異野鳴之


金色のたからもの


音もなく雪が降る。ひらひらと。白い花びらのように。

木の葉や土の触れると、跡形もなく溶けてしまう。

それでも一晩あまり降り続いたなら、この山も白一色で埋め尽くされるだろう。

ちくしょう。

痛みと寒さに震えながら、きり丸の頭はその言葉でいっぱいだった。

きり丸はまだ子供の狐だ。父狐は大変妖力の強い立派な狐だったらしいが、その
力を恐れた人間たちに退治されてしまったらしい。まだきり丸が生まれたばかり
で、目も開いてないころの話だ。

「確かに悪さが過ぎたが、狐じゃもの。仕方なかろうよな」
大杉の根元で暮らしている長老狐は、やりきれなさそうに溜め息をついては、そ
う言った。

母狐がいつも一緒だったから、きり丸は少しも寂しくなかった。長老狐から変化
の術を教えてもらい、もう立派に人を化かす事だってできるのだ。

だけど今はまるで駄目だった。尻尾は狐の妖力の源なのに、その尻尾を縄で括ら
れたうえに木に吊るされてしまっては、何もできはしない。

ちくしょう。

もう一度、きり丸は毒づいた。ここは寺の裏庭で、きり丸を吊るしたのはこの寺
の住職で、これは仏の罰だということになるのだろうが、人間しか守らないよう
な仏など狐が敬うわけもない。母狐は前の前の晩に、野犬からきり丸を守ろうと
してかみ殺されてしまった。

母が救ってくれた命だ。こんな所でみっともなく死ぬ訳にはいかないのだ。

覚えてろよっ!絶対絶対逃げ出して、かならず仕返ししてやる!

その怒りだけが、弱りきったきり丸の心と体を支えていた。
「おや?子狐だ」
ふいに、人の声がした。若い男の声だ。こんな切羽詰った状況(きり丸にとって
は)だというのになんて呑気な声だと思っていたら、段々と足音が近づいてきた。

「どうしたんだ、お前。なんでこんな所で吊るされてるんだ?」

ぬっと男の顔が現れる。団栗のようにくるりとして、大きな瞳だった。きり丸の
尖った鼻先を掠めそうなくらい間近だったので、思わずぎょっとしてしまった。

「一人なのか?お父さんかお母さんは?」

どこかの迷子にでも対するような気安さで、男は話し掛けてくる。量の多い髪を
頭のてっぺんで無造作に束ね、紺色の小袖を着ている。まだ少年のようにも見え
たが、それにしては、物腰が妙に落ち着いているようにも感じられる。不思議な
印象の男だった。

「こりゃ、半助。それに構うな」
お堂の方から出てきた住職が、きり丸に好奇心いっぱいの様子で近づく男を嗜め
た。半助と呼ばれた男は、人懐こい瞳で住職を振り返った。

「これは和尚の狐ですか?」

「悪戯ばかりする性悪な化け狐よ。村の衆が捕まえて連れてきおった。悪さので
きんように、石にでも封じ込めてやるさ」

くそじじいっ!生臭坊主っときり丸は力いっぱい喚いたが、もちろん住職に分か
るわけもない。それは半助も同じだろうに、なぜかしげしげときり丸を見つめて
いる。

「それはそうと、今日は何の用じゃ、半助」
「ああ、これです。まだ少し早いのですがお裾分けにと思って。どうぞ召し上が
ってください」

「おお、これは立派な大根じゃ。いつもすまないのう。どれ、雪が積もるのも日
が暮れてからじゃろう。熱い茶くらい煎れてやるから、一服して行け。こう寒く
ては年を越す前に凍え死んでしまう」
むしろ筵に包まれた大根の束を抱え意外とかくしゃくとした足取りで、住職は寺
の中へ戻って行った。はい、ありがとうございます、と如才なく返事をしたあと、
半助はくるりときり丸の方を向いて、子供のように笑った。

