■5-1


「よっ、そっちも終わりか?」

受付所へと向かっていたアスマが、廊下を曲がってきたカカシに声を掛けた。

「ん〜、まあね」

いつものようにポケットに手を突っ込み、やや背中を丸めてゆっくりと歩くカカシの歩調にアスマが合わせる。
背の高い二人が肩を並べて歩くと、かなりの威圧感があった。
前から歩いてきた者は道を譲り、後ろから追い抜こうとする者もいない。

「来年はおめぇも下忍を受け持つんだろ?」
「あー、なんかそういうコトになったみたい」
「なら、昨日の合同演習、見学に来りゃ良かったのによ」
「俺も色々と忙し〜の」
「ほぉ」

(どの面ぁ下げて忙しいっつってんだか…)

心の中で別の返事をしているアスマは、昨日はカカシの体が空いていたのを知っていた。
当日の朝、最終チェックで演習場全体の使用状況を確認していた時、カカシが入れた予約を見付けたからだ。

一人の鍛錬ならば、時間の融通は利くだろう。
そう思い、合同演習が終わった後に一杯誘おうかと、わざわざ遠回りをして第三へ足を運んでみた。
するとそこで、思い掛けない人物の姿を目にしたのだ。

木陰に並んで座っているカカシとイルカ。
すぐには結び付かないその組み合わせを意外に思った。
確かに自分が一度引き合わせたが、ろくに挨拶も交わしていなかったはずなのに。

(いつの間に仲良くなってたんだ?)

疑問は湧いたが、自分の大切な友人二人が知り合いになってくれるのは大歓迎だ。
それに、カカシにはイルカの過去を少し話しておいた。
その上で、カカシがイルカを気に掛けてくれていたのならば、味方が増えたことになる。

(イルカ……)

イルカはいつもきっちりと髪を括って服装の乱れは見せない。
それが、上忍であるカカシの横で、ベストの前を寛げ、髪も解き、体を弛緩させているようだった。
額当てもしていない姿は戦場での悲惨な状態だった時を思い起こさせたが、穏やかな様子に胸を撫で下ろした。

それよりも驚いたのはカカシだ。
遠目からだったがその顔に笑みが浮かんでいるのがはっきりとわかり、吃驚した。

(カカシ……?)

あれは、ただの知り合いに向ける顔では無い。
気にはなったものの、仲良くしているならば邪魔をするのは野暮だと思い、アスマはすぐにその場から立ち去った。

カカシは、近くまで来ていたアスマに気付いていたかもしれない。
そして、間も無く気配が消えたのも感知していただろう。
今、敢えてそれには触れないのをどう思っているのか、そこまではわからないが。

「今日も混んでんなー」

受付所が近付くにつれ、ざわざわと賑わっている様子が廊下にまで伝わってきた。
部屋の中を覗くと、既に見慣れた光景だが、イルカの前の列だけが長く延びている。

(元気そうだ…)

昨日とは違い、普段通りに明るい笑顔でてきぱきと列を捌いているイルカを見て、カカシは安堵した。
だが、報告書を書き上げる為に部屋の隅にある机に向かおうとした、その時。

「!」

同僚らしい一人の忍がイルカに近付いてきたのが目に入り、動きが止まった。

名を呼ばれたイルカが笑顔で振り向く。
報告者に少し待って欲しいと告げているイルカの肩に手を置き、身体を寄せて何かを耳に囁いている中忍。
口元を手で隠しているので、耳と唇がどのくらい接近しているのかまでは見えない。
囁き終わると、イルカがその中忍の方に顔を向け、一言、何か返している。
中忍が肯き、手にしていた書類をイルカに渡そうとした。
上体は屈めたままで、イルカの肩を抱き込むような体勢だ。
受け取る時、イルカと中忍の指先が触れ合った。
二人とも微笑み、至近距離で目を見交し合う様子を、カカシはじっと見ていたが……、

