Scene 2





 一人の青年が、じっとパソコンの画面を見つめたまま、動かない。
「何をやってるんだ、栗生?」
「あ?ああ、安藤」
 不意に友人に声をかけられて、栗生と呼ばれた青年は、慌ててそちらを振り
向いた。癖のない、柔らかな髪がさらりと揺れ、切れ長の薄い色の瞳が、驚い
たように友人に向けられた。しかし、安藤は慣れているのか、気にもとめず栗
生の見ているパソコンの画面をのぞき込んだ。
「それは、Jrの資料?あ、そうか、お前今日のミッションに関わってるんだっ
け。そいつが今日のターゲットか」
「そういうこと」
「なるほど、少しでも相手の事を良く知っておこうという作戦なんだな。がん
ばれよ」
「サンキュ」
 安藤は、何も疑わずに、友人のそばを離れた。
「ふう」
 彼…栗生利之は、視線を再び画面に戻す。そこには、Jrのメンバーである、
平井満のデータが映し出されていた。
 しかし、利之がそれをじっと眺めていたのには、実は、今日のミッションと
は何の関係もなかったのだ。
(やっぱり、似ている)
 利之は幾度目か解らない独白をくり返した。
 ずっと幼い頃から、彼は繰り返し、一つの夢を見ていた。
 一つの夢というのは、実は正しくはないかもしれない。
 それは毎回違う夢だったが、登場する人物は毎回同じだった。
 優しい顔をした、年上の青年。
 長い髪を一つにまとめ、濃い色の服に身を包んでいる。
 自分は、その人に憧れにも似たような感情を抱いているのだ。
 いつも、自分に優しく声をかけてくれて、笑いかけてくれて、何よりも、誰
よりも大事な人だと思っている。
 あまりに夢に見るために、現実の存在かと勘違いするほどに。
 名前は、解らない。いつも、親愛の情を込めて呼びかけているにもかかわら
ず、目が覚めるといつも思い出せない。ただ、……先生?と呼んでいるよう
な、おぼろげな記憶がある程度。
 そして同時に、自分がなんと呼ばれているのかも解らない。
 とても優しい声で、耳に心地の良い声で、話しかけてくれるのに。
(でも、夢なんだよ、な?)
 夢なんだと言い聞かせる自分と、あれは現実なんだと確信している自分。
 遙か昔にあったことかもしれないと、漠然と信じていた。
 だけど、その人と会うことなど、出来るはずもないと思っていた。
 いや、その人が今実在しているかどうかも解らないのに、何故会うことなど
出来る?
 それなのに。
 その夢の人物とそっくりな人が、よりによってターゲットだなんて。
(いやでも、会ってみると全然違うかもしれない。そうだよな。そんなもんだ
よ。きっと会ってみたら、自分を笑うことになるんだよ)
 無理矢理言い聞かせてみるが、やはり胸が痛むのを止めることが出来ない。
「栗生くん。栗生くん」
 今度は女の子の声がして、驚いて飛び上がる。
「ああ、びっくりした。青嶋さん」
 その子は、今日のミッションでくむことになっている、相手だ。
「そろそろ6時よ?上手くタイミングを合わせないと、怒られちゃうよ?」
 可愛い子だ。MSカンパニーの中でも、1,2を争う人気だという。でも、そ
れでもあの人に比べたら…。
「何見てたの?なんだ、今日のターゲット?そんなに緊張してるの?」
 彼女はころころと笑った。
「確かにあなたの役割は大事だけれど、あまり緊張してると墓穴掘るわよ?」
「……そうだね。じゃ、行こうか?」
 午後6時。ターゲットの平井満は、喫茶店に行き、そこで資料に目を通しな
がらコーヒーを飲む、というのを習慣にしている。
 そこで、彼を罠にかけるのが、二人に与えられた仕事だった。
「罠って言ってもなー、こんなベタな芝居に引っかかってくれるかなあ?」
「大丈夫よ。あたしに任せなさいって」
 青嶋は自信たっぷりに笑って見せて……利之は余計に心配になってしまっ
た。

 喫茶店で、ばっちり満を見付ける。そしてさらに上手く、彼の真後ろに席を
取ることが出来た。
 丁度利之の後ろが満である。僅かに顔を伏せて資料を見ているため、はっき
りとは顔を確認できなかったが、間違いなかった。
 オーダーを済ませたところで、別れ話を切り出す。
 つまり、それが罠であり。
 青嶋が一方的に利之を攻める。
 それがまた真に迫っていて、こんな時なのに、利之は感心してしまった。
(ひょっとして経験済みなのかなー?)
