カカシ×イルカ
小説 遊亜様

『もっと深く……』





[ 1 ]



スリーマンセルの上忍師は今、長期の任務に就いており里を出ている。
その為、まだ下忍になって間も無いイルカたち三人は、別の指導者の元で任務をこなしていた。

時にはバラバラになって、様々な部隊に組み込まれる場合もある。
今回も、イルカはひとりで中忍三人の部隊に加わった。
どうしても手が足りないというので、経験不足ではありながらも命が下ったのだ。
とある大名の親書を携えている人物の護衛で、イルカにとっては初めてのCランク任務。
フォーマンセルは、山越えをする籠に同行することとなった。

親書の存在については公には明らかにされていない。
護衛対象の人物よりもその巻物の方が価値が高いというのは、本人は知らないようだ。
味方である忍に囲まれているので幾分落ち着いてはいるものの、おどおどとした姿は使者にはふさわしくない。
こんな小物が大役を任されて大丈夫なのだろうかと思いつつ、イルカはただ任務遂行だけに心を砕いた。

常に周囲に気を配り、微かな物音にさえも敏感に反応して、危険の有無を確認しながら進んで行く。
今のところは何事もなく行程の半分ほどをこなしていた。
だが、そろそろこのルートの中で唯一の危険箇所に差し掛かる。
視界を覆うほどの鬱蒼とした木々が生い茂っている森の中。
もう少し距離を稼いで峠を越えれば、あとはそう問題無い。
陽のあるうちにこの森を抜けてしまいたい。
早くこの緊張を解きたい、と思った時、イルカの視界の隅で何かが動いた。

「!」

咄嗟にそちらに意識を向け、クナイを構えて臨戦態勢を取る。
側の中忍も瞬時に察し、共に怪しい気配を探ると、木々の奥から籠を目指して千本や手裏剣が飛んできた。
クナイで弾き、徐々に間合いを詰めていく。
そこへ、先頭に付いていた部隊長の指示が飛んだ。

「二人は障害の排除を! こちらは先に進む!」
「了解したっ!」

後方を守っていたイルカと先輩の中忍が敵と相対するよう命じられた。

「イルカ、おまえは無理せず援護に回れ!」
「はいっ!」

実のところ、イルカにとってはこれが初めての交戦だった。
今まで、身の危険に晒されるような任務が回ってこなかったからだが、仮にも忍の端くれ。
戦いを想定して、日々の鍛錬は怠っていない。
演習も何度か経験していた。
しかし、そこでの戦いは本気ではあっても、実戦と同じ、とまではいかなかった。
今まで体験したことの無い張り詰めた緊張感に、皮膚が粟立つ。
イルカは心なしか震える手に力を込め、ひたすら敵を籠に近づけさせまいと奮闘した。

中忍が火遁の術で敵の足を止め、怯んだところを仕留める。
イルカは、炎を掻い潜って迫り来る敵の足元を狙って攻撃していった。

敵は手裏剣を使ったり、術を防御したりという行動から忍かとも思われたが、額当てをしていない。
どうやら、忍崩れの野盗らしい。
護衛付きの籠にお宝があるとでも思ったのか、金品奪取の目的で近付いたのだろう。
腕は、中忍レベルに届くかどうか、というくらいだった。

これなら、イルカと二人で防げるだろうと中忍は考えた。
捕まえて事情を聴取する為に、倒した敵は殺さず生かしている。
だが、相手はそれほど強くないものの、その攻撃は甘くは無かった。
動きを封じられていない者が残り少なくなっても、執拗な攻めが続く。

と、術と術のぶつかりあいになっている中忍を背後から狙う者の存在に、イルカが気付いた。
次の瞬間、声も発さず一気に駆け寄り、蹴りで相手を吹き飛ばす。
隙を突かれた格好で、慌てて体勢を立て直そうとしている相手の肩と足に、イルカはクナイを命中させた。
敵が呻き声を上げてその場に倒れてゆく。

下忍の腕でも、十分に通用するのだ。
イルカは、自分が足手纏いにならずに役に立っていると肌で感じた。
嬉しかった。
が、その気の緩みと、完全に捕縛しなかったことが仇となったか。