「さ、逃がしてやるから、もうひどい悪さをするんじゃないぞ」

そして懐から出した小刀で、きり丸の尻尾に食い込む縄をすばやく断ち切ってく
れた。

何日振りかで自由になったきり丸が身軽に地面に降り立つと、もう半助は背中を
向けていた。

つかの間その後姿を見つめ────、きり丸は山を目指して走り出した。

山に帰ってからも、きり丸はずうっと忘れなかった。
一瞬向けられた、あの邪気のない笑顔を────。



今年の冬は厳しそうだ。

初雪も早かったし、冷え込みもきつい。
しんどいが、今のうちに色々と備えておかなくてはならないだろう。
何せこんな山の中の一軒家だ。雪に埋もれてしまったら、里村に降りることもで
きない。

半助は軽い咳を繰り返しながらも、芝刈りに励んでいた。
と、木々の間から、ひょっこりと一人の童が顔を出した。細い手足の、きつい眦
をした男の子だ。

「あの、俺…」
半助が顔を上げて不思議そうに見ていると、男の子は少しモジモジとしだした。
なかなかその先が進まない。
半助は手を休めて一息つくと、「やあ、何か困っているのかい?」と笑いかけた。


男の子は、きり丸と名乗った。

もちろん子狐のきり丸が化けた姿だ。

きり丸と半助はすぐに仲良くなった。最近あまり体の具合が良くないらしい半助
を心配して、きり丸は毎日のように半助の家を訪れた。

以前どこぞの大名が湯治にでも使っていたという、小さな造りながらもきれいな
屋敷だ。「その大名家はもう没落してしまったらしいので、勝手に使わせてもら
っているんだ」と半助は言っていた。

なぜ里に住まないのか、と訊ねたら少し黙ったあと「戦の話を聞きたくないから
かな」とポツリと呟いた。きり丸が怪訝な顔をすると、照れ隠しのように笑って
それ以上は答えてくれなかった。


半助は、何もきり丸に訊ねようとしなかった。どこの家の子供なのかとか、こん
な所に一人で何をしているのかとか、ただの一度も───。きり丸が名乗らなけ
れば、名前すら知ろうとしなかったかもしれない。

半助は、きり丸が知っているどの人間とも、違う人間だった。
────「その人間なら知ってる。父ちゃんに聞いたことあるよ」

きり丸が半助の元に通い始めて十日ほど経ったある日、久しぶりに会った乱太郎
がそう言った。乱太郎はきり丸の友達で、山猫の子だ。しばらく会えなかったき
り丸の話を聞いているうちに、なぜか段々と心配そうに顔になってきている。

「この山に来たのは前の前の夏くらいの時だって。その時は二人だったって」

「うん!僕も知ってる!」
話に加わってきたのは、子狸のしんべヱだった。きり丸と乱太郎の共通の友達だ。

「しばらくあのおうちで二人で暮らしていただけどね、春になったら、もう一人
の男の人は山を降りちゃったんだって。戦に行ったきり、戻ってこないらしいよ。
だから今はあの人一人きりなんだよ」

しんべヱののんびりした声は、少し悲しそうだった。特に人間を嫌っているわけ
ではない子狸は、ひとりぼっちの半助を可哀想だと思っているのだろう。
初めて聞く話に、きり丸は複雑な気持ちになった。切ないような胸の痛みと共に、
半助の笑顔や言葉が思い出される。

“戦の話を聞きたくないから───”

(そうか。それだからか…)