 そんな馬鹿なことを考えていたのが、顔に出たのだろうか。
 青嶋は本気で怒ってしまったようだ。
「……トシユキのバカっ!」
 そう言って手に握ったのは……利之がオーダーしたアイスコーヒー?
 おいおいうち合わせと違うぞっ、と思いながら利之は慌ててそれをよける。
 ……ということは。
 バシャッ。
 次の瞬間、店の中の空気が凍り付く。
 利之の真後ろに座っていた、満には、それをよける間も何も与えられること
はなく、彼は頭から見事にアイスコーヒーをかぶってしまっていた。真っ白の
ドレスシャツが、斑の茶色に染まっている。
ポタッポタッと彼の長い髪からアイスコーヒーが滴るのを、店中の人間が呆
然と見つめていた。
「あ、あたしのせいじゃないからねっ、トシユキがよけるのが悪いんだから
ねっ」
 青嶋が、叫ぶと同時にバッグを肩に引っかけて、店から逃げ出していく。
 それに慌てて気付いたように、店のウェイターがタオルを持ってきた。
「冗談だろ……」
 満は呆然としながらも手渡されたタオルでコーヒーを拭いはじめた。
「あ、あの、すいません、大丈夫ですか?」
 利之は自分でも間抜けだとは思いながら、そう尋ねつつ、満の正面に回っ
た。
(嘘だろ……)
タオルのスキマから、ちょっと困ったような笑みを浮かべたその青年は、紛
れもなく自分が探し求めていた夢の中の『あの人』に間違いなかった。
 パソコンで見た、デジタル写真とは全く違う。
 実際に目の前にしたその青年は、夢の中で会うあの人と、そっくりだった。
(どうして、よりによって?)
混乱する利之の耳を、満の柔らかな声が打つ。
「とりあえず、大丈夫だよ。別に怪我をしたわけでもないしね」
 この話し方も、口調も、声までも。
 どうしてこんなにも『あの人』に似ているんだ?
「でも、全身アイスコーヒーまみれで、本当にすいません」
 動揺を何とか押し隠して、利之は、ぺこりと頭を下げた。
 そう、これからが本番。
 胸の痛みと戦いながら、利之は僅かに笑みを浮かべてこちらを見ている満
に、伺うような目で、続けた。
「あの、俺の家がこの近くなんで、良かったらシャワーでも浴びていって下さ
い」
 これが本当だったら。
 真実だったら。
 この人と、どんなことでも良い、ただの知り合いになれたら。
「いや、かえって申し訳ないだろう、いくらなんでも」
 流石に断られる。そりゃそうだよ。断るよ普通。怪しすぎる。頼むから、お
願いだから、このまま断って。
「いえ、本当に。いくら何でもこんな姿で町中歩けないでしょう?」
 本音とは裏腹に、打ち合わせ通りの言葉が口をついて出る。
 こんな事が言いたいんじゃないのに。
「それもそうだね」
 軽く頷いて、満は髪を拭きながら考えている。
断って下さい。
 これで、あなたをだまさなければならないなんて、酷すぎる。
 こんな事で引っかかってくるなんて、思いたくない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな?」
 そう言って、にっこりと笑った満の顔に、何とも言えない胸を痛みを覚え
た。
 それが表情に出たのだろうか、満は僅かに首を傾げ、こちらを見て問うた。
「なにか?」
「いえ、あの……」
 そこで利之は言いよどんだ。
しかし、次に口をついて出たのは、言った本人でさえ、唖然とするような言
葉だった。
「失礼ですが、どこかでお会いしたこと、ありませんか?」
 何を聞いているんだ。
 しかし、口に出してはじめて、それこそが一番聞きたかったことなのだと気
付いた。
 その利之の気持ちを知ってか知らずか、満はにっこりと人の悪い笑みを浮か
べながら、言ったのだ。
「それは新手のナンパなのかな?そういうことは、女の子相手に言わないと
ね」
胸が痛い。
 多分、夢の中のあの人ならば、そう言うだろう台詞を、目の前のこの青年が
口にしただけで辛いだなんて。
 ああ、どうして?