「イルカ、後ろっ!!」

中忍の声に振り向くと、先ほど倒したはずの敵が立ち上がり、イルカに向かって刀を振りかざしている。
刃先が陽光を受けて煌き、眩しさを感じた刹那、それはイルカの腹部に吸い込まれた。

実際はほんの一瞬の出来事だったのだろう。
しかし、イルカはその一連の流れを、まるでスローモーションを見ているかのようにゆっくりと目にした。
刃が先ほどとは違って赤く染まりながら再び宙に舞う。
何故か、自分の足が勝手に踏み出している。
イルカは、相手の懐に飛び込んでいた。

「イルカーーーっ!!」

ようやく周りの敵を片付けた中忍が呼ぶ声に、イルカははっと我に返った。
気付けば、額の前で構えたクナイが相手の喉元を突いている。
すぐ目の前には絶命寸前の人間の顔。
目玉が飛び出しそうなほど苦痛に歪んでいる形相は鬼のようだ。
慌ててクナイを引き抜くと、その感触が、突き刺した時の肉に食い込む弾力感をも呼び起こした。

「あ…ああっ……」

クナイの栓が抜かれた途端、血飛沫が上がり、イルカの顔にも掛かった。
双方の着衣に赤黒い染みが広がってゆく。
敵の身体がどさっと音を立てて崩れ落ちた。
今度はピクリとも動かない。
確かに、絶命している。
イルカはその場に立ち尽くし、脂と血で塗れているクナイをじっと見つめていた。

――― 俺、とうとう……この手で、人を………

それは、忍である限り避けては通れない道。
自分もいつかはこの手を血に染める日が来るだろうとは思っていたが、それが今だとは考えていなかった。
いや、どんな状況にも対処できるようにしなければならないから、戦いがあるかも、との思いは脳裡を掠めた。
けれど、直視するのを避けていたのだ。
何も起こらず、無事に任務が終了してくれればいいと、それを願うばかりで。

「うっ……」

急に腹部に激痛が走った。
敵に切り掛かられた時は鈍い衝撃を感じただけに思えたものが、熱を帯び、痛みを伴い、イルカを襲う。
目の前が霞み、膝の力が抜け…。

「イルカ!!」

中忍が駆け寄ろうとした時、頭上から現れたひとつの影がイルカの側に立った。
それはまるで天から舞い降りたかのようなしなやかさで、地面に激突する寸前のイルカの身体を受け止める。

「大丈夫だよ」

倒れ込んだイルカを抱えている人物を認識した中忍の足が、螺子が切れたかの如く、急にぱたりと止まった。

(何故、ここに暗部が……、それも、こんなに若い……?)

イルカと変わらないくらいの少年に見えるその影は、動物の顔を模した仮面を被っている。
その為、素性も表情もわからない。

「状況を確認して」

暗部は中忍を見もせずに指示を出すと、イルカの衣服の片袖を引き裂き、その布を傷に当てた。
中忍は自分に言われたのだと即座に判断し、倒れている敵を拘束しながら戦いの跡を調査してゆく。

傷の治療に当たろうとウエストポーチから救急セットを取り出した暗部は、負傷者の異変に気付いた。
焦点の合わない瞳が左右に細かく動き、身体が痙攣し、軽いパニック状態に陥っている。
そして、

「んっ…っ…はっ…っ…っ…」

呼吸が浅すぎる。
きちんと吐かずに吸ってばかりいる。
手当てよりも先に、落ち着かせなければならない。
足を投げ出した格好で木に凭れ掛からせていたイルカを後ろから抱き込んだ。
その背に自分の身体をぴたりと密着させる。
片手は傷口に当てた布を押さえつつ、チャクラを送って少しでも出血を食い止めようとしているのか。
もう片方は手袋を脱ぎ捨て、それで汗と血で汚れた顔をざっと拭うと、素手でイルカの鼻と口を塞いだ。

「何を…?!」

倒した敵を確認して戻った中忍が、暗部の行動に訝しげな声を上げた。

「このコ、過換気発作を起こしてる」

多量の出血やパニックにより、呼吸が速く浅くなって、空気を吸い込み過ぎる状態に陥ることがある。
血液中の二酸化炭素が少なくなって起こるのが、過換気症候群だ。
イルカの様子は、正にその症状そのものだった。

