■3-1


「何故あそこで止めに入られたんですか?」
「はて、何のことじゃ?」

執務室でカカシと向き合っていた三代目火影は、殊更ゆっくりと煙管を口に持っていった。
吐き出された煙が二人の間を漂う。

「殺しはしませんよ、あんなのでも一応、同じ里の忍なんですから」
「そこがまた、厄介なところなんじゃがな」
「やっぱりご存知だったんじゃないですか……」

大袈裟に溜め息をつき、カカシはこれ見よがしに肩を落とした。
どこか非難めいた口調を受け流すかのように、三代目が煙を燻らせたまま椅子の背凭れを軋ませる。

「大事な戦力を失うわけにはいかん。 じゃが、ワシとて人間。 感情が先に立つこともある」
「しかし、火影という立場は常について回る……と」

カン、と灰が捨てられた音が部屋に響いた。
煙管を置いて机の上に肘を付き、年輪を刻んだ両手が顔の前で組まれる。
火影の表情がやや険しくなったのをカカシは見て取り、心中を慮った。
里の長として行動しなければならないこの老人の、人情厚く優しい面はよく知っている。

「彼奴は既に次の任務に就かせておる」
「任務、ですか…」

この展開は、あの場面に火影が使いを寄越してきた時から予想はしていた。
状況が変わるのなら、それに越したことは無い。
だが、果たしてそれで終わりなのだろうか。
実際に直接火影の口から聞かされると、カカシは胸の奥に奇妙なしこりが残っているのに気付いた。

「常駐の忍が欲しいと言ってきた国があってな。 一年の予定じゃが、延長も有り得る」
「行かせたのはそのひとりだけですか?」
「いや、おまえが懸念している件に関わった者も数人就かせた」
「すべてお見通しだったんですね」

なら何故、里内であんな事が起こっていたのか、と再び疑問がカカシの口をついて出そうになった。
少しでもナルトに関わる事件は、里にとっても見過ごせないはずだ。
しかし、そこは火影のこと、目を掛けているらしい忍を放っておいたわけでは無いのだろう。
困難を己で乗り越える力を付けさせるのも親心のひとつなのかもしれない。

「適宜配置したまでじゃ」
「ま、そういうコトにしておきまショ。 では失礼します」

苦い思いが残りはしたが、火影の裁量には従わねばならない。
軽く頭を下げて、カカシは火影の前を辞した。

「あの中忍先生には処世術も伝授してやってください」

部屋を去り際に、唯一覗いていた右目がすっと細められる。

「これで解決したとは思えませんから」
「………わかっておる」

カカシが去った後、今度は火影がひとつ大きな溜め息を零した。




■3-2


授業を終えたイルカが受付所に現われると、まばらに散っていた忍達が途端に集まりだした。
イルカが着席した机の前には、既に列ができている。

「お待たせしました、どうぞ」

明るい笑顔に迎えられ、一番に並んだ忍がうきうきと報告書を手渡す。

「記入漏れはありませんね、はい、結構です。 あ、先日頂いたお菓子、美味しかったです」

イルカの言葉に、前に立っていた忍の目尻が下がった。

「だろ〜! 出張先で評判だと聞いたから、是非イルカにも、と思ってな」
「皆で分けさせてもらいました。 ごちそうさまでした」
「え…皆で……?」

頬がピクリと引き攣っている。

「俺もお裾分け貰いました!」
「ごちそうさまです!」
「美味かったっす!」

周りで雑用をこなしていた数人から礼を言われ、忍は落胆しかけた表情を無理矢理引き戻した。

「い、いや、喜んでもらえたら何よりだ」

イルカを一人占めするのは無理なこと。
それは、ここにいる全員がわかっている。
ただ、ほんの数分、イルカと一対一で向き合えるこのひとときを、それぞれ楽しみにしているのだ。
中には、その至福の時間を少しでも延ばそうと、手土産持参で報告する者も出てきた。
しかし、イルカは一個人では無く職員のひとりとして勤務している為、お土産は全て仲間と分け合っている。
そして、そうなるだろうとはわかっていても、貢物を止められない報告者は後を絶たないのだった。