 どうして自分はこの人をターゲットにしなければならない?
 この人は、『あの人』ではないとしても、あの人にそっくりだ。
 ずっと求めていた、あの人に。
 利之は、出来るだけさりげなさを装ったが、頬が紅くなっているのが自分で
も解った。
「あ、すいません、そんなつもりじゃなかったんですけど……行きましょう
か?」
「そうだね」
 満はウェイターにタオルを帰し、荷物をまとめて立ち上がる。
「あ、俺は栗生利之、です。あなたは?」
 せめて、違う名前を言ってくれたら。
 嘘でも良いから、平井満という名前以外の名を言ってくれたら。
 そしたら自分は、MSの他の人を誤魔化してでも、なんとしてでも、この人を
別の……安全なところに案内できるのに。
「私は平井満だよ」
 どうして、そんなところで正直なんだ?
「こちらです」
 利之は、満を作戦通り、人気のない路地に導いた。
 何かを話したが、何を話しているのか、自分でも解らない。
 路地。
 ここで満を狙撃する。
 それが作戦。其の一。
 狙われているのに、満は全然変わらず、どうでも良いようなことをニコニコ
と話している。狙われていることに、気付いていないのか?
 殺気を感じる。自分でも解るのだ、この人に解らないはずはない。
 なのに、満はやはり同じ優しい笑顔で、話をしている。
 …銃口が、彼に狙いを定めている。自分は何も手出しせず、ただ見ていれば
いい。
 利之の理性はそう言っていた。しかし、彼はそうできなかった。
「危ないっ」
 前後の脈絡も全く関係のない言葉に、満が驚いて振り向く。その満をかばう
ように、利之は満に飛びついた。
 直後、銃声が響く。
「っ!!」
 ……痛いというよりも、熱い。
 銃で撃たれるだなんて初めてだ。なのに自分は、何故かそれを知っている。
 衝撃に崩れる自分を、満が慌てて支える。
 やっぱり俺は、この人を知っている。この腕の感じを、覚えている。
「畜生っ」
 どこかで、MSのメンバーが舌打ちするのが聞こえた。
「囲まれてるか」
 静かな声で、そっと満が呟く。そして、さっとポケットから小さな丸薬を取
り出して、思い切り地面に叩き付けた。
 僅かに癖のある爆発音と共に、煙幕が広がる。
 煙玉?
 満は利之を見つめながら、早口で囁くように尋ねた。
「大丈夫?」
「あ、はい」
 利之の言葉に、満は頷くと、しっかりと利之を抱きしめる。肩が痛かった
が、その痛みすら、どこか心地よかった。
「初めてだとちょっと辛いかもしれないけど、すぐだからね」
 囁くような満の声が耳元でしたのと、「何でも良いから煙の中をうっちま
え」という、MSのメンバーの怒声が聞こえるのが同時だった。
「……100年早いよ」
 満の、かすかな呟き。
 そして、次の瞬間、利之はめまいを感じて満にしがみついた。煙が無くなっ
ていて、辺りを見回してさらに驚く。
 それは、さっきまで居た路地ではなく、どこかのマンションの廊下だったの
だ。
 満はちらっと表札を確かめると、すぐにチャイムを鳴らす。
 その表札には堂々とした筆跡で、『高龍華』を書かれていた。

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