「俺に合わせて、ゆっくり吸って…ゆっくり吐いて…」

イルカの耳元に声を送り込みながら、自分の呼吸を身体を通して伝え、正しいリズムへと導いてゆく。

「もっと深く……そう、慌てないで、ゆっくりとね」

自分で吐いた息を再び吸い込ませ、血液中の二酸化炭素を増やしているのだ。

「アンタ、部隊長?」

イルカに伝える呼吸のリズムは崩さずに、暗部が中忍に問うた。

「いえ、隊長は籠に付いております」
「取り敢えず、医療班と処理班を呼んで」
「はい」
「それから籠に追い付いて部隊長に現状を報告。 その後、速やかにここへ戻ること。 で、俺と交代」
「は…はい……」
「俺も任務中なの。でも、このコが今こんな状態で手が離せないから、頼むね」
「はいっ! あの、イルカを…、そいつを、よろしくお願いしますっ!!」

暗部に向かって深く頭を下げて一礼すると、中忍の姿は瞬時に消えた。

「いいチームだね」

仲間を思い遣る心が根底になければ、小隊はまとまらない。
それは、任務が無事に遂行できるかどうかにもかかってくる。
上の立場でありながら、下の者を捨て駒ともせずに様子を気遣っていたさっきの中忍。
優しさは強さでもある。

「キミは、中忍からも気に掛けられてるんだ」

ま、わかるけど、と言いながら、イルカが落ち着いたのを見て、顔を覆っていた手を外した。
もう、呼吸の乱れも無さそうだ。
イルカは眠るように気を失っている。
まだ抱きかかえた姿勢のまま、暗部は後ろから覗き込んでその鼻梁の傷にそっと触れた。

「一度見たら忘れられないよね、この傷」

とある任務が失敗とまではいかなかったものの、完璧に遂行できなかったことを悔やみつつ戻ったあの日。
里に入ると賑やかな声が耳に届き、ついふらっと足がそちらへと向いた。

声の輪の中心にいたのは、鼻の上に真一文字に渡った傷が痛々しいのに、その笑顔が眩しいひとりの少年。
黒い瞳に、高い位置で一括りにした黒い髪。
自分と年が近いかも、と思ったのが興味を持った最初だったか。
いや、本当は一目で心を奪われていたのかもしれない。

一方的な出会いが忘れられなかった。
それ故、任務を終えて里に戻る度に、その姿を探すようになった。
いつも輪の中心にいて笑顔を振り撒く少年を見ていると、殺伐とした心が少しは和らぐ気がしたのだ。

ところがある時、ひとりぼっちで佇んでいる場面に出くわした。
後ろ姿がとても寂しげに見え、思わず声を掛けそうになる。
だが、伸ばした手はすぐに脱力してだらりと落ち、少年には届かなかった。

自分は闇の世界に生きる存在だ。
迂闊に人前に出るわけにはいかない。
なのに、今、何をしようとしたのか。

それからは、その少年の存在が前よりも一層気になった。
肩を落とした姿を見付けると、気持ちが復活するまで何時間でも付き合って側にいた。
少年が気付かないだけで、いつだってすぐ側に。

ここしばらくはずっと里を離れていたが、戻った直後に与えられのは、密書を届けるという任務。
一目くらいはあの少年の顔を見てから出掛けたかった、と微かに思いもした。
しかし、この密書は、先行している籠と共に移動している巻物よりも早く先方へ届かないといけない。
準備の段階で手違いがあり、間違った巻物が届けられようとしていたのだ。
それに気付いた依頼主は慌てて火影に泣き付いた。
いつも高額の依頼料を気前良く払うお得意様であった為に、無下に断ることもできない。
任務を終えて執務室で報告していた時にその依頼が飛び込み、たまたま居合わせた自分が任を命じられた。
それで、休む間も無くとんぼ返りで出発したのだった。

籠の後を追うと、山中で辺りを取り巻く殺気を感じた。
気殺して近付いた先では二人の木ノ葉の忍が敵と交戦している。
ひとりは中忍だが、もうひとりはまだ下忍らしい。
その姿は、遠くからでも認められた。
ひとつに結わえた黒髪が、動く度に跳ねている。

――― あのコ……?

