

“ありがとう” には様々な意味を込めた。
それをカカシは理解したのか、何も言わずにただ深く微笑んだ。

「今日は思い掛けず楽しかったです。 寄り道して良かった」
「俺もです。 まるでピクニックみたいでしたね」
「ええ」
「また、こんな風に過ごせたらいいな〜」
「あ……」

そんな時間が持てたら、どんなにかいいだろう。
けれど、この素晴らしい忍に、あまり自分が関わってはいけない……。
その一瞬の躊躇が、否定の意味かとカカシを勘違いさせた。

「あー、せっかくのピクニックの相手が男ってのは嫌ですよね」

イルカの心には誰かが居る。
そう思っているカカシは、イルカと過ごしたいという本音を隠して、冗談で流した。

「い、いえ……、はたけ上忍こそ、どなたか一緒に楽しみたい方がちゃんといらっしゃるのでは無いのですか?」

こんないい男は誰も放っておかないだろう、というイルカの思い込み。
それを、カカシはまた遠回しな否定と感じてしまった。

「ええ、いますよ」
「え……!」

心のどこかでは、「そんな相手はいませんよ」 と否定して欲しかった。
自分勝手な理屈だが、自分以外の誰かと一緒に楽しそうに過ごすカカシは想像したく無かったのだ。
けれど、カカシはきっぱりと答えた。
“いる” と。

「そう…ですか……。 素敵な人なんでしょうね〜」

わざと明るく振舞い、何気ない会話を装おう。

「まだ出会ったばかりなので、よく知らない部分が多くて」
「へ、へぇ〜………」
「ですから、もっと接してみたい。 もっと会話を交わして、どんな人物なのかもっと知りたいと思っています」
「うまくいくといいですね」
「………ええ」

一拍置いた返事は、カカシの複雑な胸中を表わしていた。
貴方のことです、と伝えたい。
けれど、自分とはあまり深く接したくは無さそうなこの青年に、無理強いするつもりは無い。

(誰なのかな……)

イルカは、落胆した心の奥でぼんやりと考えた。
知りたい。
この上忍にそこまで想われる相手とは、一体どんな人物なのか。

(でも、これ以上は訊けないな……)

カカシの逡巡を知らないイルカは、返事までに開いた間を、カカシが作った壁だと思ってしまった。
秘めた恋心の行方については、他人にどうこう言われたくなど無いだろう。
いや、そもそも、カカシと自分との距離が縮まっている、と感じたことこそ勘違いなのかもしれないのだ。

(俺なんかが近付いちゃいけない人だよな………)

返事次第では、またこんな時間を過ごせる機会を得られたかもしれない。
しかし、二人共がもどかしいまでに自分の心を押し隠した結果、僅かな溝ができた。
そして、相手を気遣おうとしてかえってその溝を深めてしまった。

「そろそろ日も暮れますね」
「そうですね」

どちらも、ここらが潮時だと感じた。
イルカが髪を括り直し、身支度を整え始めたのを見て、カカシがゆっくりと立ち上がる。

「帰りますか」
「はい」

返事をして、イルカも腰を上げた。

「立てますか?」

手を差し伸べようとしたカカシの気遣いを、イルカはすまなそうに微笑んでやんわりと断った。

「もう、大丈夫ですから」
「……良かったです」

行き場を無くした手を、それとは見せないような自然な仕草で口元に持って行く。
口布を戻せばいつもの風貌。
表情が判り難く、感情が読めない、いつもの…。

「今日はお世話になりました」
「いえいえ。 では、先に行きます」
「はい、お疲れ様でした」

挨拶を交わすと、カカシはすぐにその場から姿を消した。
空気さえも揺らさない、上忍の鮮やかな退場だ。

一人になったイルカは、しばらくの間その場に立ち竦んでぼんやりしていた。
顔が近付いて胸が高鳴ったのも、お手製の握り飯を食べたのも、同じ水筒で水を飲んだのも、全て……、

(夢だったのかな………)

そんなはずは無いとわかってはいても、楽しかった時間はあまりに現実感が乏しかった。
今までのひとときがまるで夢の中の出来事だったような気持ちになる。
イルカは現実と夢との境目が曖昧になっていく感覚に陥り、ぶんぶんと頭を振った。

(しっかりせねば)

今日は早退させてもらったのだから、明日は元気に出勤しなければならない。
仲間に迷惑をかけない為に、身も心もしゃきっと立て直さなければいけないのだ。

(もう、あの人についてあれこれ考えるのはよそう……)

熱もいつの間にか下がっていたが、銀髪の姿を思い浮かべると心が不安定になる。
カカシに対する畏れも興味も、イルカは全て閉じ込めることにした。

次に会った時は、いつもの笑顔でいられるように。
その笑顔が特別なものにはならないように。

(辛いな……)

ただ微笑むだけなのに、こんなにも苦労するとは。
しばらくは、気を引き締めて常に注意を払わなければならないだろう。

「これも、己の修練のひとつだ」

一番星を見ながら、イルカは自分にそう言い聞かせていた。










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