「!?」
「っ!!」

その部屋にいた何人かが、微かに突き刺さるようなチャクラを感じ取って肌を粟立たせた。

「何、殺気立ってんだよ」

アスマがぼそっとカカシに告げる。

「はあ?」

カカシが一瞬だけ、視線をアスマに向けた。

「おめぇだよ」

少々険を含んだ物言いになっていたアスマをカカシが訝しげに見ている。
しかし、目の端ではイルカの動向をしっかりと追っていた。

書類は回覧の文書だったようだ。
イルカがサインをすると、中忍はその書類を持って受付所から出て行った。

「俺が? 何で?」

そう返事したのが合図の如くに、密かに忍を戦慄させたチャクラの気配は跡形も無く霧散した。

「自覚無しかよ……」

もう、普段の状態に戻っている。
先ほどは、感覚が特に研ぎ澄まされた一部の忍のみが反応したらしく、大勢の者達は感知しなかったようだ。
イルカに耳打ちしていた中忍は何の変化も見られないまま退出していたし、イルカも通常と変わりは無い。

「さっさと済ませて帰るよ」

カカシがヒラヒラと用紙を振りながらアスマを促す。
何事かと気付いた数人に対してアスマが問題無い旨を目配せで伝えている間に、報告書を書き上げたらしい。

「ったく、この恩知らずが……」

チッと舌打ちして報告書を書いたアスマは、机から一番近い手前の列の最後尾についた。
カカシはと言えば、イルカの横の列に並んでいる。

(イルカんとこじゃねーのか…?)

アスマが様子を覗っていると、カカシは自分の番が来た時、報告書を受付者に渡した後にチラリと斜め前方を見た。
気付いたイルカが、提出の済んだ報告者を送り出してから僅かにカカシの方に顔を向ける。
双方が一瞬だけ目を見交わし、軽く会釈して視線を元に戻す。
それは、何の変哲も無い光景なのに、アスマには二人ともどこかぎこちなく見えた。

(ん?)

傍から見れば、知り合い同士の挨拶に過ぎない。
しかしアスマは、その向こうに何がしかの想いが隠されている、と感じ取ったのだ。

(もしかして、コイツら……)

ある仮説が生じたものの、自らの考えにうーんと唸ってしまう。

(……そうなのか……?)

多分、どちらもが互いの存在を気を掛けているのだろう。
少なくともカカシはイルカをかなり気に入っているに違いない。

イルカもまた、カカシに特別な感情を抱いているようだ。
昨日の様子からもカカシを意識しているのが覗えた。
けれど、上忍に対する遠慮があるのかもしれないが、今一歩踏み込んではいないと推察できる。

相手に対する想いを当人同士はどれほど自覚しているのか。
もしも、まだ芽生えたばかりの感情ならば、第三者である自分が介入するのは遠慮しておいた方が賢明だ。

(ま、成り行きに任せっか)

こういった場面では、周囲がとやかく構ってはいけない。
アスマはしばらくの間、静観を決め込むことにした。

意外な展開に驚きを感じたのは確かだが、心の底では進展を期待してもいる。
男同士であろうとも、相手を本気で想う気持ちは理解できるし、何より、

(イルカが幸せになるなら……)

それならば、応援してやろう。
だが、もしもイルカを泣かせるようなことがあれば…。

「ん? 何?」

先に済ませて廊下の壁に凭れたまま本を読んでいたカカシが、近付いて来たアスマの視線を感じて振り向いた。
つい、厳しい目付きでカカシを見ていたアスマは、

(俺は花嫁の父か、っての)

と、自分で自分に突っ込みを入れて胸の内で苦笑する。

「いや、今日も一日、よく働いたと思ってよ」

大袈裟に肩を回しつつ、適当な台詞で誤魔化した。
構いはしなくとも、見守るのは己の役目だと思っている。
どちらにも気付かれないように注意を払って、だが。

「……そりゃお疲れさん」

カカシもそれ以上は問い質そうとはせずに、本を手にしたまま壁から離れて先に歩き出した。
猫背なのは相変わらずだ。

受付所を出ると、もう夕暮れ刻だった。
アスマは昨日誘い損ねた酒の席を目指し、カカシを伴って木ノ葉の里の歓楽街へと消えた。




■5-2


「いよいよナルトもアカデミー生じゃの」
「はい、これから厳しく鍛えます」
「うむ」

煙管を手にして窓辺に立ち、里を眺めていた火影が、イルカに背を向けたままゆっくりと肯いた。

「また賑やかになるわい」
「そうですね」

まだ幼さを残していた子供達が、幾分しっかりとした顔付きになって卒業してゆく。
そして、巣立つ生徒を送り出すと、アカデミーにはすぐに別の雛達がやってくる。
その中に、今年は注目を集めてしまう子供がいるのだ。