それならばすぐにでも加勢したかったが、ちゃんと顔を確認しようと廻り込んだ一瞬、敵の刃が薙いだ。

――― !!

考えるよりも先に身体が動いていた。
瞳には少年しか映っていない。
伸ばした手は、その身体が地面に着く前に届いた。
初めて触れた、まだ成長しきっていない幼い肢体。
ずっと見ているだけだった黒髪が、鼻梁の傷が、その全てが今、自分の腕の中に在る。
抱き締めたくなったが、その前に側にいた中忍に指示を出し、恐慌状態だった少年を落ち着かせた。

「ごめんね、痛かったね」

もう少し早く追い付いていれば、と悔やみながら、二人きりになってようやくその身体を抱き締めた。
傷に障らない程度に、そっと、一度だけ。
そして、負担をかけないよう横たわらせると、改めて傷の手当てに取りかかった。
上衣を捲り、露出させた患部をざっと消毒すると、清潔なガーゼを当て、包帯で固定して圧迫させて止血する。
取り敢えず応急処置は終わったが、傷口に手を翳して自分のチャクラを送り続けた。
これ以上、傷が悪化しないでくれと祈りを込めて。

暗部に入ってからは、敵を殺してばかりの日々。
命の重さがわからなくなるほど感覚が麻痺していた。
もう、それが当たり前なのだと思い始めるくらいに。
それなのに、今日、血に塗れたイルカを見た時、背筋が凍った。

――― このコは、こんなとこで死んじゃいけない……

いつもなら、仲間が傷付こうが、同胞である木ノ葉の忍が倒れていようが、構いもせずに素通りしてきた。
自分たちは命を懸けて任務に臨んでいる。
攻撃を回避できなかったのは、その者の力不足のせい。
戦いの場でいちいち足を止めるわけにもいかず、何も感じないようにして今までやってきた。
そう思わなければ、こちらの身にまで危険が及んでしまうのだ。
何よりも優先されるのは、任務の遂行。
常にそう思っていたから。

けれど、イルカを見た時は違った。
血に染まった姿を目にした途端、恐怖心が湧き起こった。
そんな感情は、今まで経験したことが無い。

――― 失いたくない……

はっきりとそう感じた。
だから助けた。
ずっと人を殺してきた、この手で………。

まだ素手のままだった片手がイルカに伸びる。
汗で張り付いた前髪をかき上げ、顔をそっと包む。
拭いきれなかった血痕が残っている。
親指で頬を撫で、唇もなぞった。
すると、かさかさに乾いた唇が、薄っすらと開いた。
水を欲しているのかもしれない。
だが、生憎、水筒は持ち合わせていなかった。
イルカの装備にも無い。
動きを止め、耳を澄ませると、どこからか微かに水音がする。

「待ってて、すぐに飲ませてあげる」

イルカの周りに結界を張って危険が近付かないようにしてから、音を頼りに水場を求めた。
途中、竹を薙ぎ倒しながら竹筒を用意し、ようやく見付けたせせらぎで冷たい水を汲む。
そのまま急いで取って返すと、イルカはまださっきのままの状態でそこに居た。
結界を解き、横たえていた上体を少しだけ起こして、地面に付いた自分の片膝に頭を乗せた。

「ほら、水だよ」

竹筒を口元に持っていったが、水は零れるばかりで上手く口に入らない。
意識が戻らなければ、自力で飲むのは無理だ。

「どうしよう…」

イルカの唇に目がいった。
さっき零れた水に濡れ、潤いを取り戻したかに見えるその唇は赤く、まだ子供のものらしくふっくらと愛らしい。
思わず、触れてみたくなった。
人差し指を伸ばして、つん、とつついてみる。
ぴく、と反応があった。
今度は指を水に浸し、垂れる雫と共に唇に近付けた。
一滴、口の中に落ちると、その雫を舐めるように赤い舌がチラと覗く。

「!」

身体の奥が疼いた気がした。
何だろう、この感覚は。
このコと居ると、今まで知らなかったことばかりが自分の中で起こる。
それは不思議な、甘い誘惑にも似て。
そして、どこか切ない、この胸の疼き……。