「ありがとうございました」
「ああ」

なんだかんだ言っても、この笑顔には弱い。
一日の終わりを気持ち良く過ごせれば、また明日も頑張れる。

「じゃあ、またな」
「はい、お疲れ様でした」

忍は満足そうにひらひらと手を振りながら、列から離れた。

「次の方、どうぞ」

イルカの涼やかな声が通る。
極上の微笑みに迎えられ、並んでいた次の忍がこれまた嬉しそうに報告書を差し出した。
今日も、長蛇の列は途切れそうにない。



 ◆



「疲れたなー」
「ああ、週明けだからか、報告者が多かったな」
「授業をこなして遅番だろ、イルカも大変だな」
「そうでも無いさ」

今日の遅番は自分から申し出て組んでもらったシフトだ。
何も考えずに仕事に没頭したかった。
ひとりになる時間を先延ばしにしたかったから……。

心に隙ができると、つい先日の夜のことを思い出してしまう。
より鮮明に思い浮かぶのは、言い寄ってきた上忍では無く、カカシの姿で…。

 『アンタ、何やってんですか』

はっきりと自分に向けられた言葉が、耳の奥で何度も繰り返して再生される。
カカシが放ったのは氷の刃にも似て、イルカの心に深く突き刺さった。

あの時、己という存在を全部否定されたように感じた。
忍として、ひとりの人間として、今まで培ってきたものが、愚かな行為のせいで脆くも崩れてしまったかのように。

(馬鹿だよな、俺って……)

どんなに言い繕ったとしても、何をしようとしていたのかは誤魔化せない。
エリート上忍であるカカシの目を欺こうというのはそもそも無理なこと。
今後、身体を売るような真似をしている忍なのだという見方をされても仕方が無いだろう。

(辛いな…・・・・・・)

戦場では、どれだけ蔑まれてもそれほど苦にはならなかった。
感覚が麻痺していた部分もあったのだろうが、他人をそこまで意識していなかったからだ。

唯一、恥ずかしさを感じたのはアスマに対してだったが、彼は瞬時に状況を理解し、イルカを助けてくれた。
その言動は苦しみを取り除き、イルカに平穏な日々をもたらしたのだ。
醜い部分を知られたのに、アスマには素直に接していられた。
イルカを取り巻く世界を変えてくれた彼には、今もずっと感謝の念を抱き続けている。

けれど……。

里に戻ってから出会ったカカシに対してはどこか違っていた。
木ノ葉きっての忍に対する憧憬に近い想いを少なからず抱いていたからなのか。
アスマの友人だ、という意識もあったはずだ。
自分によくしてくれるアスマが引き合わせてくれた人。
その時点で、もう赤の他人では無くなっていた。
まだちゃんと挨拶できていないが、いずれ言葉を交わせるようになるかもしれない。
そうして、もっと親しくなれればどんなに心躍ることだろう、と思っていた。

(でも、無理だ……)

思い掛けない遭遇が続き、最悪の場面ばかりを見られてしまった。
きっと、これ以上は無いくらいのマイナスイメージを持たれてしまったに違いない。
それが、……どこか哀しいのだ。

思い出しても戦慄してしまう。
カカシの声を聞いた瞬間の、肌が粟立ち、血液が逆流したのかと錯覚しそうなほどの、恐怖にも似た感覚。

(もう、二度と……っ)

あんな感覚は二度と味わいたくない。
だから、これからは流されまいと心に決めた。
どれだけ過去を持ち出されても、決して屈しないと誓った。

ナルトもアカデミーに入学すれば、己を守る術も身に付けられる。
もしも、自分とナルトの二人の手に負えない目に遭っても、火影様をはじめとして頼れる人物は大勢いる。
そう思えただけでも進歩なのだから、あとは自分自身がしっかりすればいいのだ。

アスマにも心配をかけているのはわかっていたが、里でまで手を煩わせるのが嫌で何も話してはいなかった。
今後も打ち明けないのは変わらないが、己の生き様を見せて納得してもらおう。
もう大丈夫だと安心してもらえるように努力しよう。
彼なら、きっとわかってくれるだろう。