(ナルト……)

まだ己の秘密を知らされず、今はただ無邪気に駆け回っているナルトを思うイルカの心中は些か重かった。

(お前は真っ直ぐに育ってくれ、ナルト………)

忍になる以上、日の当たらない闇の部分と関わらずにはいられない。
それでも、心まで闇に冒されないように、と願わずにはいられない。

「では、この書類お預かりします。 失礼します」

イルカは一礼すると執務室を出た。
外から甲高い賑やかな声が聞こえて来る。
新しい環境を前にして新入生達がはしゃいでいるのだろう。

(強くなれよ)

木ノ葉の未来を担う子供達に心の中でエールを送る。
皆、里の宝物だ。

「ん?」

廊下を歩きつつひとり穏やかな微笑みを浮かべていたイルカの視界の隅で、何かが動いた。
立ち止まってふと窓の外に目を遣ると、背の高い影の後ろに小さな影が三つ並んで付いて行くところが見えた。

(カカシさん!……)

カカシが、アカデミーを卒業したばかりの生徒を引き連れてどこかへ向かっている。

(下忍認定かな?)

卒業したからと言って、すぐに忍になれるものでは無い。
まず下忍になれなければ再びアカデミーに逆戻りだ。

(同じ教師、という感覚とはちょっと違うんだよな…)

カカシが上忍師を引き受けたと聞いた時、イルカは複雑な心境になった。
下忍を育てるのはもちろん大事な仕事だ。
けれど、木ノ葉きっての忍であるはたけカカシは、実戦の場で活躍することこそ望ましいのではないか。
そんな風にも考えたが、忍として立派だからこそ、師としても期待されるのだろう。

上忍師としての下忍を教育しながらの任務と、これまで通りの上忍の任務、その両方をこなしているらしい。
自分が教師と受付担当者を掛け持ちしているのとは比べものにならないが、どこも人手不足で忙しいようだ。

任務を遂行する以上、報告書の提出は義務付けられている。
だから、もしもカカシが上忍師としてのみ動いていたとしても、受付所で会うチャンスはやってくる。
それはつまり、今までとあまり変わりないという事。

(本当は…会えるのは嬉しいけど……)

正直、辛くもある。
もう思い出の一部になってしまった、数ヶ月前のあの日。
まるでピクニックかと錯覚しそうなくらいに楽しかった、あのひととき…。

まだ知り合って間も無い頃、演習場で少しの時間だけ共に過ごした以降は、二人きりで会う機会は無かった。
たまに廊下や商店街で擦れ違ったりもしたが、簡単な挨拶を交わしただけで終わってしまい、特に話もしていない。

カカシへ向かいそうになっていた感情は一度は封印したのだから、接触が少なくても構わないはずだった。
なのに、どうしても気になる。
心が、……軋む。
己の想いを閉じ込めるのは無理なのだろうか……。

カカシが受付所に来ると、その姿を目で追ってしまう。
しかし、カカシはイルカを避けるかの如く、別の列に並んで自分のところには来てくれない。
それでいて、会釈だけは寄越して来る。
その微妙な関わりが、イルカを途惑わせていた。

アスマと行動を共にしているのを見て羨ましくなった時もある。
たまたま居酒屋で特別上忍や上忍仲間と飲んでいる姿を目にしてしまって、心の奥がチクリと痛んだ日もある。

自分とカカシとの間に存在する、見えない距離。
それを寂しいと感じてしまうようになるまで時間は掛からなかった。
だが、何故そうなるのかを突き詰めて考えようとはしなかった。