「俺が飲ませなきゃ…」

自分が着けていた面を外し、口布を下ろす。
今なら、この姿を見る者は誰もいない。
いや、そんなことを気に掛けるより、今はイルカの渇きを癒すことだけを考えていた。

もっと欲しいと望んでいるみたいだから。
それを満たしてやれるのは、自分だけだから。

竹筒を自分の口元に持っていった。
口いっぱいに含んだ水を、唇を窄めながら少しずつ、僅かに開いた唇の隙間から与えてゆく。
竹筒から直接よりは飲ませられたが、それでも半分は零れてしまった。

「もっと、ちゃんと……飲ませてあげなきゃ……」

もう一度、水を口に含んだ。
そのまま顔を近付け、イルカの唇に当てる。
初めて知った、柔らかな感触。
鼓動が早くなった。
しかし、今はそれどころでは無い。
自分の唇で隙間を開かせつつ、しっかりと覆って、含んだ水を流し込む。
ごくり、とイルカの喉が動いた。
口腔内に水が無くなれば再び補充し、また同じ手順で飲ませる。
ごくりごくりと、イルカは無意識のまま、貪るように飲み続けた。

「あ、そうだ」

ポーチを探って取り出したのは止血剤。
イルカの口にその錠剤を押し込み、口移しで水を与え、飲み込ませた。

「飲んでくれて良かった、これで大丈夫だよ」

声を掛けながらイルカの頭を撫でると、髪にも血糊がべったりと付いている。
竹筒にまだ残っていた水を手持ちの布に浸して、顔と髪を拭ってやった。
額当てに付いた血も、綺麗に拭き取る。
さっきまでの血に塗れた壮絶な印象から一転、いつもと変わらない少年の顔に戻った。

「こっちの方がいい」

戦場に身を置くよりも、そこから離れた場所に居る方がこのコには似合っている。
しかし、それは単なる自分の我侭だとすぐに気付いた。
イルカを危険な目に遭わせたく無いから、そう思ってしまった。
実際、現場に出ない内勤の忍も数多くいる。
だが、イルカがその道を選ぶかどうかは、本人次第。

今はまだ下忍らしいが、この先、どこまで階級を駆け上がるかは未知数だ。
さっきの戦闘振りからして、筋はいいと思う。
あとは、実戦経験を積めばいいだけのこと。
強くなれば、一緒に任務に就く機会もあるだろうか……。

「これが矛盾か〜」

思わず頭を抱える。
危険から遠ざけたいと願うのも本当なら、一緒に戦場を駆け抜けたいと期待を膨らませるのも本当だった。
とにかく、今はこの傷を治して、そして、

「早く、上がっておいで」

閉じたままの瞼に、そっと唇を寄せた。

――― 待っているから

自分の居る場所までやって来るだろうか。
いや、自分自身がいつまでこの状況下に身を置くのか、定かではない。
暗部に属したまま一生を終えるか、違う身分を与えられて、そこに就くか。
何れにせよ、同じ忍の道を選んだ者同士、互いの進む道がまたどこかで交差することもあるだろう。
その時を楽しみに待つ為にも、自分は死ぬわけにはいかない。

改めて、命の重さを思った。
そして儚さと、それを守るのがどれだけ大変なのかを実感した。

もう一度、頭を撫でてから、イルカの身体を再び横たえさせる。
あとは待つだけだ。
そこへ、猛スピードで近付いてくるひとつの気配。

「お待たせしました!」

先ほどの中忍が息を切らせて戻ってきた時には、既に口布は引き上げられ面も被り終えていた。

「籠はまだ目的地に着いて無いよね」
「はい、あと半刻ほどかかります」
「わかった。 あ、俺のことはこのコには内緒ね。 じゃ、あとよろしく」

イルカの側まで来た中忍と入れ替わるようにして、暗部の姿は忽然と消えた。

「あ……」

言葉を発する間も無い。
イルカを助けてくれたお礼を言いたかった、と思いつつ、去って行ったであろう方角へ向かって深く一礼した。
心からの感謝を込めて。

顔を上げるとすぐに、イルカの横に膝を付き状態を確認する。
傷は丁寧に処置されていた。
それに、確か返り血を浴びていたはずの顔が、すっかり綺麗になっているではないか。
側には水が入っていたらしい竹筒が転がっていた。
あの暗部がイルカの為に調達してくれたのだと気付き、驚きと共に胸に温かい物が湧き上がってきた。