…しかし、カカシは………。

こんな風に思えたのは、カカシのお陰だとも言える。
戦場において困難に直面していた時、アスマは状況を変えてくれた。
優しく包み込んで、イルカを守ってくれた。
それに対し、カカシは根本的な部分を指摘して、イルカ自身の意識を変えた。
胸を突き刺す痛みが、現状を打破する切っ掛けになったのだ。

ただ、この自分の決意をわざわざカカシに伝える必要は無い。
そんなことを聞かされても、向こうも迷惑なはずだ。
お互い、名前も顔も知っているが、まだそれだけの間柄なのだから。

次にカカシに会った時、どんな顔をしていいのかわからないが、せめて職場でなら仮面を被っていられる。
素の自分に戻る時間はなるべく先延ばしにしたい。
そんな思いもあって、イルカはずるずるとアカデミーに残り続けていた。

「そろそろ終わりかな?」

机の上を片付け始めた隣の忍を見て、イルカはもうそんな時間かと時計を見た。
あと少しで日付が変わろうかという時刻だ。

「先に上がっていいぞ。 あとは俺がやっとくし」
「そうか、悪いなー」
「お前、さっきからソワソワしてっからな」
「あ、バレてた?」
「何かいいコトでもあるのか?」
「んー、ちょっとね〜」

帰り支度をしていた忍が、照れ臭そうに小指を立てている。

「またイルカにも報告するよ!」
「あ…ああ、楽しみに待ってる」
「じゃあな!」
「お疲れさん」

イルカはいつものように笑顔を見せると、仲間の忍を送り出した。

「彼女、か………」

意中の女性にアタックしたらしいという噂は聞いている。
それが、成功したのだろうか。
恋をすれば、男だって輝く。
彼は元々人当たりのいい真面目な忍だったが、最近は仕事にも張りが出て、いきいきとしていた。

「うまくいくといいな」

友人でもある忍の恋を、自分も応援したくなっていた。

(俺は……駄目だから………)

今は、恋愛はできないと思っている。
過去に為された愚行は決して消えない。
浅はかな自分が招いた結果だ。
流されまいとは決めたが、付き纏う影から完全に逃れられないうちは、誰かと心を通わせることなどできない…。

(もう……いいんだ………)

ずっとひとりで生きてきたのだから、これからだってひとりで構わない。
寂しさは、忙しさが紛らわせてくれる。
耐えるのは得意な分野なのだし。

「誰も来ないかな……」

遠ざかる足音が消え、途端に静かになった部屋の中で、イルカがうーんと身体を伸ばした。
ついでに欠伸をすると、耳の奥でゴオーッと血液の流れる音が聞こえる。
この瞬間は、何もかも忘れられるから結構好きだ。
すぐに現実に引き戻されるのだとわかっていても。

「はあっ………」

吸った息を大きく吐き出し、下ろした手を机に付いてそのまま立ち上がった時、入り口に人影が見えた。

「まだいいですか?」
「!!」

現われたのはカカシだった。
瞬時に固まってしまったが、今は、ただの職員として接しなければならない。

「あっ、はい!」

慌てて座り直し、欠伸のせいで目尻に滲んだ涙を誤魔化しつつ、いつもの体勢を整える。
イルカは咄嗟に笑顔を作ったものの、机の下では動揺を抑えるのに必死だった。

「遅くに申し訳無いです」
「いえ、どうぞ」

部屋に入ってきたカカシがイルカの前に立った。
見上げて来る顔に、唯一覗いた右目が引き寄せられる。

(笑顔………)

しかしそれは、張り付けたとまではいかないが、表面上のモノだった。

(ま、しょーがないか)

本当にただの通りすがりならば良かった。
首を突っ込まなければ良かった。
それならば、誰にでも向けられている微笑を、今ここで自分も見られたのに。
なまじ関わってしまったものだから、ただの第三者ではなくなってしまった。
イルカの中では、自分に対する苦手意識が芽生えていても仕方が無い。

「お疲れ様でした」

労ってくれてはいるが、イルカの声はどこか固く聞こえた。
報告書を手渡す時も、目線はすぐに紙に移ってしまい、カカシに留まることはない。

「はい、結構です」

向けられた眼差しに途惑いが含まれているのを感じる。
早くこの場を終わらせたいのだろう。

自分は、平常の態度で接したつもりだ。
だが、普段の自分を相手はまだ知らないのだし、口布のせいで表情もわかり辛い。
イルカがどう感じたのか、それが……気になる。

「ど−も」

結局、必要最低限の言葉しか交わせなかった。
自分から話し掛けることはできず、仮に待っていたとしても弾むような会話は望めなかったはずだ。
カカシは、来た時と同じく、唐突にその部屋から去って行った。