多分……、

――― 怖い

……からだ。

自分の気持ちを認めてしまうのが怖かった。
認めて、その先まで考えてしまいそうになるのが怖かったのだ。

どうしようもなく惹かれているのは否めない。
ただ、己が身も心も穢れていると思い続ける限り、ここから一歩も動けないでいる。

(一方的に想うことさえ、迷惑になるんだろうな………)

上忍師になったからと言って、カカシは上忍には違いない。
同じ木ノ葉の忍ではあっても、身分が違えば色々と異なる部分が多くなってくる。
通常の任務にはあまり出ないイルカの環境も相俟って、受付以外の公の場でのカカシとの接触は皆無に近かった。

だから、まだ耐えられる。
膨らんでいきそうな想いを、今は抑え込むことができているじゃないか。
そのままもう何ヶ月も経ったのだから、これからだって何とかなるだろう。

キャー、とまた子供達の明るい声が響き、イルカは物思いから引き戻された。
時は流れてゆく。
思い悩んで立ち止まっている暇は無いのだ。

とにかく、自分は与えられた仕事をきっちりとこなしていかなくてはならない。
頭も心も、里の為にだけ使えばいい。

ぐっと体に気合いを込め、イルカは足早に受付へと向かって行った。
青く澄み渡った空を、白い雲がゆったりと流れていた。




■5-3


「お邪魔するよ」
「へい、らっしゃい! おや旦那、毎度どうも」

国境近くの賑やかなこの町には国を越えてやってくる人々も多い。
土産物や雑貨などを扱う、店主一人で切り盛りしているこういった小さな店でも、数人の客で賑わっていた。

「今日は仕事が早く終わってね」
「そりゃお疲れ様です」

男の客は、この店では馴染みの顔のようだ。

「何か目新しいモノは入ったかな?」
「前に旦那がいらしてからは、特に入ってないんでやすよ。 変わり映えが無くてすいやせん」

気の良さそうな店主が笑みを浮かべて頭を掻いている。
まだ青年の面影を残してはいるが、がっしりした体格と整った容姿には、人を惹きつけるものがあった。
この店にやってくる女性客の目当ては、品物以外でもあるらしい。

「構わないよ、また立ち寄らせてもらうから」
「お探しのモンでもあるんでしたら、聞いておきやしょうか?」
「いや、今は特に無いんだ。 この町に来たら、ご主人の顔は見ておかないと、と思ってね」
「嬉しいことを言ってくださる」

会話が弾んでいるところへ、これください、と他の客が店主に声を掛けた。

「すいやせん、ゆっくり見て行ってくだせぇな。 はい、お待たせいたしやした!」

明るく弾んだ声を聞いて、男の脳裏に、ふとある人物の顔が浮かんできた。
爽やかな笑顔。
よく通る少し高めの声。
男女問わず好かれていた彼とは、もう長い間会っていない。

「……」

ふうっ、と微かな溜め息を吐くと、男は陳列品を見るとは無しに見ていった。
さっきの店主の様子からすれば、まだ少し自分と話したいようだ。
それまでは、土産物を選んでいる振りでもしながら、客が途切れるのを待とうか。
そう思いつつ眺めていた先で、視線がピタリと止まった。

「あ………」

手に取ったのは、ガラスでできた置き物だ。
男の手の平にすっぽりと収まる大きさで、透き通った青がとても美しい。

「あ〜、それは実は不良品で…」

女性客を送り出した店主が男のそばへとやって来た。

「ここに傷が入ってやしてね、売り物にはならねぇんですけど、賑やかしで置いてるんでさぁ」

あはは、とよく響く笑い声を聞きながら、男はそのガラス細工の動物をしげしげと見つめた。
流線型の美しい姿は、水の中に放せば生き生きと泳ぎ出すのではないかと思うほどだ。
くりっとした大きく描かれている瞳の愛らしさに心を奪われそうになる。
その目と、少し尖った口の間くらいの位置に、一本の傷が入っていた。

