その言葉を聞いた瞬間、台拭きを探し当てたイルカの動きが止まった。
「…え?」
顔だけ振り向くのがやっとで、思考はまだ事態に追い付けていない。
「今、何て………?」
いつからかカカシは、自分では無い者に向けられるその微笑を目にした時、嫉妬している己に気付いた。
最初はその気持ちに途惑いを感じたが、やがて、その想いを、その意味を認められるところにまで辿り着いた。
だが、ひたすら押し隠していた。
何故なら、それは表に出してはいけない想いだから。
自分とイルカとの間に存在してはならないものだと、そう思っていたから。
けれど…。
「もう誤魔化さない。 もう……隠していられない」
自分にも言い聞かせながら、カカシがイルカに近付く。
イルカはまだ動けない。
しかし、カカシの手が伸びてきて自分に届く寸前、知らず身体が後ずさった。
一瞬、カカシの眼が哀しげな色を帯びる。
……が、それはすぐに強い光に変わった。
後には退けない。
強引であろうとも、イルカが拒もうとも、ここで逃げてはいけない。
カカシの瞳とまともにぶつかって、イルカはカカシの奥底に眠っているものを感じ取った。
(カカシさんが……俺を………?)
パサッ!
イルカの手から台拭きが滑り落ちた。
見つめ合ったまま止まっていた時が、また動き出す。
落ちた布巾には目もくれず、カカシはイルカに向かって行った。
緊張のせいか、イルカが生唾を呑み込む。
静かな中で、イルカはその音が部屋中に響いたような錯覚に囚われた。
(カカシさんにも聞こえたかな……)
極限状態に陥ると大局よりも些細なことに気が取られるらしい。
まだ現実を把握しきれない内に、イルカは壁際に追い詰められてしまった。
カカシがイルカの顔の横に両手を付き、逃げ道を塞ぐ。
でも、それは形だけのこと。
脱出可能な隙間はいくらでもある。
が、イルカは動かなかった。
ただ、壁に押し付けられるままになり、カカシだけを見つめていた。
「何故逃げないんですか?」
「………」
「嫌なら逃げてください」
「………」
イルカからの無言の視線に対抗して、カカシは顔を逸らさず、更に身体を寄せてくる。
カカシの膝がイルカの太股に触れた。
そのままの脚の間に割り込むと、自分の腿をイルカの股間に押し付けた。
「!」
物理的な刺激だけではない、身体の芯が疼くような突然の快感に、イルカの頬がカアッと紅潮する。
「俺、勘違いしちゃいますよ」
先ほどよりも縮まった距離で囁くと、イルカの瞳が僅かに揺れた。
「それでもいいの?」
カカシの左手がイルカの脚の付け根を撫で上げる。
「あっ…」
思わず漏れ出た声を恥じるかの如く、イルカは顔を伏せると唇をきつく噛み締めた。
どうすればいいかわからない。
気を抜くと、カカシという大きな波に攫われそうで。
声を上げると、自分の知らない自分が出てきてしまいそうで。
カカシの気持ちを知ってしまった以上、曖昧なままにはできない。
けれど、どう応えていいのか判断がつかない状態では、抵抗することも受け入れることもできなかった。
(ホントに嫌なら、そう感じた時にちゃんと伝えればいいよな……)
だが、そんな小さな決心は、カカシの熱い想いの前では無きに等しいものだった。
顎を持ち上げられ、再び真正面で向き合うと、そこにはかつて見たことの無い男が居た。
(こんなカカシさん、初めてだ……)
「俺だけを見て」
声までもが初めて聞くような響きを帯びていた。
その低音がイルカに入り込み、内部を隅々まで侵食していく。
「俺を感じて」
言いながらカカシが顔を寄せる。
イルカは近づく唇を避けようともしない。
何故か、今は避けたいとも思わなくなっていた。
二人の顔が重なる。
初めて触れた、カカシの唇。
(柔らかい……)
嫌悪感は無かった。
それが無いことにさえしばらく気付かないほど、そのくちづけは甘く優しく、イルカの心を溶かしていった。
「イルカ先生……」
声と同時に、腰の辺りに置かれていた手が局部へと移っていく。
「あっ!」
その動きにはさすがに羞恥心が起こったのか、イルカが慌ててカカシの手を止めに入った。
しかし、逆に捕まり、両手を一纏めにされて頭上で束ねられてしまう。
「……嫌?」
わからない………。
力関係があからさまなこの状況下で、イルカは不安と同時に何かを期待している自分に驚いていた。
「でも、もう止まらないから」
カカシの顔から、遠慮という文字が消えた。
イルカの身体を弄りながら、激しく唇を奪っていく。
「んっ……!」
舌が首筋を這い、片手がイルカ自身を服の上からしっかりと押え込んだ。
「うっ!!」
身動きできないように封じられた身体を捩りながら、必死で何かと闘っているイルカ。
それは快感から逃げたいのか、それとも、もっと、と求め始めているのか……。
「イルカ先生……好きです」
「カカ…シ…さん………」
愛撫に言葉が加わり、更にイルカを翻弄する。
(卑怯だ、カカシさん……)
自分の声を気に入ってくれていたカカシ。
俺だって貴方の声が好きだったんだ。
その好きな声を直接耳元で受けてしまったら、理性を引き留めておく方が難しい。
イルカの身体から力が抜けた。
その時、カカシの動きが止まった。
――― 本当はこんな風に奪おうなんて思って無かったのに…………
ただ、伝えたいだけだった。
でも、本能はそんな理性を嘲笑うかのように、思いもかけなかった行動を起こしてしまった。
もう、止まらないはずだった……。
それが、ふと我に返った時、イルカの体温を感じていないことに気付いた。
カカシは手首を掴んでいた手の力を緩め、指を絡ませあうと、壁伝いに下ろした。
その繋がった手は、今だけの、唯一の確かな絆。
掌から相手の存在が自分に入り込んでくる感覚。
カカシは、ようやくイルカに触れた気がした。
一方イルカも、自分の中で何かが変わろうとしているのを感じていた。
「あの、私――」
「もっと気楽に喋って」
「あ…、お、…俺……」
イルカが言い直すと、カカシはそれでいいというように肯いた。
「いいんでしょうか?」
「何が?」
「このまま…、貴方に流されても………」
「構いません。 イルカ先生は何も考えないで」
カカシがそれまでの荒々しさとは打って変わって、そっとイルカを抱き締めた。
「俺、……まだよくわかんないですけど」
カカシの背中に、イルカの手が回る。
「こうしてるのは、……嫌じゃありません」
「嬉しいです」
カカシの口元に笑みが浮かんだ。
抱き締めた腕に、少しだけ力を込める。
イルカはカカシの肩に頭を乗せて、しばらくじっと前方の空間を見つめていた。
何故こうなったのかを、今一度思い起こしているのか。
少しの間そのままでいたが、ふと身体を離すと、真っ直ぐにカカシを見つめ、指先でその口唇に触れた。
「もう一度言ってください、さっきの言葉………」
言ってしまうと、もう取り戻せない。
聞いてしまうと、もう、逃げられない。
それは、囚われてしまった者の、覚悟を促す言葉。
カカシの眼差しがイルカを包み込む。
口元にきていたイルカの手を取り、自分の胸に置くと、カカシがゆっくりと口を開いた。
「愛してます、イルカ先生」
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