「っ…………ふうっ……………」

大きな溜め息と共に、イルカが机に突っ伏す。
応対している最中は何とか踏ん張っていたが、姿が見えなくなってからどっと緊張が襲ってきた。

(うまく笑えただろうか……)

部屋に入ってきたカカシを見た瞬間、心臓がひとつ大きく打った。
だが、ここは公の場で自分も相手も職務中だ。
プライベートでの出来事は頭の中から極力排除して、他の忍に接する時と同じく、丁寧な態度を心掛けた。

多分、問題は無かったと思う。
あの夜の件で何か言われるかな、と少しは警戒していたが、カカシから何も切り出されなかったのも助かった。

けれど、今後、カカシに会う度にこんな思いをすることになるのだろうか。
できれば、なるべく会いたくない。
毎回、こんなに緊張を強いられては身が持たない。

(アカデミーの業務を増やしてもらおうかな)

そして、受付所での仕事が減れば、カカシと顔を合わせる機会はぐっと減るだろう。
今のところ、他で会うような場面は無いのだから。

帰り支度をしなければと思いながらも、疲労感に包まれたイルカは、しばらくの間、座り込んだまま動けなかった。
窓に目を遣ると、その向こうに望に近い月が見える。

日毎に姿を変える月。
けれど、いつもと変わらずそこに在る月。
銀色の光が、ふと何かを連想させる。

「!!………」

イルカはぶんぶんと頭を左右に振って、形作りそうになった影を振り払った。
やらなければならない仕事も、考えねばならない案件も山ほどあるのだ。
ひとつのことだけに構ってばかりはいられない。

「帰るか」

声に出して、自分を動かした。
心の中を無の状態に保とうと懸命になりつつ……。




■3-3


「おう、イルカ」
「あ、アスマさん、お疲れ様です」

晴天の昼下がり、明るい日差しが差し込んでいる廊下を歩いていたイルカに、アスマが声を掛けた。

「これから受付か?」
「いえ……、明日の合同演習の準備があって、今日はそちらに掛かりっきりです」

見ればイルカは、大量の書類を抱えている。
各班に配る資料の準備をしているのだろう。

「そりゃ、残念がっている奴らがいるだろうな〜」
「受付は今の時間は女性ばかりのはずですよ。 俺なんかが座ってるより華やかでいいじゃないですか」
「確かに、どんだけ煩くてキツくても女の方がいいってヤツもいるがな」

そういうアスマは、自分は違うとでもいうように苦い顔をした。

「まあ、皆さんズバズバと仰いますしね」

くの一は、柔な性格では務まらないらしい。
中には穏やかな物腰の者もいるが、皆、芯はしっかりとしている。
今日の受付担当者は男相手でも引けを取らずに張り合う面子ばかりだと気付き、イルカも苦笑を浮かべた。

「俺はおまえの方がいいけどな。 愛想はいいし、丁寧に応対してくれるし」
「えっ……それは、どうも……」

誉められているのだと気付き、イルカは思わず照れてしまった。

「ま、頑張れよ」
「はい!」

挨拶を交わすと、お互い違う方向に去ってゆく。
アスマと別れたあと、イルカの顔からは先ほどまで見せていた微笑がすっと引いた。

(嘘じゃ無いし………)

明日の準備の為に、アカデミーで人手が足りなかったのは事実だ。
だが、必ずしもイルカでなければこなせない仕事では無かった。
それでも、自分は受付よりも雑務を選んだ。

(受付だって、俺じゃなくても……)

受付所で自分に会うのを、自分と会話するのを、とても楽しみにしてくれている人達がいるのはわかっている。
けれど今は、ただひとりに会わないようにする為だけに、わざとそこから離れた。
どちらも仕事は仕事なのに、真面目な性格が災いして後ろめたく感じてしまう。

(とにかく、今はこっちに専念して……)

