■2-1


授業が終わったアカデミーから、帰りを急ぐ子供達の声が遠ざかる。
里は夕日の橙色に染まり、どこからともなく夕餉の香りが漂っていた。

「手料理、か……」

日のあるうちに任務を終えたカカシは、報告書を提出すべく受付所を目指して歩いていた。
次々と鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いが、空腹だったことを思い出させる。
今日の任務はそれほど重労働では無かったものの、身体を動かせば腹は減るのだ。

さっきの通りからは、焼き魚の匂いがした。
あの家では食卓に鯖が乗るのだろう。
俺は秋刀魚の方がいい。
茄子の味噌汁もあれば尚いいのになあ。
…などと、つい自分の好みを呟いてしまう。

最後に誰かと食卓を囲んだのはいつだったか。
それはもう、思い出せないほど昔のような気がする。
早くにひとりになった為、ひとりぼっちで食事をすることが多かった。
尤も、小さな頃から任務漬けの日々で、思い返せばまともに食事をする時など滅多に無かったかもしれない。
大人になり酒の味を覚えてからは同僚と店に入ったりもするが、基本的にはいつもひとりだ。

ずっと以前から、それが当たり前に感じていた。
だから、特別それを寂しいとは思わなかった。

「さて、今夜は…」

どこで何を食べようかとつらつら考えながら、受付所への近道で中庭を突っ切ろうとした、その時。

「…?」

聞こえてきたのは、押し殺した声での遣り取り。
一般人ならば気付かぬその声を、カカシの耳はしっかりと拾っていた。

(あれは……)

片方の声に聞き覚えがある。
厄介事には首を突っ込まないつもりだったが、カカシはつい視線を向けてしまった。

(やっぱり……)

壁に押し付けられて身動きが取れずに呻いている忍は、ついこの間見た顔だった。

「離してください…」
「なあ、いいだろ? イルカ……」
「嫌です……うっ」
「もうすぐあのガキが入学するらしいじゃないか。 さぞかし皆から可愛がられるだろうな」
「ナルトには手を出さないという約束だったじゃないですかっ!! だから……、だから俺は…」

(ナルト……?)

知っている名前が出てきて、カカシの耳がぴくんと動いた。
自分の上忍師であった四代目が命を懸けて里を守った時、その体内に九尾の妖狐を封印された子供。
誰も引き取り手が無かったというが、世話を焼いている人物がいるとは聞いていた。

(もしかして、それがこの中忍……?)

「そう、だからこれからも、可愛いあのガキの為におまえは頑張るんだろ?」
「っ……」

抵抗していたイルカの身体から力が抜けた。
しかし、眼光がさっきよりも鋭くなったように見える。

(何……)

強い光に、カカシはしばし釘付けになった。
あれは闘う者の目だ。
その向こうに潜むのは、真っ直ぐで強い意志。
とても美しい。
美しい目だ。

(何…で……?)

言いなりになっていながら、何故そんな瞳をしているのか。
わからない…。
その引っ掛かりが、カカシをその場に留まらせた。

不思議な光に魅せられ更に見入る。
他人事には深入りしない性質なのに、どうしても気になる。

覆い被さるようにしていた上忍は、意地悪い顔付きで口角を引き上げると、イルカの顎を掴んだ。
掴まれた方は抵抗らしきものはせず、ぐいっと持ち上げられた時、露わになった喉だけがごくりと動いた。

「最初からそうやって大人しく言う事を聞けばいいんだよ」
「……」

歯向かう言葉はもう出てこない。
目の前の男を睨みつけていた黒い瞳が静かに閉じられた。
上忍はニヤリと笑みを浮かべて舌なめずりしてから、イルカに唇を寄せてゆく。

動きたくとも動けないのだろう。
口元が硬く引き結ばれ、瞼が小刻みに震えていた。
ただ、押し殺した意志の表れなのか、だらりと垂れ下がっていたイルカの両手が、固く握り拳を作った。

二人の距離が縮まる。
唇と唇が触れそうになる………、その直前。
すぐ近くで、ガサッと落ち葉を踏みしだく音が聞こえた。

「!!」

驚いて振り向いた視線の先にはカカシが立っていた。
片方の目しか露わになっていない為、表情が読み取り難い。

「揉め事?」

ゆっくり近付くと、上忍が慌ててイルカを突き飛ばして離れた。

「いや、別に……、はっ、おまえは…確か」
「名乗るほどのモンじゃなーいよ」

それは、相手の名前も問わないということ。
落ち着いたその声と淡々とした口調は、特別何も感情が篭っていないように聞こえる。

「生意気な新入りをからかっていただけだ」

問い詰められずに済むと思ったのか、上忍はわざとらしく身体の埃を払うフリをしつつ急に砕けた口調になった。

「ホント?」

カカシの視線がイルカに向けられるが、当人は微動だにせず何も答えない。

「“上の命令” はちゃんと聞くもんだぜ」

上忍は気まずさを隠そうとでもいうのか、無理に明るい声を出した。
それは一般的な意見とも受け取れたが、この場合はイルカにだけ向けられたメッセージだ。
言われたイルカは、固まったまま動けないでいる。