「これ、売ってもらえる?」
「ええっ?! それをでやすか? でしたら、こっちの綺麗なのを…」
「これがいいんだ。 金は払うよ」
「いやいや、それは申し訳ねぇんで、お気に召したんでしたらそのままお持ちくだせぇ」
「いいのかい?」
「ええ、旦那には贔屓にしてもらってやすから」
「ありがとう、じゃあ遠慮無く」
「壊れねぇようにお包みしてきやすね。 ちょっとお待ちを」

そう言うと、店主は男が持っていた置き物を受け取って一旦奥へ引っ込んだ。
次に出てきた時に手にしていた袋は、置き物の大きさよりも若干大きい。

「お待たせいたしやした。 先ほどのお品です。 あと、いつものオマケも入れておきやしたんで」
「悪いね、じゃあまた」
「へい、ありがとうございやした! お気をつけて!」



 ◆



街道を外れ山道に入ってから、カカシは漸く変化(へんげ)を解いた。
この先は忍の道を使って帰るので一般人を装う必要は無い。

上忍師にはなったが下忍を担当していない今は、里外任務も頻繁に割り当てられた。
手が空いているならと長期任務にも就かされたりしたので、このところは里にいる方が少ないくらいだ。

今回の任務は外国での要人警護だったが、約一週間の日程は滞り無く済み、あとは単身、里へ戻るだけ。
明日からしばらくは久しぶりに里内での任務が続く。
どれもそれほどランクが高くは無かったはずだから、迅速にこなせば自由な時間も作れるかもしれない。
最近はずっと、身体が空かないので仕方無く、報告書の提出は代理の者に行かせていた。
けれど、できるだけ受付所に顔を出したいとは思っている。

あそこには彼がいるから。
遠くから一目見るだけでいいから……。

さあっと風が吹いた。
見上げた天空には、上昇する風に乗ってゆったりと舞う鳥が浮かんでいる。

「いい天気」

今日は予定では、任務完了後に急いで戻っても、日付が変わるまでに里へ着けるかどうか微妙なところだった。
しかし、依頼主の都合でかなり早くに終わり、思い掛けず時間に余裕ができた。
さっさと戻ればいいのだが、こんなことは滅多に無い。
急がなくても構わないならば、たまにはゆっくりしてもバチは当たらないだろう。

澄んだ青空を眩しそうに見ていたカカシは、この辺りで少し休憩を取ることにした。
近くには川が流れていて、冷たい水も補給できる。
先ずは顔を洗ってさっぱりさせてから、竹の水筒に汲んだ水をごくごくと飲んだ。

「ふうっ」

口元を拭って一息つく。

(コレで一緒に飲んだんだよな……)

水筒を回し飲みした日のことは、今でもよく覚えている。
彼の唇を凝視しそうになって、さり気なく視線を逸らせたのだった。
不思議と繋がっているように感じられた、あのひととき。
互いの心が近付いたのは錯覚では無かったと思う。

ただ、何かがすれ違い、本当に触れ合うことはできなかった。
それからはずっと疎遠なままだ。
今ではもう、思い出と言ってもいいくらい昔の出来事のように感じてしまうあの日が、懐かしくさえ感じる……。

カカシは再び水筒を水で満たすと、木陰に移動して腰を下ろした。
落ち着いてから取り出したのは、さっきの店でもらった袋。
中には、火影宛ての手紙が入っている。

あの店主は情報収集を担当している木ノ葉の忍で、密かにこの国に潜入していた。
仕入れた情報は自ら木ノ葉の里まで戻ってきて報告する場合もあるものの、大抵は第三者を介している。
里外任務でこの近辺を通り掛った忍が店に立ち寄り、手紙を受け取っているのだ。

カカシは何度か訪れているので、一般人の姿では店主とはもう顔馴染になっていた。
だが、同じ里の忍なのに互いに素性を隠して接触している為、どちらも相手の正体は知らないままだ。
それは、万が一の場合に備えて、情報漏洩を防ぐ為でもあった。

火影に渡す前に、カカシはいつも手紙自体をチェックし、中の情報も確認している。
これは里の中枢にまで行き着く手紙だ。
店主に化けたあの忍を信用していても、念には念を入れておかねばならない。
自分が関わった件については些細な穴も見逃さないよう、カカシは情報の扱いには細心の注意を払っていた。