そう思った端からイルカの心に浮かんで来たのは、またもや同じ姿だ。
ここのところ、寝ても覚めてもその人物のことばかりを考えている。
会いたくないと思えば思うほど強く意識しているのだとはわかっていても、心が勝手に描いてしまう。

(参ったな……)

今も、口布に覆われ、額当てを斜めに掛けた顔が、脳裏から消えてくれない。
イルカは無理に振り払うのは諦めて、職員室へと急いだ。




■3-4


合同演習の準備に追われてざわめいている職員室に、連絡係の中忍が息を切らして飛び込んで来た。

「演習用トラップの確認がまだ終わらないらしい! 手が空いている者はいるか?!」
「了解! すぐに何人か送る」

応援の要請を受けて、中にいた忍達が慌しく立ち上がった。

「イルカは残って留守番を頼む」

同じように立ち上がっていたイルカに、今回の指揮を担当している年長の忍が指示を出す。
それぞれ抱えている仕事量から判断したようだ。

「了解しました」

几帳面なイルカは、名簿や当日のスケジュール作成など、いくつもの仕事を任されていた。
応援に向かわせても役には立つだろうが、今は書類の完成も急がねばならない。

「他の者は俺と共に現場へ向かう! じゃあ、後は頼んだぞ」
「はい、行ってらっしゃい」

演習場へ向かう上司や同僚達を送り出したイルカは、職員室でひとり、黙々と仕事の続きに取り掛かった。
任された分が終わっても、まだ他の作業が残っている。
席を外した同僚の分も可能な限り片付けておこう。
そう思って頭の中で段取りを組んでいた時、戸口がノックされた。

「はい!」

イルカが素早く反応すると、扉がゆっくりと開き、訪問者が顔を覗かせた。

「あの〜」

そこに立っていたのはカカシだった。

「っ!…………、あ、はいっ……」

イルカが僅かに固まっている。
その様子を見たカカシもどことなく気まずさを感じたが、用件を済まさねばと中へ入って行った。

「演習場の利用申請に来たんですけど、明日は合同演習があるとか…?」
「は、はいっ! 下忍を集めた大掛かりな演習で、演習場の約半分がそれに使用されます」

カカシの名前が合同演習の参加者リストに載っていなかったのは確認済みだ。
参加しないのだから、演習についての情報も入っていないのだろう。

「では、空いている場所もあるんですね?」
「はい! 今、確認しますのでお待ちくださいっ!!」

慌てなくても良さそうなのに、イルカはバタバタと書類棚へ向かって行った。
後ろで束ねた黒髪が忙しく揺れている
カカシはその姿を見て、どことなく親近感を覚えた。

(尻尾……)

犬の尻尾みたいだと思い、くすっと笑い声が漏れたが、口布のおかげでイルカには届かなかったようだ。

「お待たせしました、これが使用状況です」
「どーも」

書類を手渡したイルカの視線が、上衣の袖を巻くっていたカカシの腕に惹き付けられた。
手甲をしているからなのか、曝け出されている部分が余計に白く見える。
いや、自分の皮膚の色と比べても確かに白いのだ。

(綺麗だな……)

滑らかなその肌。
細いが、少し動かしただけでしっかりと付いている筋肉が感じられる。
鍛え抜かれた忍の身体だ。

一方、視線を感じ書類から目線だけを上げたカカシは、イルカの顔をまじまじと見つめてしまった。
イルカの瞳が、あの夜の鋭い眼光とも、受付所で見せる優しさとも違う輝きを帯びていたのだ。
宝物を前にしてキラキラしている、とでもいうのか、純粋に好奇心に満ち溢れている瞳はとても美しい。

(綺麗だ)

偶然にも、二人は相手に対して同じ感想を抱いた。

「はっ!……」

不意にイルカが我に返り、至近距離のままだった状態に気付いて一歩後退る。
どこを見ればいいのかわからない、といったかの如く視線が定まらないが、足はその位置からは動かなかった。
苦手なはずのカカシと向かい合うことに、今は躊躇いは無いらしい。

どぎまぎしている理由はわからないものの、拒絶されていない感じがして、カカシは改めてイルカを観察した。
部屋に入った瞬間の、どこか途惑う素振りを見せたイルカとは別人のようだった。