「じゃあ、“また” な」

見ようによってはただの挨拶らしくとも、イルカを凍り付かせるのに十分な笑みを残し、上忍は去って行った。

「大丈夫?」
「……」

反応は無く、返事も無い。
カカシはじっとイルカを見つめたが、イルカが先に目を逸らせたので、何も言わずに踵を返した。
しかし。

(!?………)

歩き出した途端、背中に視線を感じた。
確かに、一直線に自分に向かって来ている。

不意に振り返りたい衝動に駆られた。
あの瞳が自分を見つめている。
不思議な光を宿していた目を、もう一度見てみたい。

だが、振り返ればきっと、その視線はまた逃げてしまうだろう。
伝えたいことがあるならば、声を出すなり行動に移すなり何かするはずだが、動き出す気配は感じられない。

(ま、俺はただの通りすがりだし)

何故か耳に残っていた声に反応してこの場に居合わせてしまったが、本来は関わりの無い相手だ。
アスマの友人が、イコール自分の知り合いになるというものでも無し。
ならば、今夜の出来事はもう忘れてしまっても構わない。

美しいと感じた黒い瞳が再び脳裏に浮かんだが、仕事に忙殺されればすぐにそれも思い出さなくなるだろう。
丁度、明日からは里外任務が入っている。
しばらくは内勤の忍とは顔を合わせる機会も無いのだ。

カカシは結局、一度も振り返らずにその場を後にした。
中庭を出るまで、真っ直ぐな視線を背中に受けたまま。




■2-2


「カカシさん! お久しぶりっす〜」

道端で顔見知りの特別上忍から挨拶されたカカシは、軽く手を挙げるだけで応えた。

「任務明けっすか?」
「う〜ん、一週間ぶりの里かな〜」
「それはお疲れ様っす。 これから提出に?」

任務が終わった忍が向かう場所といえば決まっている。

「そうだけど」
「今、混んでますよ」
「えっ、そうなの?」
「新しい受付の中忍が人気らしくて」
「何ソレ…」
「んじゃ、お先に〜」
「んー」

Aランクの任務を終えて真っ先にやってきたのだが、混んでいると聞いて足が止まった。
しかし、時間が空いているのは今日くらいなので、先に延ばすと次はいつ来られるかわからない。
カカシは軽く溜め息をつきながら、報告書を提出すべく再び受付所を目指した。
建物の中に入ると、先ほどの忍が言った通り、ざわざわと賑わっている。

「ん?」

部屋を覗いたカカシの頭に、疑問符が浮かんだ。
受付担当者は数人いるのだが、一箇所だけ長い列ができているのだ。
あまり見たことのない光景なので、どうしたのかとしばらく観察していると、列の進み具合の違いにも気付いた。
他はどんどん人が減っていくのに、その長い一箇所だけがなかなか進んでいかない。
耳を済ませると、事務的な遣り取りの他に会話が聞こえてきた。

「お疲れ様でした、はい結構です。 あ、怪我の具合はどうですか? もういい? それは良かった」

どうやら、会話が弾んでいるせいで余計に時間がかかり、混雑が解消されないらしい。
しかし、待っている忍達は嫌な顔ひとつせず、むしろ自分の順番が来るのを楽しみにしているように見える。

(ふ〜ん)

長蛇の列を捌いているのは、イルカという名のあの中忍だった。
アスマに紹介された時はアカデミーの先生だと言っていたはずだが、受付の仕事もやっているのか。

(…あれ?)