「さて、今回は……」

今日の会話では、近隣諸国の間で新しい動きは無いということがわかった。
そして、こちらからも今は特別警戒している件も無い、と伝えている。
表向きは平和なものだ。
しかし、水面下で何か起こっていないとも限らない。

「なるほどね」

とある国に常駐として木ノ葉の里から派遣した忍のうちの一人を、この国で見掛けたと書いてある。
報告書の最後に、ついでといった感じで付け加えられたその一文が、カカシは妙に気に掛かった。

常駐を命じているといえども、複数いて交代制なのだから、非番の日ならば自由に行動しても構わない。
ただ、その範囲が些か広いのでは無いかと思えたのだ。
雇われている国からここまで来るには、忍の足でも三日はかかる。
そして、この国からならば、木ノ葉の里は目と鼻の先だ。

「ちょっと様子を見た方がいいかな…」

具体的な指示は三代目が出すだろうが、自分も注意を払っておこうと考えつつ、手紙を袋へ戻した。
次に手にしたのは、小さな包み。

「衝動買い、になるのかな、コレも……」

丁寧に巻いてある緩衝材をめくり、中身を取り出す。
手甲を脱いで、手の平に直に載せた。
なだらかな曲線を描く顔を指先で撫でてみる。
傷の部分で僅かに手が引っ掛かり、そのまましばし動きが止まった。

「イルカ」

ガラスでできた動物の名を口にする。

「……………イルカ………イルカ先生」

やがてそれは、自分の心を占めている人物の名になった。

「イルカ………」

あの顔を、あの声を、忘れたことは無い。
でもあの日、演習場でほんの少し一緒に過ごして以降、自分から接触を図ってはいなかった。

もしかして……、

――― 怖い

……のか。

そう、真正面から想いをぶつけるのが怖かった。
見掛けと違って繊細な彼を、困らせたくはなかったのだ。

演習場で喋った時、イルカの心には誰かがいるように感じた。
もう大人だし、人当たりの良い彼のことだから、彼女や恋人くらいいても不思議では無い。
けれど、その後少し気に掛けて様子を覗ってみたのだが、周囲にそれらしい影は見当たらなかった。

ならば、自分がイルカの隣のポジションを望んでも構わないだろうか?
そんな風にも考えたけれど、行動には移せなかった。

中忍と上忍という立場の違いからも、イルカはこちらが強く出れば断れないだろう。
だが、そういう関係は自分の望む形とは違う。
あくまでただの個人として、今よりももっと深く知り合えれば…。
たったそれだけの願いなのだが、成就させるのは至難の技となっていた。

受付所で姿を見付けても、横から会釈するのが精一杯で、イルカの列に並んだりはできない。
ただの知人として接すればいいとは思うものの、それがなかなか難しいのだ。
少しでも親しくなる努力をすべきか、とも考えたが、無理強いは駄目だとわかっている。
何より、もし拒絶されたら、と思うと一歩が踏み出せずにいた。

けれど……。

会えないほどに、会いたいという想いが募る。
この気持ちは何なのだろう。

こんなにも自分の心を捕らえて離さず。
今だって、名前を呼んだだけでこんなにも切ない。

「会いたいなぁ」

なかなか二人で会う機会は得られず、ずっと疎遠なままになっている。
ガラスで作られたイルカの真一文字に付いた傷を優しく撫でながら、カカシは想い人の姿を思い浮かべた。

「帰ろう」

あの人が待つ里へ。
そして、会おう。
必要な時間は自分で作り出すのだ。
少しでも早く里へ戻れば、少しでも長く会えるかもしれない。
思い立った瞬間、カカシの姿はその場所から消えていた。