(真っ直ぐな人なんだろうな……)

何事にも真正面からぶつかって、避けたりはしないのだろう。
不器用な生き方ではあるが、どこか羨ましい気もする。
忍としてはどうなのか、となると、あまりにも正直過ぎるのは問題なのかもしれないが。
会う度に異なった表情を見せるイルカに、カカシは今までとは違う興味を抱いた。

「何か珍しいものでも見付けましたか?」

内緒話のように小声で問うと、イルカは飛びあがらんばかりに驚いた。

「えっ!……あっ! いえ、あっ、あのッ!!」

思わず見惚れていた自分を思い出したのか、再び慌てふためいている。

「な、何でも無いです、ぼうっとして申し訳ありません」
「いえいえ、こっちこそお仕事の邪魔をして申し訳無かったです」
「え……」

カカシから感じられる気配がとても優しい。
それが意外でもあったイルカは、じっとカカシの顔を見つめた。

唯一覗いている右目が少し弓なりになっている。
もしかして、微笑んでいるのだろうか?

ドキンッ!

…と、鼓動が大きく耳にまで届いた。

(俺、どうしたんだろう……)

「どうかしましたか?」

ひとりで赤くなってどぎまぎしているイルカを、カカシの目が心配そうに見つめている。

「いえっ! あの……あ、空いている演習場、お使いになられますか?」
「構わなければお願いしたいです」
「では、こちらの申請書にご記入ください」

用紙を差し出しながら、イルカはふと考えた。

(何だろう、この違いは……)

先日の受付所でのぎくしゃくした遣り取りが嘘のように、スムーズに応対している。
カカシから逃げたかったはずなのに、今はむしろ、この場に一緒にいられることを喜んでいるみたいで…。

「これでお願いします」

書き終えたカカシが、イルカに用紙を渡した。
使用目的は “鍛錬の為” となっている。

「第三演習場ですね。 了解しました」

穏やかな声音は、いつも受付所で聞く声と変わらない。
イルカの少し高めで張りのある声を、カカシは好ましいと感じた。

「どうぞお気をつけて」
「ありがとうございます。 では」

その声をもっと聞いていたい、とも思ったが、いきなり欲張ってはいけない。
今後に期待が持てたのだから、焦る必要は無いのだ。

イルカに会えた偶然を、今回ばかりは喜んだ。
以前に比べて状況は好転しているかに思える。
次に会えた時は、更に友好的に接することも可能ではないだろうか。

(楽しみができたね)

カカシは密かに微笑んだまま、軽く頭を下げて部屋を出て行った。
扉が締められ、職員室には再びイルカがひとり残される。

(あれ…? 俺………)

去り際にカカシがまた微笑んだ気がしたのだが、イルカも気付かぬうちに笑みを顔に浮かべていたのだ。

(はたけ上忍……)

上忍に向かって鍛錬くらいで気を付けても無いのだが、イルカの言葉にカカシはちゃんと返事をしてくれた。
初対面の時の素っ気無さが嘘のようだ。
あの夜に見せた殺気を孕んだ態度とも違う、穏やかな物腰にも驚いた。

(はたけ……カカシ………)

心の中で名を呼ぶと、また頬が火照ったかの如くに熱く感じた。

(カカシ…さん………)

さっき真正面で立っていた姿を思い出す。
背は自分とほとんど変わらないくらいだったか。
猫背だったから、きちんと背筋を伸ばせば自分よりも高いかもしれない。

ほんの二言三言だったと思うが、たくさん会話したような気になった。
もっと話がしてみたい。
姿を見て、声を聞きたい。
また、会いたい………。

(えっ??………)

突然湧き起こった感情に、イルカは自分で驚いた。

(違うだろ…俺は、あの人には会いたくないんじゃなかったのか……?)

カカシが現われて緊張した。
しかし、それは最初だけで、いつの間にか緊張は忘れていた。

はたけカカシという忍ときちんと向き合ったのは、さっきが初めてかもしれない。
側にいただけで、忍としての素晴らしさを感じた。
人としての興味も抱いてしまった。

(どうなってんだ……)

この思いをどう処理すればいいのかわからない。
自分の心が望んだことを改めて確認して、イルカはただ動揺するばかりだった。



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