「あんな暗部もいるんだなあ」

存在自体が謎で、殺戮集団だの姿を見たものは口封じに殺されるだの、恐ろしげな噂ばかりを耳にしていた。
しかし今日、実際に接してみて、暗部といえども自分たちと同じ人間だとわかった。
当然のことなのだが、それに驚くくらい、巷に流布している噂は勝手なものだったのだ。
自分のような中忍も暗部も同じ忍で、里の為に働いているのは変わらない。
今後は偏見を持つまい、と心に決めた。
可愛い後輩を助けてくれた恩もあるのだし。

「良かったな、イルカ」

暗部が同じ動作をしていたとは知らない中忍がイルカの頭を撫でた時、閉じていた瞼が開いた。

「気が付いたか?!」

ぼんやりと見えた姿は、今回、一緒に任務に就いた中忍だ。
じゃあ、あの声も、あの温もりも、あの感触も、この人だったのかな、とイルカはまだはっきりしない頭で考えた。

「助けてくださって、ありがとうございます…」

礼を言いながら身を起こそうとしたイルカを止めた中忍は、一瞬、自分では無い、と言いそうになった。
しかし、ついさっき、本人から口止めされたばかりだ。
本当はコイツの礼の言葉を受けるのはあの暗部だが、と思いつつ、イルカには微笑みだけ返した。

「よく頑張ったな、もうすぐ医療班が来るから、それまでそのまま待っていろ」

そう言って、また頭を撫でる。
その手が、夢うつつで心地良さに浸ったものとは少し違うように感じながら、イルカは再び目を閉じた。
瞼の裏に映ったのは、流れる銀色。
何だろう、と気になった。
しかし、それについて思考を巡らせるだけの余力は残っていない。
間も無く到着した医療班と処理班の声を耳にしつつ、イルカの意識はゆっくりと遠退いていった。



 * * *



鏡に映った自分の姿の中で、時折、目が行ってしまう腹部の傷。
既に古傷のひとつになっているが、見ているといつも何か引っ掛かりを感じる。

これは、まだ下忍の頃、初めて人を殺めた時に身に受けた刀傷だ。
一週間ほど入院を余儀なくされたが、応急処置が良かったとかで、治療を受けた後の経過は良好だった。

退院してしばらくしてからあの時の中忍に改めて礼を言いに行くと、任務中に命を落としたと聞かされた。
イルカが関わった任務は無事に遂行されていたが、その中忍はすぐに次の任務へと赴いた。
そこで、負傷した仲間を庇って、自分が還らぬ人となってしまったらしい。
仲間の為に身体を張れる人だったのだ。
だとすると、やはり自分を助けてくれたのはあの人か。
違和感は拭えないままだったが、それでも慰霊碑に刻み込まれた名前に向かって頭を下げた。

それから幾年月が流れ…。

いくつか任務に当たり、無事に中忍試験に合格した。
そして、更なる激務をこなしながら数年過ごした後、アカデミーの教師へと推薦された。
話を聞くと、戦いの現場よりも教育の場の方が自分に合っているような気がして、その話を受けることにした。
元々子供好きだったし、事務的労働を厭わなかった、という面もある。
内勤になったと同時に、受付業務にも就くこととなった。
今までは送り出される側だったが、今度からは送り出す側に回ったのだ。

アカデミー勤務になり、何週間か経って仕事にも慣れた。
そんなある日、受付所に詰めていたイルカの前に、ひとりの人物が立った。
報告書を手にしているのは、はたけカカシ。
名前はよく聞く里の有名人だが、イルカは初めて会う。
元暗部だという噂を耳にしたこともある。
今は上忍で、長期任務を終えて里に戻ってきたところらしい。

カカシの左目が、受付の中忍をじっと見つめている。
その視線を受けながら報告書を受け取ろうとした時、イルカの腹部がしくりと痛んだ。
だが、勤務に差し支えるほどでは無い。

「お疲れさまです」

イルカは言葉に笑顔を添えて労った。

「どうも……」

口布に覆われた口元が、周りに気付かれない程度に緩む。

――― また、会えた……

カカシはこの再会に、運命を感じた。




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