■5-4


トントントン、とリズミカルなノックの後に、「イルカです」 と涼やかな声が続いた。

「入れ」
「はい」

火影の執務室では、三代目が煙管片手で書類に目を通している。

「ご依頼の資料をお持ちしました」
「うむ、ご苦労じゃった」
「ではこれで」
「ああ、ちょっと待て」

退室しようとしたイルカを、三代目が呼び止めた。

「すまんが、肩を揉んでくれんかな」
「お疲れですか?」
「もういい年じゃからな」
「何を仰いますか、火影様にはまだまだお元気でいてもらわないと」

慣れた手付きでイルカが火影の肩を揉み始める。

「かなり凝ってますね、今日はもう終わりにされては…」
「うむ、そうしたいところじゃが、今夜里に戻って来る忍がおってな」
「はあ」
「カカシなんじゃが」
「!!……」
「夜遅くなるかもしれんが、報告を聞きたいのでな」
「そう…ですか」

そのまま黙ってしまったイルカに、火影は別の話題を振った。

「ところで、ナルトじゃが」
「ナルトが何か?」
「相変わらず、やんちゃなようじゃな」
「ええ、アカデミーの先生方もお困りでして……」

ナルトが引き起こした数々の事件が頭を過ったのか、イルカが思わず苦笑している。

「ふぉっふぉっふぉっ、昔のおまえを見ているようじゃ」
「ええっ、俺?! …いや、私ですか?」
「そのうち、嫌でも大人になる時が来る」
「……はい」
「それまで、しっかり指導せいよ」
「はっ!」
「お〜、楽になったわい。 もう仕事に戻って構わんぞ」
「はい。 どうぞご無理はなさらず」
「うむ。 ああ、そこの書類は読んだ分じゃから、処理済みにしておいてくれ」
「わかりました。 では、失礼します」

書類の束を抱えて一礼したイルカを見つめる三代目の眼(まなこ)は、慈愛に満ちた優しい色を帯びていた。



 ◆



里に戻り、受付所への近道である中庭に向かったカカシは、踏み入れかけた足をふと止めた。
ここは以前、イルカが言い寄られていた場面に遭遇した場所だ。
あの時、黒く美しい瞳に釘付けになり、つい首を突っ込んでしまった。

(あれが切っ掛けか……)

同じ里にいても名前さえ知らなかった中忍の教師。
それがいつの間にか、己の中でこんなにも大きな存在になっている。
多分、彼に惹かれているのだろう。
けれど、強さや美しさに憧れる自分は理解できるが、彼に対するこの感情はまだどこか持て余していたりもする。

(ま〜、まだ始まったばっかりだし)

取り敢えずは、久しぶりに言葉を交わしたい。
きちんと目を見て、話がしたい。
そんな風に考えつつ中庭を横切ろうとしたカカシの前を、ひとつの影が通り過ぎた。

「イルカ先生!!」
「…? ……あっ、 カカシさん?!」

突然のことで、イルカはいつも心の中でだけ呼んでいた呼び方になっていると気付いていない。
鼓動の高鳴りが耳まで届くくらい、平常心を失っていたのだ。

カカシもまた、思い描いていたタイミングよりも早く出会えた驚きを隠せないでいる。
だがそれとは別に、イルカの口から名前を呼ばれる心地良さを知ってしまい、胸の内で密かな興奮を覚えた。

「お久しぶりです! あの……今、お帰りで…? 里外任務だったんですよね……?」
「よくご存知ですね〜」
「あ……」

イルカの頬に少し赤味が差した。

「あ〜、受付をされているんですから当然ですね」
「え…あ、いえ……はあ、まあ……」

カカシは勝手に納得したようだが、受付担当だからと言って全ての忍の動向を把握しているわけでは無い。
イルカは、たまたま三代目から聞いて、カカシが里の外に出ていると知っていた。
それだけならば何も赤くなる必要は無いはずだ。
けれど、自分がカカシを気にしている、と本人に受け取られたかもしれないと思い、一瞬焦ってしまったのだった。

「ただいま戻りました」

カカシは、その言葉を自然と口にしていた。
帰還を一番に報告したい相手に “ただいま” を言える。
それが、こんなにも嬉しいことだとは。

「お帰りなさい。 任務、お疲れ様でした」

一呼吸入れてから、イルカは真っ直ぐにカカシの目を見て応えた。
瞬時に滅私して会えた嬉しさは隠したのだが、多分、上手くできたと思う。
イルカは里を代表するつもりで、心からの笑顔でもってカカシを労った。