ふと違和感を覚えたカカシが、何だろうと自分の記憶を探る。

(違う……)

イルカとはまだ二度ほどしか顔を合わせていないのだが、最後に会った時の印象とあまりにも違っていたのだ。
無事に帰ってきた忍を迎える笑顔と、あの夜の雰囲気が、あまりにも…。

今は、その表情にも瞳にも、穏やかさしか浮かんでいない。
全てを温かく包み込んでくれるかのような優しい微笑み。
確かに、人気があるのいうのも肯ける。

だが。

(………)

どことなく物足りなさを感じるのは何故だ。

(え?……)

俺は、この忍に何を求めているんだ……。
どんな表情が見たいというのだ……。

(馬鹿馬鹿しい……)

カカシはイルカの観察をそこで止めた。
自分に関係の無い男のことで思い煩う必要は無い。
すぐに次の任務が待っている身なのだから、さっさと済ませて早く身体を休めねばならないのだし。

即座に頭を切り替えたカカシは、長い列の隣の、比較的人の少ない列の最後尾に付いた。
やはり、隣よりも早く進む。
立ち止まっている時間の方が短いくらいだ。
もう既に、あと一人で自分の番がやってくる。

(帰ったら、先に風呂にでも浸かるか…)

今晩のみの自由な時間をどう使おうかと思い描きながら、何気なく斜め前方に目をやった。
丁寧な労いの言葉を掛けているイルカがすぐそばにいる。
終えた者が去り、次の報告者がイルカの前に立った。
その瞬間。
イルカの笑みが、少し強張ったように見えた。

(……?)

自分の前が空いたので、一歩足を進める。
報告書を手渡しつつさり気なく様子を覗うと、イルカが応対しているのはあの夜イルカに絡んでいた上忍だった。

「楽しみにしてるぜ」

それは、耳を澄まさなければ聞こえないほどの囁き。
言われたイルカは微笑みを維持するのがやっとなのか、「次の方どうぞ」 と促すことでその場を切り抜けた。
薄く笑みを口元に浮かべたままイルカの前から離れた上忍は、横にいたカカシには気付かなかったらしい。
耳に意識を集中させた際、知らずに気配を消していたからだろうか。

(……俺は一体何をやってるんだ……)

カカシは、他人事に首を突っ込んでいる自分に今更ながらに気付いた。
この間はたまたま出くわしただけであって、自分はあの二人には何の関わりも無い。
それなのに、何故気に懸けるような行動を取ったのか、いささか理解に苦しむのだ。

どこかすっきりしない思いを抱えたまま、受領の旨を告げられると出口に向かった。
背後から 「お疲れさまでした」 というイルカの明るい声が聞こえてくる。
きっと微笑を浮かべて、ちゃんと報告者の目を見て、心から無事を喜んでいるのだろう。
声だけでも十分にわかるその労わり。
他人に向けられたものなのに、カカシは自分までもがその声に癒されたように感じた。

(……なるほどね)

部屋を出た途端、苦笑と共にふうっと溜め息が零れる。

「どうした? シケた面しやがって」

廊下を歩いて来たのは、咥え煙草の見知った顔だ。

「別に〜」
「!……アイツ……」

カカシの返事の途中で、アスマがハッと息を呑む。
部屋から出て来てカカシとは反対の方へ去って行ったのは、件(くだん)の上忍だ。
後ろ姿をじっと見ていたアスマの眉が顰められたが、本人が気付く前にその背から視線を外した。

「知り合い?」
「いや、ちょっとな……」

ぶっきらぼうだがはっきりと物を言うアスマには珍しく、どこか言葉を濁すようにして答える。

「どういう奴?」

カカシは何気ない風を装い、問いを続けた。

「上忍同士、その内どっかで会うだろうが……、まあ、詳しいコトはその時にな」
「オマエのお気に入りの中忍先生、あの忍と何か関係ある?」
「……何でそんなことを訊く?」

質問に質問で返すのは即答を避けたいからだ。
微妙に声のトーンが下がったアスマとカカシの視線が交錯した。

「さっき、あの男の前では笑顔が強張っていたのを見たんだけど」

以前見た夜の場面は伏せて、先ほどの光景だけを淡々と述べる。
そこに自分の感情が混ざらないように気をつけ、カカシはあくまでも第三者の立場を通した。

「…チッ。 ……カカシ、時間あるか?」
「少しなら」
「アッチで説明する」

アスマは苦虫を噛み潰した表情でカカシを促した。

「おめぇにも聞かせといた方がいいだろう……」




■2-3


戦場で改めて知った、人の心に巣食う闇。
巻き込まれまいと必死になり、その闇から大事なモノを守る為に闘った。
けれど、それは一人相撲だったのだろうか…。

(俺は……)

自分が長期任務で離れていた間、ナルトは誰の世話にもならなかったわけでは無い。
三代目火影様をはじめとして、近所の人も何かと気に懸けてくれていた。
畏れられ、疎まれている存在ではあるが、受け入れてくれる人も確かにいるのだ。
孤立無援で無いのはわかっている。
それでも、ナルトの名前を持ち出されると、自分が何とかしなければ、と思ってしまう…。