そんなきり丸を見つめる乱太郎の目はますます心配げだった。

「ねえ、きり丸。恩返しもいいけど、あまり一生懸命になったら、つらいのはき
り丸だよ?」


乱太郎の気持ちも分かるのに、きり丸は一日たりと半助に会わずにはいられなか
った。

今日も三匹の山女を手土産に、山の中の一軒家を訪ねると、半助は洗濯物を干す
手を止めていつものように笑顔を見せてくれた。

「ちょうど良かった。今朝、寺の和尚のところに芋を届けに行ってね。大福を頂
いてきたよ。一緒に食べようか」

「寺…?」

屈託なく言われて、きり丸はギクリとした。あそこでは、嫌な思いを沢山したの
だ。

あまりに悪戯が過ぎると村人たちは怒っていたが、きり丸にとっては悪戯などで
はなく、子狐一匹で生きていく為の知恵だ。苦労して山の中で狩りをするよりも、
人間たちを騙して食料を手に入れる事の方が、ずっと楽だと思っていたのだ。

本当は全然違っていたのだけれど…。

きり丸を縁側に座らせて、半助はお茶の用意をしに家の奥に引っ込んだ。寺の話

はそこで途切れてしまったのだが、何か、罪咎に問われはしなかったのだろうか。
“性悪の化け狐”が和尚の目を盗んで逃げてしまったことで…。

気にはなっても、どう聞いたものかも分からない。こうして何事もなく済んでい
るのだから、大丈夫なのだとは思うのだが。

すぐに半助はお茶と大福を持ってきてくれた。

しばらく二人並んで大福を頬張った。

半助は美味しそうに食べている。甘いものが好きなのだろう。狐のきり丸はそう
でもないから、自分の分を半助にあげてもいいと思うのだが、きっとそんなこと
をすれば却ってがっかりさせるだけだということも分かっていた。

「あの、寺に行って…何か…」
かじりかけの大福を見つめながら、きり丸はようやくそれだけを呟いた。

「ん?」と半助がきり丸を見る。

「あ、いや、寺へは、よく行くのかな…と思って…」
結局、尻すぼみになってしまった。半助は、うーん、と唸って、

「なつかしい空気だから、つい…」
「なつかしい?」

「私はここよりずっと西の村の寺でね、子供たちに学問を教えていたんだ。その
村も戦で焼けてしまったけれどね」

「がくもん?」
「…。お前、読み書きはできるのかい?」
「ううん」

「今度、教えてあげるよ。覚えて損はないから」
なんだか良く分からないまま、きり丸は頷いた。

「一緒に暮らしていた人も、“がくもん”をしていたの?」
「───そんな話、誰に聞いたんだ?」

「…友達」

半助の表情が瞬間曇ったので、きり丸は恐る恐る答えた。

半助は溜め息をついて、仕方なさそうに微笑んだ。

「違うよ。彼は、地方の国衆の息子でね。まあ、地侍なんだが…私の村が戦に巻
き込まれたとき、私を連れて逃げてくれたんだ。ここまでね」

「お侍だから、戦に戻ったの?」

「ほんとに良く知ってるな」

ぽん、と半助の手がきり丸の頭の上に置かれる。

「焼かれてしまった村は私にもとても大切な村だったからね。守るって言うんだ
よ。守って、村から争いがなくなったら、迎えに来るって…。若いから、一生懸
命だったから、行かせてしまったなぁ。止めれば、良かったんだけど…」

その人の姿を追うかのように、半助の両目は遠い遠いところを見つめている。傍
らにいながら、きり丸は黙ってその横顔を見守るしかなかった。

どうして、ついていかなかったの。

なぜ、追いかけないの。

その人を、待っているの?

浮かんでは無理に飲み下す、いくつもの問いかけ。これ以上余計なことを言えば、
本当に半助が消えてしまいそうで、…きり丸は怖かった。

不安な沈黙が続き、きり丸は勇気を出して落としていた視線を上げた。

その刹那─────。
「…っくぅ…っ」

半助が、胸を押さえて蹲った。

苦しげに丸めた背中が、激しく上下している。

「ど、どうしたの?!」
叫んで、きり丸は半助を抱き起こそうとした。

半助は、そのままきり丸の腕の中で、気を失った────。


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