「イルカ先生、今からどちらに…?」
「この書類を教員室に運ぶところですが…」

何故そんな質問をするのだろうかと疑問が浮かんだけれど、もっと会話を続けたくなって問われるままに答えた。

「受付所には行かないんですか?」
「遅番で入ります」
「そうですかー」

カカシの声が弾んでいる。

「じゃあ、イルカ先生に提出できるかな〜」
「え……」
「今日は時間があるんで、イルカ先生が受付されていたら列に並ばせてもらいますね」
「えっ?!……」

演習場で出会った以降は、報告書を提出する時、カカシは決してイルカの前へ来ようとはしなかった。
それをイルカは、距離を置かれている、と感じていたが、顔を合わせれば常に会釈をしてくれていたではないか。
近付きたくないのなら、そんな行為さえしないのでは……。

「いつもは、お忙しいから……?」

つい、願望が混じったまま質問してしまった。

「そうなんです」

半分は正解だ。
多忙な身で長蛇の列に並んでいる時間が取れなかったのは事実だから仕方が無い。
けれどカカシは、余裕があってもイルカの列は避けていた。

一応知人でもあるので、イルカを選んで並ぶのは不自然ではあるまい。
しかし、いざ目の前に立つと、何を話していいのかわからず困っていただろう。
誰もがイルカと言葉を交わしたくてその列に並んでいる。
無愛想に報告書を出すだけならば、わざわざイルカの前に行く必要は無いのだ。

もちろん。
報告書提出も仕事の一環なのだから、別に私的な会話はしなくても構わないのだが。
ただ、せっかくイルカを前にして、素っ気無い態度しか取らないのは勿体無いと思ってしまう。

ここで一つ問題なのは、イルカはあくまでも中忍として、上忍に対する態度で接してくるはず、ということ。
話はできたとしても、公の場では立場の違いなどから気軽な会話は望めそうに無い。
それが、どこか残念でもあった。

でも……。

これまでは遠慮している部分もあって、自分の気持ちに素直には向き合えなかった。
だが、まだはっきりと形にならないままでも、これからはもっと積極的に行こうと思っている。
イルカが拒みさえしなければ……。

「次の任務がすぐ後に入っていたりしたので、残念なんですけど、早く済みそうな列に並んでましたね」
「そう…だったんですか………」

避けられていたのでは無かったんだ、と思った瞬間、イルカの心の奥で何かが解けていった。
強張っていた体が、すっと楽になったような気さえしている。

ならば……。

もし、カカシに好きな人がいたとしても、想うくらいは許されるだろうか?
こんな穢れた自分だが、決して表には出さず、密かになら……。

「先に三代目への報告を済ませてから行きますね」
「はい。 受付でお待ちしています」
「(!………)」

柔らかな音色で紡がれた言葉がカカシの耳をくすぐる。
と同時に、カカシは内心で驚いていた。

イルカが再び微笑んだのだが、先ほどとは違う微笑みに見えたのだ。
それは、“帰ってきた忍” に向けられるものでは無く、“カカシ” に向けられたもの。

「お願いします。 では後ほど」

カカシもまた、誰にも見せない笑みをイルカにだけ見せた。
名残惜しいが、まだ後で会える。
そう思うと、ついつい頬が緩んでしまうのを止められない。
カカシは軽く会釈してその場を離れた。

同じように会釈を返したイルカは、カカシが背を向けると同時に大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
早く次の仕事に取り掛からなければならないのに、体が動かない。

(カカシさん………)

心の中でその名を呟き、抱えていた書類をぎゅっと抱き締める。
黒い瞳は、一点を見つめたままだ。

久しぶりに間近で見た姿は、相変わらず眩しかった。
やはり、自分はこの人への想いを止められない……。

太陽が次第に傾いてきた。
鮮やかな夕焼けが里を染めてゆく。
少し猫背気味な背中を見送るイルカもまた、橙色の光に包まれていった。




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