(一体……)

闇はどこへ行っても消えない。
夜毎辛い時間をこの身に刻まれ続けた日々はもう数年前になる。
なのに、イルカは辛さからまだ完全に解放されてはいなかった。

戦場でアスマと過ごしたあの数日が、逆に夢の中の出来事のように感じてしまう。
何にも囚われず、ただあるがままに生きられたのは、ほんの束の間のことだったのかもしれない。
里に戻った自分を待っていたのは、再びこの身を絡め取ろうとする残酷な闇だったから。

(何を……)

まだアスマの存在が強く印象付けられていたからか、里ではしばらくの間は手を出す輩もいなかった。
が、イルカとアスマがそれほど密接な繋がりで無いと気付いた者が出てきた。
戦場の閉鎖的な空間とは違い、里での自由な生活は、籠に入れられていた小動物が野に放たれたに等しい。
獲物を狙う黒い爪は、そこを見逃さなかった。

次第に、イルカへの接触を試みる忍が現われてきた。
過去の事実を持ち出し、再び関係を強要してくる。
だが、里では常に誰かの目があったりしたので、今までは全て未遂に終わっていた。
その分、別の方法での嫌がらせを受けたりもしたが、それは我慢できる範囲だった。

(っ…、畜生……………)

アカデミーの中では、アスマが助けてくれたりもした。
二人が付き合ってはいないとしても、アスマの睨みはまだ十分に効くのだ。
尤も、四六時中一緒にいるわけではない。
だからなのか、イルカの身体には外からは見えない部分にばかり、アスマも気付かない傷が増えていた。

(俺はいつまで……)

この里で生きる限り、互いが忍である限り、どこかで顔を合わすのは避けられない。
受付業務を言い渡されてからは、余計に他の忍と接する機会が増えてしまった。
それは同時に、過去を知っている者達と遭遇する確率を高めた結果となっていた。
しかし、闇に屈せず前向きに生きているということを知らしめる為にも、イルカは受付業務に精を出した。

そんな中、あの戦場で一番執拗にイルカを弄んだ上忍との再会。
会うなり身体を求められ、イルカは自分の存在意義を見失いそうになった。

(いつまで、こんな風に扱われるんだ……)

自分のしてきた行いは消せない。
里で改めてそれを思い知らされたのだが、もちろん、向こうの要求に従いたくなど無い。
けれど、以前よりは忍として強くなったと自覚しても、実際はまだまだ力の及ばないことがある。

(今夜………)

ひとりでは回避できそうもない状況にまで追い込まれた。
あくまでも拒絶するつもりだが、実際にはどうなるかわからない。
他に手立てが無ければ、従うしかないのか…。

自分が抵抗すると、ナルトが危険に晒される可能性がある。
それならば……、どうしても力で敵わないならば、他の方法を選んでしまっても仕方が無いじゃないか。
守ろうと決めたあの子供の無事のみを願う為には………。

寝転んだまま静かに目を閉じて深く呼吸する。
ふと、身体が床に沈み込みそうになった。
このまま、床も地面も通り越して誰からも見えないところまで沈んでしまえたらいいのに…。

(ふっ……)

そんな儚い願いは自分で消し去った。
イルカは立ち上がると、重い足取りで指定されたテラスへと向かって行った。




■2-4


今回も無事に任務を終えられた。
カカシはすぐに報告書を書き、受付所へ提出しに行った。
部屋に入ると、列の長さはほぼ均等で、人の流れもスムーズだ。
多分、イルカがいなかったからだろう。

(イルカ先生、か……)

彼の過去話を少しだけ知ってしまった。
アスマが語ったのは憶測の部分もあるが、消せない事実も確かに存在したようだ。

カカシにそのつもりは無かったのだが、結果的には関わってしまっている。
イルカに出くわしたのは偶然だと思っていたが、あれは必然だったのだろうか。

(だからって、俺に何ができるんだよ)

ナルトが気になっていたのは本当だ。
けれど、里を守ることがナルトを守ることにも繋がると信じ、任務に精を出して直接的な接触はしてこなかった。
里には火影様がいる。
信頼できる仲間もいる。
だから心配まではしていなかったというのが本音だった。

それなのに、本人では無く周りの人間に影響が出ているとは…。
ナルトをダシにしてあくどい所業を重ねている輩がいるとまでは考えが及ばなかった。

(もしも、対象にされたのが俺なら……)

蛮行に屈したりはしない。
そう言い切れるくらいの力を身に付けているからこそなのかもしれないが、どう考えても理不尽なのだ。
しかし、現実に悲劇は起こっている。

(うーん………)

頭の中でぐるぐると考えていても埒が明かない。
少し冷たい風に当たろうとテラスに上がってくると、先客がいた。

「お断りします!」

悲痛な叫びはイルカのものだ。
カカシは思わず気配を消して様子を探る。

「前は良くて今は駄目ってのはどういうことだ、ええ?」
「い…今はもう、あの時とは状況が……」
「何が違うって? おまえにとって、あのガキが大事なのは変わらないんだろ?」
「それは! ……そう、ですけど……」
「なら、いいじゃねえか。 あのガキを助けてやれるのは、おまえだけなんだからな」
「っ……」

一方の勢いが萎えた。
抵抗していたはずなのに、途端に大人しくなっている。

(アスマの言った通りか……)

先日アスマから聞いた話を思い出す。

 『どうやらイルカは、ナルトを庇っているらしい』

そう話すアスマは、どこかやり切れなさを漂わせていた。

 『あの子供には危害を加えない代わりに、自分を、ってコトなのか…』

詳細には語らなかったが、アスマ自身が戦場でそういった場面に直面したらしい。
丁度、今の自分のように……。

「せっかくまた会えたんだ、今回だけでも構わないから」
「え……」
「なあ、あと一度」
「……本当に…一度だけ……?」
「ああ、それでいい」
「………」

無言になったイルカのベストに上忍の手が掛かる。
ジッパーが下ろされ、胸元が寛げられた。
上衣の裾から手が忍び込む。
壁に背中を預けたまま、イルカは懸命に震えを堪えていた。
その耳に、突然届いた声。

「それが “上の命令” ?」

気配を殺して近付いた為、二人ともカカシがいることに気付かなかった。
背後を取られた上忍が戦慄している。

「…だったら、何だ?」

顔だけで振り向いた口から出てきたのは、開き直ったかの如く不遜な物言い。

「……」

カカシが僅かに殺気を放った。

「!!」

ぞわっと上忍の肌が粟立つ。
イルカも、背筋が寒くなる思いで身動きできないでいた。
辺りの空気までが凍り付くようだ。

二人の睨み合いが続く。
そこへ、一羽の鳥が飛んできた。

「ピィーーーッツ!」

三人の間に張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
その鳥は、上忍を呼びにきた使いらしい。

「残念だったね」
「チッ……」

カカシとの間合いを測りながら、上忍がイルカから手を離す。

「これで終りじゃ無いからな」

項垂れたイルカに捨て台詞を残し、上忍は鳥が飛び立った後を追ってテラスから消えた。

「………」

イルカはまだ固まったままでいる。
取り敢えず危機は去ったのだが、緊張が解けないのだ。
それは、前に立っているこの男のせいなのか。

「アンタ、何やってんですか」

冷たく言い放った言葉は、イルカの胸を突き刺した。
全部見られていたのだろう。
上忍に言い寄られて、この身を差し出そうとしたことを。

「……」

羞恥で顔を上げられないイルカを見つめていたカカシは、口布の中で溜め息をついた。
このままいくら待っても、黒い瞳は自分の姿を映しはしないだろう。

過去の出来事を知り、この忍が抱えている想いの一端に触れたような気がしていた。
やはり、胸の奥には確固たるものが潜んでいたのだ。
秘めたる想いは表に出ないからこそ、瞳に映し出されていたのかもしれない。

しかし、信念を貫き通す強さがあるなら、何故もっと他の道を選ばなかったのか。
こんな扱いは誰が聞いても筋が通らない。
ひとりで抱え込まず、他の誰かに助けを求めても良さそうなものを。

(俺だっているのに……)

…と考えたりもしたが、敢えて今までナルトに近付かなかった自分がどうこう言える立場にはいない。
何も知らなかった自分が不甲斐無くさえ感じる。
そのもどかしさから、出てきた言葉はついイルカを責めるような口調となってしまった。

今は、これ以上言葉を重ねても、イルカを苦しめるだけだろう。
視線さえもこの忍には辛いものとなっているはずだ。
カカシは今回もまた、何も言わずにその場から去って行った。

「……っ」

カカシの姿が見えなくなって、ようやく緊張が解けた。
一人取り残されたイルカは、ずるずると崩れ落ちるに任せて床に座り込んだ。
やっと顔を上げて、後頭部を壁に預ける。

「ホント、何やってんだろ、俺……」

その呟きは誰にも聞いてもらえず、空中を彷徨い、風に乗って消えた。
空には星が瞬いている。
だが、光を失った虚ろな瞳には、何も映ってはいなかった。






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